第七話 母の檻の中で|〈子贄〉
長い逃亡生活の中で、僕はあらゆる希望を探していた。本に弁護士に心療内科に。だが、どれほど饒舌であっても、要約すればたった三文字――「逃げろ」だった。
誰かに相談すれば、安易に言われた。
「電話番号変えたら?」と。
それは不可能なのだ。
母は、市役所に僕の連絡先を聞きに行く。その連絡先が使えなければ、僕は『行方不明』となる。それで捜索願が出されてしまう。結局、捕まる。
制度が、親子関係を絶たせないのだ。
分かっている。誰も悪くない。家族は、個人を『守るため』の制度なのだから。
「少しのストレスが生活を元気にするって言うじゃないですか。そう思って、今の生活も楽しんだらどうですか。」
そう言われた時、自分の太ももをペンで刺し、殴りたい衝動を抑え込んだ。この言葉の主については書かないでおこう。
当事者意識のない意見に、一瞬だけ血が上るが、すぐに自制した。絶望の重ね塗りに、僕の心はもう動かなくなっていった。
驚いたのは兄の変貌だった。兄は母の支配に徹底して反抗していたはずだった。ところが、兄の声の抑揚、目の動き、息遣い、言動のすべてが母に似ていった。
依存先だった父が『使えなく』なった後、その矛先は兄に向いた。兄は母と共に『摂取する側』に回ることで、それを回避した。ある日の僕に向けられたその目は、もう兄ではなく母そのものだった。
母の依存先は、もう僕だけになっていた。
誰であれ、僕を庇えば、母からの攻撃が待っている。
だから、母が接するすべての人は、逃げる僕を制した。
「その場所に母を留めておけ」と言わんばかりに。
そうか、僕は『生贄』として捧げられたのか。
定時で帰らなければ、制裁を受ける。仕事帰りの一杯など、逆鱗に触れる。家に帰ったところで、金切り声が鳴り響く阿鼻地獄。
給与が振り込まれる口座は、母に奪われた。その金で、母は兄が欲しがるものを与えた。兄が持つバイクや車、家具、テレビは、僕の給与から支払われた。
毎週末は、母子で食事を強いられた。周囲からは「仲の良い親子」だと、母はご満悦だ。
時間も金も意志も、何もかもが摂取された。
その間にも、時間が抜けていく。僕からは、音も光も、感覚すらも失われていった。
まるで五感全てを失ったように静かなところに辿り着いた。
ここが父の暮らした『世界』だったのだ。
母は、積み上げた積み木を嘲笑いながら崩す。
積み上げて壊されての繰り返しに、積み上げる前から、壊される情景が浮かぶようになる。
壊されるたび、少しずつ、何かが削れていく。削れていく。少しずつ。確実に。
だが、それが何だったか――思い出せない。
母に良心の呵責などない。積むのを止めるまで、徹底して追い詰める。
積み木を崩す母の歪んだ笑顔を、忘れることはない。思い出されるたび、息が重くなる。
僕に残ったのは、惰性だけだった。
パブロフの犬か、ある種の諦めか。
闇の中で、能面を見上げて過ごすだけの日々が続いた。
それでも、寂しいとは思わなかった。むしろ、独りの方が落ち着けた。
悲しいと感じることはあった。でも、泣くことも無かった。
だが、理屈と感情の外で、身体が拒んでいた。
母と同じ空間に居るだけで、心拍が上がり、呼吸が浅くなった。声は聞こえず、耳鳴りだけがこだました。皮膚表面の血流が止まり、指先の温度が消えるのが分かった。
『かつての』鉄の冷たさと匂いが、脳裏に何度も再生された。それでも、変わらない生贄としての日々を送るしかなかった。
鬼を、世に放たぬように。
世界が壊れぬために、僕が静まるしかなかった。
もう、恨むことすら、諦めていた。




