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第八話 彼女は狂っていなかった|〈解母〉

母との日々では、感情は動かず、欲には鈍くなっていた。ただの『生命』だけが維持されている感覚だった。


完璧に僕を支配した母であったが、綻びがひとつだけあった。見栄のために、息子に『知識を得る力』を与えた。これらは、致命的な誤算だっただろう。


そして、感情と欲を失った僕の思考は、研ぎ澄まされていた。


拘束されるだけの時間は、『母の観察と分析』の時間に変わった。


ケージで怯える実験用マウスと母が同調した。そこに憐みはあるが、慈悲はない。


僕は、観察を続けるうちに、母の振る舞いに明確な法則を見つけた。


まず、母は常に中心でなければならなかった。


家族だけではない。空間・場所・時間を問わず、通りすがりの会話においてさえ『ずれ』を恐れていた。


それを補正するために平気で嘘を作る。嘘は母の中で整合され、記憶される。この反復によって、記憶が強化され、それが真実となる。


そして他人の記憶より自分の語りが優先される。だから、彼女には、嘘をついているつもりは毛頭なく、常に他人が嘘つきになる。こうして、倫理は消える。


次に、賞賛は彼女の生きる動機であり、それが尽きると次の供給源を探す。


母はかつて「小町」と称されるほどの美人だったらしい。しかし、歳を重ね、自分では称賛を得られなくなり、子供をその供給源のひとつに置き換えた。子供が賞賛されれば、その遺伝元である母も賞賛の的であると解釈した。そうして、母は息子ふたりに対して支配欲を持ったのだろう。


こうして、母を『親』ではなく、単なる観察対象として切り分けた。


恐怖は理解に置き換わり、分析が娯楽となった。


母には、他人の痛みを感じることも、立場を理解することもできない。痛みを参照する回路が欠落していた。だから、幼子を縛り、吊るすことができた。


だが、感情はある。むしろ異常なほど強く、そして自己中心的だ。小さな不調和が即座に激怒を誘発した。


彼女は、自分の思い通りにならないことに激しく反応した。戦慄させるほどに、怒鳴る、泣く、責め立てる。


他人は、その負の感情を発動させる『きっかけ』にすぎない。母にとって他人は『使えるか』『使えないか』でしか分類されない。使える者は囲い込み、使えなくなった者は切り捨てる。


「親父は死なせない。障害年金稼いでもらわないと。」


だから母は、普通なら思っても言えないことを笑いながら口にできた。


母は、純粋に『自分のため』が行動原理だったのだ。


彼女にとって、自分の利のための行動は、ただの生理現象だ。だから、善悪の線引きなどありえないのである。


つまり、母には、他人を攻撃する『悪意』はない。


恐ろしいことだが、彼女の中では、本心から息子を想って支配していたことになる。


そして、息子を次の『支配する親』に育てることが、正しい教育だと信じていた。


母の言動は、狂気ではなかった。他者を排除する分、むしろ理路整然としていた。


その整合性の中に、倫理だけが存在しなかった。


不思議なことに、虐待された幼少期でも、逃亡中でも、一度たりとも殺意を抱かなかった。殴りたいとすら思わなかった。


倫理のゆえであったのか、それとも、これが支配の影響か。母を観察の対象としていたからかも知れない。


ただ、『子の道徳』であったと、今は信じたい。


「おまえは、冷たい子だ。」


僕に何かをさせたい時、必ず母が言っていた。


「だから、おまえは誰にも好かれない。お母さんが必要だ。」


続くこんな言葉も、もう僕には効かなかった。


そう、僕は『冷たい』のだから。


マウスは、一方的に感謝されて、処分される。理解に、共感は要らない。観察対象を静かに『死なせる』ための、確かな覚悟と愛護の放棄をするだけだ。


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