第五話 終わらない追跡|〈献呪〉
母は、表向き「成功した主婦実業家」だった。この時の母は、大らかであった。
あの爬虫類のような硬い表情は無く、ずっと笑顔だったような気がする。父を追いかけまわすことも無かった。
父は逃亡先で趣味の釣りと将棋を楽しみ、兄は大学生活を満喫していた。我が家が穏やかだったのは、この期間だけだった。
しかし、所詮は素人だった。その翌々年に、新商品の開発に失敗し、多額の借金を背負い倒産した。
お金は人を狂わせるものだ。
給与未払いとなった従業員たちは、まだ大学生の僕に「親の代わり」を強要した。徒党を組み、遠隔地にまでやってきて、僕を取り囲み、「お前が借金してでも給与を支払え」と言い放った。
それを市役所に相談したら、むしろ、競売にかけられた家から出ていかない母を引き取れと言われた。
散々抑圧されてきた父や兄は、それを拒否したため、僕に役目が回ってきたのだ。
迎えに行くと、赤札が貼られた御殿の窓は割られ、家具は盗まれていた。
その日も、軽トラックに乗った夫婦が、御殿を物色して運び出していた。僕を目の前にしても、無言の嘲笑で。
この瞬間だけ、母だけが真人間なのかと感じた。
全て失った。
全てを取られた。
飼っていた犬さえも。
能面の母に、戻っていた。
僕はまだ学生だったからか、遠い親戚が母を受け入れてくれた。その方に母を引き渡して、一段落となった――はずだった。
母からの電話も無く安心していたある日、マンションに帰ると電気がついていた。
合鍵を渡していた彼女かと部屋に入ってみると、そこに居たのは母だった。
リビングの真ん中で正座をしてこちらを見て微笑んでいた。
比喩ではなく、目の前が真っ暗になった。
倒れた僕に母は言った。
「ほら、やっぱりお母さんが必要でしょう。」
母は、『差し出された救い』さえも反故にし、追い出されてしまったのだ。
「家族だからね。管理人さんが入れてくれたのよ。」
この時の絶望は死ぬまで忘れられないだろう。
それから僕は、母に取り憑かれた。
内定先に電話され、
彼女の家を訪ねられ、
訪ねてきた友人を帰された。
一瞬で全てを失った。
金銭的にも精神的にも、完全に依存された。
食事は共に食べなければならない。
休日は共に過ごさなければならない。
子は親に孝行しなければならない。
だって、「家族だから」。
母の全てを肯定させる呪いの言葉だ。
自由を知ってしまった僕は、もう母と共には暮らせなかった。
就職を機に、僕は母から逃げた。
母は追ってきた。
暗い森の中、灯りもなく逃げた。北に南に、生活を作り、捨てながら。
魔女は、執念深く追ってくる。石につまずき、木にぶつかりながら。
行政は『子』を守ってくれない。
僕と母は「親子だから」。
法は、僕を追い詰める。しかたなく、国外へ逃げた。それでも母は、僕の知り合いを困らせて、帰国せざるを得ない状況を作り出した。
どこへ逃げても、四面楚歌に陥っていた。
こめかみは常に痛み、心拍は下がらない。
それでも逃げつづけるしかなかった。
兄、祖母、親戚、友人、警察までもが、『あの呪言』を。
「どんな親でも親は親だ。」
母は言う。
「みんな心配してるから。」
隠れても隠れても、『家族』の魔法で見つけられてしまう。
終わらない鬼ごっこに、僕の髪色は抜けていった。
止まらない嗚咽とえぐるような腹痛に何度となく倒れた。
病院に行くたびに言われた。
「休みなさい。」
これすらも、もう呪いの言葉だった。休めば捕まる。休めないのだ。
あのときの声たちは、今も思い出せる。いや、脳内で反響し続けている。
耳鳴りの代わりに、この呪言が低く鳴り響いている。
――母はもう居ないはずなのに。
そうか、呪言の主は、母だけじゃなかったのか。




