1 五百二十二万四千六百六十八の謎
鏡花水月謎解帖、第四話 奇人の判じ物の始まりです。
寺子屋に、ある朝一枚の紙が貼り出されました。
そこに書かれていたのは、大きな掛算と、七つの言葉。
子供たちには見当もつかないその謎を、算木を使って解いてみせたのは――
これは、水絵と鏡之介が出会う“判じ物”から始まる物語です。
水絵が寺子屋に着いた時、寺子たちは本堂の縁のひとつところに集まっていた。そこは、かつて鏡之介が考えた算題が張り出されていた場所だ。
水絵が近づくと、待ちかねたように新太が言った。
「あれ、水絵姉ちゃんの判じ物だろ?」
新太が指した先には、一枚の判じ物が貼り出されていた。一瞬ひやりとしたのは、また誠太郎がなにか伝えようとしているのではないか? と思ったからだ。
けれど、すぐに違うと分かった。その判じ物は、反古紙の裏側に書かれていたからだ。誠太郎なら、新しい半紙を使うはずだ。
「これ、いつ貼り出されていたの?」
誰にともなく尋ねると、礼次が答えた。
「今朝は、俺とるいが一番だったんだけど、その時にはもう」
隣で、妹のるいがこくこくと頷く。
「あれ? 水絵姉ちゃんじゃなかったの?」
新太が不満そうに口をとがらす。
「だから、言ったろう。水絵先生じゃないって。だってこれ……」
言いよどんだ礼次の言葉を、引き取ったのは、低く響きのいい声だった。
「確かに、水絵なら、乗……掛算なんか出さねえな」
そう言ったのは、いつの間にか姿を現していた鏡之介だった。一瞬なにを言われたか分からなかったが、暗に『水絵は算法が苦手だ』と言われたことに気づき、文句を言おうとした時――。
「やっぱり、掛算だったんですね!」
うれしそうな礼次の言葉に遮られた。
「ええ!? これ、掛算なの?」
新太が驚きの声を上げる。
水絵は、あらためて、判じ物をじっくりと見た。問題は二つあるようだった。
一つ目は……。
一千三百五十六 三千八百五十三 乗ズ 得ル所
そして二つ目は、言葉が七つ並んでいる。
細雪
経典
法要
花方
上野介
鏡
忠信孝悌
「掛算なら、鏡之介先生が出した算題かぁ」
新吉がぼやいた。けれど、水絵には分かっていた。
「鏡之介さんじゃないわ」
「なんでそう思う?」
ニヤニヤ笑いながら問うたのは、鏡之介。
「だって、鏡之介さんの手じゃないもの」
子供たちはきょとんとしたが、鏡之介はくすくすと笑った。
「さすが、水絵だ。鋭いな」
「手じゃないってどういう意味?」
新吉が礼次に、小声で尋ねる。
「鏡之介先生が書いた字じゃないってことだよ」
「ふうん」
新吉は頷いたが、どうも意味は分かっていないようだった。それでも、新吉は勢いよく礼次に言った。
「二つ目の判じ物はわかんないけど、最初のが掛算なら、礼次ができるだろ?」
そういう新吉は、まだ「九九」も危うい。
「無理だよ、こんな大きな数、計算できない」
新吉に振られた礼次が、目を伏せる。
何千などという数は、日常で使うことはまれだ。算法が得意な礼次でも、簡単に答えは出せないだろう。……もちろん、水絵にも無理だ。
「えー! じゃあ、どうすんだよ。礼次が解けないんじゃ、お手上げだ」
新吉が大声を張り上げ、礼次はすがるように鏡之介を見た。
すると、鏡之介は小さくため息を吐くと、寺子屋の縁に座った。
「俺が解いてやるよ」
そう言いながら、懐から小さな巾着袋を出す。さらに、その袋から丸めた布を取り出し、縁に広げた。
その布には、枡目が書かれていた。ずいぶん使い込まれた様子で、ところどころ枡目が欠けている。
子供たちは、鏡之介を取り囲むように並び、その布を見つめている。
次に、鏡之介は、袋から小さな木の棒をいくつも取り出した。赤や黒の色が塗られた一寸ほどのものだ。
「あれ、なに?」
「多分、算木だと思う」
新太と礼次のやりとりに、水絵も「ああ、これが算木というものなんだ」と思う。聞いたことはあるが、実物を見るのははじめてだ。
鏡之介は、黒い算木を枡目の上に並べ始める。
「一千三百五十六……」
つぶやきながら、算木を縦横に並べる。
「これを、三千八百五十三に乗ず」
指が、静かに……だが、素早く算木を動かしていく。
水絵は、それが節の目立たない、すらりとした長い指なのにはじめて気づいた。もう一年近く同じ寺子屋で働いていたのに、まじまじと手を見たことなどなかったのだ。先端が四角く整えられた短い爪の形が、とても綺麗なことも、はじめて知った。
「……合算」
鏡之介の指は、迷いなく算木を動かしていく。
布の上には、三十三本の算木が並んだ。
「五百二十二万四千六百六十八」
鏡之介が静かに告げた。子供たちは唖然として言葉も出ない。
水絵は、寺子屋の中に駆け上がると、反古紙一枚と筆を取って戻った。
「すみません。もう一度言ってください」
すると、鏡之介は苦笑して「五百二十二万四千六百六十八」と繰り返した。
反古紙に書き取った数を、寺子たちは異様なものを見るように見つめている。水絵には、子供たちの戸惑いが手に取るように分かった。日常で使う数ではない。
「こんな大きな数……」
水絵がつぶやくと、鏡之介は判じ物の字をじっと見つめながら言った。
「おそらく……おそらくだが、これは数ではないんだろう」
「どういう意味です?」
「ただの印だ。位を気にすることはない」
子供には理解できなかった鏡之介の言葉が、水絵には理解できた。
「つまり、こういうことですか?」
言いながら、さっき書いた「五百二十二万四千六百六十八」の隣に、数を書き出す。
五 二 二 四 六 六 八
鏡之介は頷いたが、礼次は首をかしげた。
「でも、六百と六十は全然違う数でしょう? これだと、同じになってしまいます」
「数ならばそうだ。だが、これは判じ物だ。六は六として考えた方が良い」
そんなやりとりを聞きながら、水絵は自分が書いた数字と、判じ物の言葉を見比べていた。
「なんとなく、分かった気がします。数字も七つ、ここに書かれている言葉も同じ七つです」
水絵がそう言うと、鏡之介は算木を片付けながら言った。
「ここからは、水絵の持ち分だな」
水絵は、しばらく数字と言葉を見比べていたが、やがて、ぱっと顔を上げていった。
「それじゃあ、これを使って手習いをしましょう。みんな、中に入って」
第一話を読んでいただき、ありがとうございました。
このお話は、江戸時代の寺子屋を舞台にした
「算法+判じ物」の物語です。
次回は、水絵がこの判じ物の言葉の意味を解いていきます。
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