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第六話 呪言の果てに|〈成呪〉

逃亡し続けていたある日、目覚めたら知らない部屋だった。


窓からの風に桜の匂いがした。眠る前は、雪が降っていたのに。


夢だと思った。


この数年前に、父が多系統小脳萎縮症にかかってしまった。まだ身体は動くものの、日常生活に介護が必要であり、父も逃亡を諦めた。そこで、父の貯蓄で新しい家を買って、また、夫婦で住んでいた。


その父の介護責任のお願いで、保健所から連絡が頻繁に来ていた。母の介護には、『放置』が透けて見えていたからだ。僕は母から逃げるために、それを断り続けていた。


その先からの記憶が無かった。


枕元にあった手帳を見た。どうやら僕は、四ヶ月くらい記憶を失っていたらしい。


手帳の内容やパソコンに残る痕跡から、自分の足取りを探った。自分の字を読むたびに、心音が内に響いた。


手帳によれば、僕は何度となく保健所に行っていた。父が短期入院する度に、保健所から僕に連絡が入っていた。母は父の引き取り人に僕を指定したのだ。そうすれば、母は簡単に僕を捕まえられるから。


保健所は、僕の言葉など理解しようもせず、ただ引き取るよう説得してきた。症状が進行する父を見せつけ、僕の良心を刺激した。


「あなた、息子さんでしょう。お父さん、かわいそうじゃないの?」


この意味を、様々な言い回しで、延々と叩きつけられた。


母や兄、親戚だけではなく、行政にまで逃げ道を奪われていたのだ。それで、父が運ばれる度に、僕は母に捕まっていた。


葛藤の末に家に帰ることを選んだのか、それとも疲れ切って諦めたのか。この記憶が戻る前夜に、母の下に戻っていた。


理由は書いていなかった。


少なくとも、手帳を読んだ僕は、思い出された喪失と緊張と怒りで、発狂せずにはいられなかった。


叫びたい衝動を飲み込み、強い動悸と震える血管を感じながら、なにか理性の終わりのようなものを見ていた。


逃げたはずの父が、部屋で寝ていた。もう立つこともできなくなっていた。


父の痩せた寝顔を見た瞬間、長年の逃亡の全てが無意味になった気がした。


四十二度の高熱の子供を放置して飲みに行く母親だ。これ以上僕が逃げれば、父は死ぬ。


父の介護を言い訳に、かわいそうな母を演じられる。今まで以上に『あの呪言』が効いてしまう。


母に詰められ、塞がれた。


もう打つ手が無かった。


あそこでの『逃げ』は最悪手だった。逃げながらでも、先に父を拾う体制を整えるべきだった。当時は、そう反省するしかなかった。もう僕は、母を中心にしか考えられなくなっていた。


二十二歳で逃亡をはじめ、この時はすでに三十三歳だった。


移動のたびに、知らない土地で、新しい生活を作った。突如、その生活を捨てる。その繰り返し。


同窓会や友人の結婚式などには出たことがない。周りはもう子育て世代だった。


時間を取り戻すことはできない。ライフイベントの全てを僕は捨てて生きてきた。


僕の人生は母が死ぬまでやってこない。


寝たきりになった父が目を覚ましたとき、何年ぶりか話をした。互いに「もう疲れたな」と、それしか言葉が出てこなかった。


父の手を握った。動かずとも暖かかった。


僕は、プロジェクターを購入して、テレビやパソコンを天井に映し出せるようにした。

そして、眼鏡を。これが、最初で最後の父へのプレゼントだった。


償いなのか、優しさなのか、呪いなのか、『父のために』そうすべきだと思った。


そして僕は、母の傀儡となった。


目を覚ましたあの日、上機嫌な母が運転する車の助手席から、桜吹雪を見て、僕は透けるように耗れていった。


それから僕は、花見に行けない。あの終滅を思い出すのが怖いのだ。


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