冷たい朝
ラズロは、コナー夫人の夫が飛び降りたとされる運河の柵の前に立っていた。
草臥れたコートの襟を立て、突き刺さるような冬の朝の寒さに首を竦ませる。
靄のかかる、いつも通りの灰色の朝。
「…………さて、どうしたもんか」
来てみたところで……とラズロはガリガリと頭を掻いた。
捜査課の連中が、とっくにしっかり調べたはずの場所だ。いまさら、ラズロひとりが改めて見たところで何が出てくるわけもない。
これは同情で、感傷だ……とラズロは自覚していた。
あの憐れな未亡人は、これから女手一つで幼な子を養っていかなくてはならない。罪深い自殺者の家族として心無い言葉や視線も受けるだろう。
教会は彼女を救わず、警察も同じ。
「はぁ…………キツい」
希望がない。あまりにも。
せめて自殺ではないという新しい証拠が見つからないか、事故でもいいのだ。
そう思って来たはいいものの、状況と現場を見れば見るほど事故の可能性は否定された。
柵は高く、間隔は細い。
赤子の頭すら通せないだろう。
仮にひどく酔っ払っていたとしても、足を滑らせて運河に……とはならないだけの高さがある。
意識的に乗り越えていくか。
或いは。
(誰かに投げ込まれるか……)
ラズロは苦笑した。
そうなればもう事件だ。さすがにそれを見落とすほど捜査課の連中も節穴ではないだろう。
遺書がないのは突発的な希死念慮のせいだろう。
遺品がやけに少なかったのもすでに説明はついている。
コナーは一月前に揉め事を起こして仕事をクビになっていたという。そのことを夫人には黙って、身の回りのモノを質に入れたり方々に借金したりして誤魔化していたらしい。
コナーは追い詰められていた。
自ら飛び込む理由がありすぎるのだ。
夫人がどれほど夫を信じていたとしても、夫婦の間にだって秘密はある。
「……なにを、しているんですか」
ふいに、ラズロの背後から硬い声がした。
振り返ると、相変わらず泣き腫らした顔を黒いヴェールで隠すコナー夫人が立っていた。
腕の中には赤子、もう片方の手には小さな幼な子。
「や……おはようございます……。その……ええと、川を……見てまして……はは」
コナー夫人の眼差しは厳しいものだった。
昨日、淡々と事務的に遺品を突き返してきた警察の男が、夫の死の現場に突っ立っているのだから無理もない。
「そうですか……再捜査をしてくれるつもりは……」
「申し訳ない……私は単なる証拠管理室の者で……捜査の権限も、ありませんし……」
夫人は溜息を吐いた。
それは白くけぶり、彼女の重苦しい気持ちを可視化させているようだった。
「ぱぁぱ、まだおしごと?」
夫人と手を繋いだ幼な子が、きょときょとと、母とラズロの様子を見ながら呟く。
ラズロはその子の言葉に夫人をちらと見遣った。
「……言ってないんです、まだ。……言ってもきっとわからないでしょうし……」
父の死を理解するには、たしかに幼すぎるこだった。ラズロの見立てでは二歳か三歳か。夫人の腕の中ですやすや眠る子は一歳にも満たないかもしれぬ。
「…………」
何か、力になれることは、と喉元まで出掛けた言葉をラズロはぐっと飲み込んだ。
あるわけもない。
夫人が唯一求めるのは、再捜査とそれによる夫の名誉の回復だろう。それが無理なことはラズロこそがよくわかっていた。
「それでは……私はこれで……仕事に行かないと、なので……」
夫人は答えなかった。
ヴェールの下で、どんな気持ちで運河を見下ろしているのか、ラズロにはわからない。
「おじちゃ、ばばい!」
何も知らない幼な子だけが、重苦しい朝の靄を振り払うように手を振っていた。
◇◇◇
証拠管理室には、調書のファイルもしまわれている。
解決済みの棚には、埃をかぶったものも多い。
ラズロは、その中のまだ真新しい解決済みの棚から、コナー事件の調査ファイルを引き抜いた。
【マイク・コナー 三十歳
ウェルズ運河への飛び込み。
目撃者証言と、マイク・コナーの行動容態からこれを自殺として処理。
『目撃者ビル・ドーソンの証言』
→思い詰めたみたいな顔して、飛び込んでったんだよ。ビックリしたよぉ……ほんとさぁ……。
特記事項→ビル・ドーソンの手に傷。署員により処置。】
コナーの行動容態というのは、揉め事からの失職と借金などのことだろう。
ラズロは目頭を揉み、ハァ……と深く嘆息した。
「目撃者までいるんじゃぁ……」
お手上げではないのか。
「ん……待てよ……ビル・ドーソン……ちょくちょく見たことある名前だなァ?」
ラズロは自身の記憶の中に引っかかる微かな違和感を拾う。
それは、ただどうにかしてあの母子を救えたら……という、個人的願望と思惑からの些細な希望でもあっただろうか。
ラズロは幾つかの調査ファイル棚に手をかけた。
それは、前科前歴者を纏めたものだった。
「……ビル・ドーソン……ビル・ドーソン……ビル………あ」
幾つも並ぶビルという名の中から、ようやくひとつ見つけ出す。
目撃者と同じ名前の、二ヶ月前に仮釈放されたばかりのスリ犯。
「……同姓同名ってだけかもな。そもそも、たとえコイツだとしても……」
前科者だからというだけで、証言そのものの信憑性が毀損されるなどあってはならない。
予断、偏見、先入観……そうしたことが冤罪を生むのだとラズロもよくわかっている。
「…………もし、あの力が、本当なら。何か見えたら……どうだ?」
脳裏に浮かぶのは、不機嫌そうな顔の青年の顔。
ラズロが握らせた弾丸にひどく苦しんだそぶりを見せて。
「あいつ……“まさか刑事だとはな”……って、言ったな……」
ポケットの中に隠し持った弾丸を、ラズロは布越しに握った。
「賭けて……みるか……」




