06.悪役令嬢の幸福
「どうだ、アリエノール。基本的な情報は揃っただろ。ここからは検討の時間だ」
「け、検討……ですか?」
可愛い義弟にお菓子を与えていたアリエノールは、従兄の言葉にぎこちなく振り返る。
そこにいたのは、豪胆でありながらもアリエノールには甘い従兄ではなく、各国の首脳陣が揃って手強いと評する外交官バルナバーシュだった。
「前提条件の確認だが、お前は女侯爵としてトゥールーズ侯爵家を継ぐ。王国は女性にも爵位を認めてるし、過去には臣下に下って自ら公爵家を立てた王女の前例もあるから反対意見も抑え込める。そうだよな、クローヴィス殿」
「うん。アリエノール嬢は優秀だからね。きっと良い侯爵になれるよ」
「次にレーモンとの婚約だが、こちらは朝一番に叔父上が登城して、滞りなく婚約破棄の手続きが完了した。立会人はうちの大公世子であるマクシム殿下で、俺も護衛として同席したから間違いない」
意外な名前が挙がり、アリエノールは首を傾げた。
「婚約破棄のために、わざわざ他国の王族の方に立ち会いをお願いしたのですか?」
「王族としてというよりも、身内としての意味合いの方が強いな。マクシム殿下はうちの祖父様の甥っ子だから、レーモンにとってもアリエノールにとっても親戚にあたるだろ? あと、間違いなく縁が切れたってことを祖母様に報告しないと、今度こそ一個師団引き連れて締め上げに来そうだからな」
「一個師団……」
「規模が完全に戦争じゃないですか」
ドン引きする少年達に、バルナバーシュは肩を竦める。
「我が国は未だに各部族との小競り合いも多いからな。基本的に身内は大事にするし、身内が舐められたとなれば一族総出で報復に出る。本当なら、ブランシュ叔母上が帰国された時点で開戦待ったなしだったところを、うちの祖父様とオーレリアン叔父上が止めたんだ。それなのにこの国は、懲りもせずにうちの可愛い花を踏み躙りやがった」
「お従兄様……」
バルナバーシュは不安げに見上げてくる従妹の頬を指の甲で撫でながら、ふっと表情を緩めた。
「安心しろ。戦争を回避するのも外交官の仕事だ。仮に叔父上が侯爵位を退かれても、俺が婿に入ればトランシルヴァニア大公家とチェルーストカ公爵家はこれまで通り、全面的にトゥールーズ侯爵家を支援すると、マクシム殿下にも了承いただいている。だからアリエノールは安心して侯爵として立てばいい」
「うわーどさくさに紛れて自分を売り込んでるー」
「戦争回避を理由に求婚って、ここはどこの会議室ですか」
さらにドン引きする少年達を横目に、クローヴィスは黙って立ち上がると、アリエノールとバルナバーシュのカップに紅茶のお代わりを注いだ。
「そんなに思いつめた顔をしないで、アリエノール嬢。バルナバーシュ殿も。ここは私的で気楽なお茶会の席だよ。現時点でさして可能性の高くない無粋な話はそれくらいにしようね」
「は、はい」
「……そうだな。悪かった、先走っちまって」
穏やかで落ち着いたクローヴィスの声が、その場に張り詰めていた緊張の糸を解いていく。
ティーポットをテーブルへと戻したクローヴィスは、ソファの背面に回ると、優雅な所作でアリエノールの黒髪を掬い取った。
「私は政からは遠い無官の身だけど、夜会などを主催する立場上、貴族の間の噂話はよく耳に入る。我が国は国力で勝るとはいえ、トランシルヴァニア大公国の精強なる軍と戦っては無傷ではいられない。未だ立太子に至っていない王子一人を廃嫡することで収められるなら、反対する貴族はいないと思うよ」
戦争による被害を想像したのか、それとも元婚約者の儚い立場を想ったのか。ティーカップを持つアリエノールの指が僅かに震える。
それを見たクローヴィスは、努めて明るい声でこう続けた。
「大人は皆、十年前にトゥールーズ侯爵夫人がこの国を去られた時のことをよーく覚えているんだ。何せ夫人を迎えに来たのは当時最先端だった軍艦で、その船首に仁王立ちなさっていたのは完全武装した紅蓮の椿姫。よくあの状況で魔砲弾を撃ち込まれなかったものだと、騎士団の幹部としてあの場に立ち会った兄も震えていたよ」
「お、お祖母様がそんなことを……」
思わぬ話にアリエノールが呆気に取られていると、バルナバーシュが彼女の肩を軽い調子で叩いた。
「俺も出航には立ち会ったぜ。ブランシュ叔母上を迎えに行った先がロシュフォール港だったのが幸いしたな。祖母様、「海から王城が見えれば焼き払ってやったものを……」とか何とか呟いてたらしいし」
「ちょ、ちょっとー! 知らない間に我が領ピンチだったんですか!?」
国内最大の港であるロシュフォール港を領内に持つキリアンは青褪めるが、バルナバーシュは軽い調子で笑い飛ばす。
「心配すんな。祖母様に内緒で、祖父様が魔砲弾をこっそり抜いといたらしいから。せいぜい祖母様の火魔法で延焼する程度で済んださ」
「紅蓮の椿姫の火魔法……大型の魔獣も消し炭にしたっていうあの……?」
「どっちにしても我が領大ピンチじゃないですかー!」
わぁわぁと大げさに騒ぐ声に、ようやくアリエノールの肩から力が抜ける。それを見たクローヴィスは、艶やかな黒髪に恭しく口づけを落とした。
「麗しのアリエノール嬢。優しく真摯な君の心が政や争いで曇らぬよう、私を傍に置いてくれないかい? 君にとって新しい家族が心安らぐ存在となるよう、尽力すると誓うよ」
「新しい、家族……?」
「そう。君はこれから、ご両親とは別の家族を作っていく。貴族としての務めも大切だけど、君にとって信頼できる人間と幸せに暮らせる家にしていくことも考えてみないかい?」
クローヴィスの声は、不思議と心に染み入る。
そもそも、レーモンとの婚約は当初から上手くいっていたとは言い難い。
彼は何かにつけてアリエノールを罵倒し、顔を合わせることを嫌がった。
国王夫妻の関係も決して良好とはいえないため、レーモンにとってはそれが当たり前だったのかもしれないが、両親のように愛し合う夫婦を理想としていたアリエノールには耐え難い関係だった。
国の礎たる国王と王妃に必要なのは、人間的な愛情ではなく、共に国を発展させていく覚悟と矜持である。
そう言い聞かせながら、少しずつ自分自身の幸せを遠ざけようとしてきた。
だが。
「私は……幸せになっても良いのでしょうか」
ぽつりと零れた呟きは、すぐに四つの手によって掬い上げられた。
「もちろんだよ、アリエノール嬢」
「お前が幸せになるのが最優先だ。しっかりしろよ」
「俺もがんばるから、一緒に幸せになろうねー」
「姉様には僕達がついてますから!」
「皆様…………あら? 僕、達?」
はてと首を傾げるアリエノールに向けられるのは、妙にギラギラと輝く四対の目。
「昨夜一晩かけて検討してみたんだが、お前と侯爵家を万全に守るには、優秀な人材は多めに用意しておきたいという結論に至った」
「女性当主の場合、どうしてもお産などで一時的に動けない時期が出てくるからね。臣下に下られた王女殿下が公爵家を立てられた際、当主代行たる夫を複数置くことで乗っ取りを防げるという利点もあって、一妻多夫が認められるようになった経緯がある。だからだろうね。過去の例をいくつか調べてみたけど、女王や女性当主の場合は、複数の夫を持つケースが多く見られたんだ」
「その方が合理的なんだろうねー。俺もね、一人じゃ心許ないけど、これだけ揃ったら何とかなると思うんだよねー」
「僕達が、きっとアリエノール姉様のことを幸せにしてみせます。だから、僕達のことを受け入れてください!」
「えーっと……もしかして、四人全員を婿にしろと? そう仰るのかしら」
たらりと背中を伝う冷や汗を感じながら、アリエノールは暑くもないのに忙しなく扇を動かす。ソファの上で心持ち身を引いてしまうのは、本能的なものだ。
「もちろん強制はしない。一番大切なのは、アリエノールの意思だからな」
「アリエノール嬢さえ望んでくれれば、私達は万難を排して君の傍にいることを選ぶ。それだけは伝えておきたかったんだ。」
「けどさっきクローヴィス様が仰ったみたいに、当主の婿取り婚では複数の夫を置くのが慣例みたいだからねー。検討の余地はあると思うよー」
「もし選ばれなかったとしても、僕は義弟として姉様を支えてまいりますから! 安心してくださいね、姉様」
「あ、ずるいぞティメオ。俺だって従兄としてアリエノールを助けるに決まってるだろ!」
「それなら私は、アリエノール嬢の友人枠を狙おうかな」
「クローヴィス様ー。それ俺と被るんですけどー」
わいわいとアリエノールそっちのけで盛り上がる自称婿候補達は、ライバル関係であるはずなのに妙に親しげで、楽しげだ。
もしも彼ら全員を婿として迎えれば、屋敷の中でもこんな調子で過ごすのだろうか。
アリエノールの頭の中に、見慣れた侯爵家の屋敷が浮かぶ。
家の取り回しを担うクローヴィスは、先ほどの紅茶の淹れ方などを見る限り、ハイセンスな貴族男子のようだ。
きっと、彼と過ごす家の中は居心地が良く安心できる場所になるだろう。
バルナバーシュが婿入りすれば、おそらくアリエノールと共に両国の懸け橋としての働きを期待される。
重責だが、彼が隣にいてくれれば何とかなると、無条件に信じられる。
キリアンとはもともと本の趣味が重なるところが多く、学友の中でも話が弾む相手だ。
父も彼には目をかけていたし、良い後継者となってくれるだろう。
後継者といえばティメオもいる。明晰な頭脳もさることながら、やはり純粋に慕ってくれる義弟は可愛い。
他の三人からも可愛がられているようだし、このままずっと侯爵家にいてほしいと思う。
そんな彼らとの生活を想像してみる。
例えば共に食事を摂り、真面目な話から他愛ない話まで取り留めもなく語り合う。
侯爵になればトゥールーズ領への視察に赴くこともあるし、外交の仕事を担うのであれば夫に同行してもらう機会もあるだろう。
先導してくれるのは、旅慣れているバルナバーシュや語学堪能なキリアンだろう。
クローヴィスはどこにいても自分のペースは崩さなさそうだし、ティメオは何を見ても目を輝かせる姿が簡単に想像できた。
頭に浮かぶ場面には、なぜか自然と四人の婿と、彼らに囲まれて笑顔を見せるアリエノール自身の姿が浮かんでくる。
それは何だかとても楽しそうで、幸せな光景に思えた。
ようやく前を向き、明るい未来に想いを馳せられる余裕が出てきたアリエノールは、ほんのりと頬を染めながら、紅茶のカップに口を付けた。
そんな彼女の姿を見て、四人の男達が密かに拳を握り、喜びを噛み締めていたことなど、アリエノールは知る由もない。