第九話 終わらせない千手|〈略る〉
どうやら母は、逃げられる相手ではなかった。倒すべき敵だったと理解した。
母の言動は、高い再現性があり予測可能だった。
長年のひとり将棋のおかげで詰将棋は得意になっていた。手の読み合いなら負ける気がしない。
「逃げられないのなら、閉じ込めてしまえばいい。」
頭の中の誰かが、そう叫んでいた。僕はどうやら、好戦的な人間だったらしい。
窓からの風とコーヒーの香りが混ざった朝の空気がした。キッチンに立つ母の後ろ姿を見ながら、僕は、爽やかさを貼りつけた笑みで、母を閉鎖する手筋を思い描いていた。
親子という関係でなければ、母の行いは重度のストーカーに他ならない。
しかし、行政も司法も動かない。親子の問題は、事件にならない限り、ただ「扱いが面倒な案件」に分類される。そして、世間は「親を責める子」をまず疑う。だからもう、誰も母を止めないし、止められない。
これらが社会の前提だ。
それなら、僕はそれを逆手にとる。
再度、僕が逃げれば、母は追うだろう。もう知人すらいなくなっていた彼女が、僕の行方を追うには、行政に頼るしかない。
母が知れば、僕はまた移動する。荷物が無ければ大したことでもない。
転居届が新しい紙に印字されるたび、静寂の層が増す。
蛍光灯の唸りが、静けさを揺らす。
郵便受けの底に残る湿った封筒。
通話履歴の空白が、机の上に並ぶ。
焦りが募った母は、次に職場へ向かうだろう。だが、そこにも僕は居ない。
僕は退職しておくからだ。
上場企業を辞めるという行為を、母は理解できない。母の世界では『金』は善であり、『肩書き』は徳だからだ。
息子が大企業に勤めていることは、母にとって、自身の功績であった。そして、社会的正当性の最後の札でもあった。僕の退職は、母の倫理では秩序の破壊に等しくなる。
母はその『訂正』を試みる。
つまり、「辞めることはない」としか思わない。会社に電話をかけ、受付で訴え、同情を演出し、糾弾を始める。しかし、退職者への対応は限定的だ。「知りません。」としか言えないだろう。
その結果、母は、会社が僕を匿っていると妄想し、声を荒らげる。繰り返されるうちに行動はエスカレートする。やがてそれは業務妨害となり、警察が動かざるを得なくなる。
被害届まで出される必要はない。警察に『履歴』が残れば、それが後の布石になる。
頭の中で駒を弾く音が大きくなった。
母を確実に追い詰めるのは、記録の積層だ。これは消耗戦。長期的な摩耗の果てに、勝敗は決する。
僕は隠れない。だが捕まりもしない。
短期間の間に、同じ手続きを繰り返す。都度、母の整合性は崩れていく。
手ごたえのない時間が続けば、焦りは濃くなる。
共依存によって成り立つアイデンティティは、自立しえない。依存対象を失えば、人格は形を保てない。人を小馬鹿にしたあの笑みは、やがて歪んだ焦燥へと変わるだろう。
消灯した部屋の中、壁の向こうから母のいびきだけが耳に届いていた。目をつむり、母のその変化を想像すると、口角がわずかに上がった。
まだ、実行してもいないのに――苦しむ母の顔が喜びだった。
その反応は、母のそれと酷似していただろう。
「オレは『冷たい子』だからな。」
その類似に恐怖はなく、むしろ、快楽に近いものを感じていた。
狂った親は狂った社会に壊される。子は導線を引くだけで、十分だったのだ。




