第89話 これで足りる
二つ目の採取場所までは、ノアの言った通り二十分ほどだった。ただし、距離より歩きにくさの方が問題だった。
木の根が地面から張り出し、ところどころ斜めに石が埋まっている。ヴェラは何度か足を止め、その先を確かめてから進んだ。
「ここ、右側から行きます」
「分かりました」
左には湿った土が広がっている。ヴェラはそこを避け、右側の固そうな場所を選んだ。
ノアもヴェラの後ろを外れず、その足跡をなぞるように進んでいた。
「前もここを通ったんですか?」
俺が聞く。
「たぶん」
「……迷ってませんよね?」
「たぶん」
たぶんなんだ。
ノアが振り返る。
「一回来ただけだから」
「そうでしたね」
なかなか大らかな人だ。急に心配になってきた。
「地図は?」
「あるよ」
「安心しました」
「私の記憶は信用しないんだ」
「地図が大好きなんです」
「変な趣味だね」
前を歩くヴェラが少しだけ肩を揺らした。
笑った気がする。
◆
やがて木の間が少し広がった。最初の場所より乾いていて、大きな石がいくつか地面から出ている。その陰だけ土の色が濃かった。
ノアが足を止める。
「ここだ」
「あります?」
「見てみるね」
籠を下ろす前に、ノアは周囲を一度見た。それから石の近くへしゃがむ。
俺たちは少し離れ、ヴェラが前方、俺が右側、エルザがノアの後ろ寄りに位置を取った。リンはエルザのそばに浮いている。
ノアが葉を一枚持ち上げた。
「あった」
「良かったですね」
「まだ分からないよ……足りればいいけど」
何株あるかを確かめているらしい。
俺には相変わらず、ただの草にしか見えない。邪魔をしないよう、視線を草から周囲へ戻した。
少しして、ノアが二株目へ移った。
その時だった。
右奥。
木と木の間。
気になる反復が入った。
「待ってください」
声を出す。
ノアの手が止まった。ヴェラがすぐにこちらを見る。
「どちらですか?」
「右奥です。何かいます」
何なのかまでは分からない。
動いている。
距離も正確には分からない。
ただ、今はそこに反復がある。
「ノアさん、こちらへ」
エルザが声を落とした。
ノアは採取用の小刀をしまい、籠を持って立つ。迷わずエルザの方へ下がった。
ヴェラが丸盾を前へ出す。俺も剣へ手を掛けた。
草が揺れた。
一度。
二度。
低い音がする。
枝の間から、茶色い背中が見えた。
「獣ですね」
ヴェラが言う。
大きい。俺の腰より高いくらいある。
鼻先で地面を押しながら、木の根元を掘っている。こちらにはまだ近づいてこない。
「前にもいた?」
俺が小声で聞く。
「いなかった」
ノアも声を落とした。
「どうする?」
「待ちます」
俺は即答した。
「こっちに来るなら戻ります」
「分かった、判断は任せるね」
エルザとヴェラに目配せする。二人とも頷き、そのまま動かなかった。
獣が地面を掘る音だけが続く。やがて、俺たちの方へ顔を向けた。
ヴェラが盾を少し上げる。俺も剣の柄を握る。
それでも獣は来なかった。
しばらくこちらを見てから鼻を鳴らし、そのまま木の向こうへ歩いていく。反復も少しずつ遠ざかった。
完全に見えなくなってからも、俺たちはしばらく待った。
「……行きましたね」
「はい」
ヴェラは盾を下ろさない。
「もう少し待ちます」
「そうしましょう」
ノアも採取へ戻ろうとはしなかった。
◆
それからしばらく待ったが、草も枝も動かなかった。さっき遠ざかった反復も戻ってこない。
「……大丈夫そうです」
俺の声に、エルザとヴェラが頷く。
「採るね」
ノアが言った。
「ただ、長くはいないようにするね」
「分かりました」
ヴェラが前を見張り、俺は右側、エルザは後方へ注意を向ける。ノアだけが石のそばへ戻った。
今度は迷わず、必要な草だけを切っていく。
一株。
二株。
三株。
籠の中が少しずつ増えていく。
途中でノアが手を止め、中を見る。最初の場所で採った分と合わせて、籠の底はほとんど見えなくなっていた。
「足りました?」
聞く。
ノアはしばらく数えるように中身を見ていた。
「……もう少し」
「まだですか」
「あと二株くらい」
かなり具体的になった。
ノアは近くを探し、石の陰に一株、少し離れたところにもう一株を見つけた。最後の葉を切り、籠へ入れる。
今度は蓋を閉めた。
「これで足りる」
短い言葉だった。
でも、今までで一番安心した声に聞こえた。
「良かったです」
エルザが言う。
「うん、ありがとう」
ノアは籠の取っ手を握った。
「帰ろう」
「はい」
ヴェラがすぐに頷く。
俺も異論はない。目的は終わった。これ以上ここにいる理由もない。
「その量で、どのくらい持つんです?」
帰る準備をしながら聞いた。
ノアが籠を見る。
「しばらくは」
「毎日飲むんですか?」
「うん」
ノアは籠を持ち直した。
その「しばらく」が何日なのかも、どんな薬なのかも、まだ分からない。
◆
帰りは、来た道をそのまま戻った。
ヴェラを先頭に、その後ろへノア、俺、エルザと続く。来る時と同じ順番だった。
「ノワールさん」
「何ですか?」
「さっきの獣、よく場所がわかったね」
その質問に少し驚いた。
「フィロス君みたい」
「え?」
「フィロス君もよく先に気配に気づいてた」
そういえば最初に見たフィロスも、獣の察知が鋭かった。
「でも、フィロス君なら自分で前に出ると思う」
「それは想像できます」
「でしょ」
そこは意見が合った。
「本当は、フィロス君自身がついてきたかったんだと思う」
ノアが前を向いたまま言う。
「……今日は、ついてきてくれてありがとうございます」
ヴェラが振り返らずに答えた。
「無事に帰るところまでが依頼です」
「そうだった」
ノアの声が少しだけ柔らかくなった。
ノアの手には、蓋を閉じた籠がある。
俺たちはそのまま、王都へ続く道を戻っていった。




