第十話 チェックメイト|〈謀影〉
描いた戦略は、着々と現実になっていった。その間、親戚らから電話がかかり続けた。「迷惑だ」「親不孝者だ」と罵倒された。
彼らは僕を『生贄』にして生きてきたのだ。そんな親戚たちなど、捨てて構わない。それまでは携帯電話が震える度に、動悸が走った。この時は、バイブレーションに胸が躍っていた。
罵倒は、やがて哀願に変わった。
「親じゃないか。勘弁してやってくれ。」
周囲の疲弊具合から、母の激昂度が想像された。思わず笑みがこぼれた。
ここで、次の作戦に移った。母に対し、僕名義の預金通帳を返還するよう調停に申し立てた。僕は、実家から離れる際に、わざと取り返さなかったのだ。守銭奴の母にとって、これは全力で阻止すべき要求だった。
母が調停に来なければ、その効力が発生する。だから母は出廷を強いられた。
母は姑息な戦略家だが学がない。予想通り、彼女は弁護士に反論書の作成を依頼した。
だが、三十歳を超え自立した息子の預金通帳を親が管理するなど、普通ではない。申し出の反論には、その合理的な理由が必要だ。
願望と現実が混合する母は、事実の順序を入れ替え、感情を脚色し、整合の取れた物語を作った。
弁護士は母の言葉を信じ、嘘で固めた反論書を提示した。僕はその反論書に対して、粛々と再反論を出した。
僕の苦しみを誰かに説明する必要はない。反論の繰り返しの中で、母の異常行動をひとつだけ差し込めばいい。
機を見て、警察に残った母絡みの相談履歴を証拠として提出した。ひとつの嘘が暴かれ、芋づる式に母の虚構が露呈していった。
それでも、母は負けを認めない。だが、弁護士は負ける勝負をしない。
母方の弁護士は、僕に直接交渉を持ちかけてきた。僕が弁護士を雇わなかったからだ。
要求全てを拒み続けた。僕は、弁護士を雇わないことで、和解が成立する可能性を排除したのだ。
やがて、母方の弁護士は僕の要求を認めるよう母に説得をしかけた。彼女はそれを拒む、いや、拒めない。
母は自分が正しい世界を保つために現実を歪めて自己を作ってきた。彼女にとって、嘘を認める行為は、アイデンティティの消滅を意味する。
弁護士は、母を説得できず、戦いを降りる。また、母は新しい弁護士を雇うことになる。成果なく費用だけがかさむ。
調停が不成立となるまで、これを繰り返した。
ここでも、母に、思い通りにならない時間を過ごさせたのだ。
家庭裁判所のカビ臭さが、調停の回数ごとに芳香となっていった。
調停不成立が決定したとき、虚偽の陳述の証拠は山積みになっていた。その後の接近禁止の仮処分の発令は早かった。
これで事実上の『逃亡』は完了した。
だが、まだ、母を閉鎖していない。
僕は再度引っ越して、兄にそれを知らせる。兄は必ず母に伝える。自分が生贄にされるのを恐れるからだ。
母は、僕の転出先を調べるために市役所に向かった。その時に初めて、住民票に閲覧制限が施されていることを知ったはずだ。怒りとむなしさで発狂寸前だったことだろう。
母の行動パターンは完全に予測できていた。買い物時間に合わせて、僕はスーパーでわざと母の前に姿を見せた。頭に血が上った母は、『文字通り』僕に襲いかかった。
これが僕の『王手』だった。
母の暴力性が、ついに面前に可視化された。精神科への措置入院には十分だった。
母に殴られながら、僕は高々と笑っていたと思う。
口の中から、『かつての鉄の匂い』がした。だが、今度は味もした。
野次馬がはけると、湿った秋風を感じられた。生きていると感じた。
借家にもどり、電気もつけず床に倒れこんだ。手を上にかざすと、指先はまだ小刻みに震えていた。
母を追い詰めた二年間を振り返った。記憶を失うほどに壊されたはずの僕が、同じ方法で壊す側になっていた。背中に心地よい悪寒が走った。
眉間に皺が寄り、片方だけの口角が上がった。
その表情が、あの女と同じだと気づくのに、時間はかからなかった。
窓の外から聞こえるスズムシとコオロギの鳴き声が、幼少期の恐怖を呼び戻した。一瞬湧いた恐怖は、確かな安堵に覆い隠され、その日は死んだように眠った。




