第85話 見たものを持ち帰る
休憩を終えると、俺たちは第三道標を離れた。
壁際に置いていた荷物を持ち直す。
冷えた石の空気は、立ち止まっていた時より歩き始めた方がはっきり感じた。
ここから先は、全部一度通った道だ。
そう思った直後に、ガイルの言葉を思い出した。
道標の先の仕事だからといって、道標までが簡単になるわけじゃない。
帰りも同じだ。
ヴェラが先に立ち、俺が続く。エルザは後ろ。来る時と同じ順番で歩き始めた。
靴底が石を踏む。
三人分の足音が、場所によって短く響いたり、ほとんど返ってこなかったりする。
第二道標へ戻るまで、魔物には会わなかった。
だからといって、足を速めることもしない。
角を抜け、広い場所では見る方向を分ける。狭くなれば一列に戻り、灯りが壁の凹凸を順に照らしていく。
何度も通った場所だが、今日は少しだけ見え方が違った。
第三道標が目的地ではなくなったからだろうか。
第一道標を過ぎた頃には、入口までの残りもだいぶ短くなっていた。
湿った空気の中へ、ほんの少しだけ外から来る風が混じり始める。
「今日は静かでしたね」
俺が言う。
「まだ外へ出ていません」
エルザが後ろから返した。
「そうでした」
「入口を見てから言ってください」
「はい」
前のヴェラの肩が少し動いた。
「ヴェラさん、笑いました?」
「前を見ています」
「笑いながら前を見ているんですね」
返事はなかった。
ちりん。
「リンまで」
白い光はエルザの肩口で揺れている。
入口に近づくにつれて、冷えていた空気が少しずつ変わっていく。
俺たちの声も、さっきまでより軽くなっていた。
◆
入口の明かりが見えた。
暗い通路の先に、白く切り取られたような光がある。
階段を上がる。
外へ出ると、地上の明るさに一瞬目が眩んだ。
温度も違う。
地下で冷えていた頬へ、昼の空気が触れる。
一度瞬きをしてから辺りを見る。
ガイルは朝と同じ場所にいた。
「戻ったか」
「はい」
三人分の木札を出す。
ガイルが一枚ずつ受け取り、刻まれた印を見る。
木札同士が小さく当たった。
「第三まで」
「はい」
「その先は?」
「依頼の分岐まで確認しました」
ガイルが俺ではなく、エルザを見る。
エルザが手帳を開いた。
地下で書いた文字を指で追う。
「最初の白墨印は薄くなっていたので補修しました。位置と形は地図と一致しています」
「他になにかあるか?」
「その先に、頭より少し大きい落石が二つありました。周囲に小石と床の凹みがあります。通行できる幅は残っています」
「上は?」
「見える範囲では、大きな亀裂は確認できませんでした」
ヴェラが補足する。
「しばらく停止して確認しましたが、新しく石が落ちる音もありませんでした」
「触ったか?」
「いいえ」
「それでいい」
ガイルが短く答えた。
入口の向こうでは、これから入るらしい冒険者が装備を直している。
エルザが続ける。
「最初の分岐は地図通りです。左右とも通路は続いていました。二つ目の白墨印も位置と形が一致しています。補修は不要と判断しました」
「先には入ってねえな?」
「はい」
今度は俺が答えた。
「依頼の範囲までです」
「ならいい」
ガイルは木札をまとめた。
「落石の方はギルドにも上げとけ」
「はい」
「次に入る奴が知ってりゃ、同じ場所で一から悩まずに済むからな」
それだけ言って、ガイルは俺たちの後ろへ目を向けた。
次に入る冒険者が来ていた。
革具を鳴らしながら入口へ寄ってくる。
俺たちは場所を空ける。
「ありがとうございました」
「おう」
地下へ続く入口を一度振り返る。
暗い通路へ、次の三人が入っていくところだった。
少しだけ肩の力が抜けた。
あとはギルドへ戻って報告するだけだ。
◆
ギルドへ戻る頃には、昼をだいぶ過ぎていた。
朝より通りの日差しが高く、石畳の影も短い。
扉を開ける。
ギルドの中も朝とは少し様子が変わっていた。
掲示板の札が減っている。
受付にも何人か並んでいた。
奥の卓では、戻ってきたらしい冒険者が紙を広げて話している。
順番を待って、ミラの前へ行く。
「お帰りなさい」
「ただいま戻りました」
エルザが手帳を開く。
「確認範囲まで行けましたか?」
「はい」
まず、通路が地図と一致していたこと、最初の白墨印を補修したこと、最初の分岐まで通行できたこと、二つ目の印は補修不要だったことを順番に話す。
ミラが台帳へ短く書き込んでいく。
そして落石。
「この辺りです」
エルザが地図の一点を指した。
その横へ手帳を置く。
地図と、実際に歩きながら書いた記録が並ぶ。
白墨印の形。
落石について書いた短い記録。
分岐の形。
ミラが一つずつ見る。
「石は動かしていないんですね」
「はい」
「新しい落石は?」
「確認していた間にはありませんでした」
ヴェラが答える。
「天井に大きな亀裂は見えませんでした。ただ、落ちた場所までは分かりません」
「分かりました」
ミラが別の紙へ書き写す。
羽ペンの先が何度か止まり、また動く。
ヴェラが荷袋から残った白墨を取り出した。
「こちらもお返しします」
「はい。ありがとうございます」
ミラが受け取り、机の端へ置く。
「落石ありとして記録します。必要なら、追加の確認依頼を出します」
「また誰かが見に行くんですか?」
「必要なら」
ミラが言った。
「今日の皆さんの報告だけで、危険がないと決めることもできませんから」
「なるほど」
俺たちは落石を見た。
その時に落ちてこなかった。
通ることもできた。
分かっているのは、そこまでだ。
地図の横へ置かれたエルザの手帳を見る。
俺たちが見なかったものまで、そこには書けない。
「地図は変わらないんですか?」
俺が聞く。
「今回の報告では、通路そのものは地図通りですから」
ミラが地図を見る。
指先が第三道標の先をなぞる。
「ただ、確認日は更新されます」
エルザが少し身を乗り出した。
「今日の日付に?」
「はい。分岐までの区間については」
昨日見た地図には、場所ごとに違う確認日が書かれていた。
薄くなった古い文字。
その横へ書き足された新しい日付。
その一つが今日になる。
「俺たちが見たから」
「そうです」
ミラが頷いた。
それだけのことなのに、少し変な感じがした。
昨日まで、俺たちは地図を見る側だった。
今日は、その地図に載る日付を一つ新しくした。
「依頼は完了です」
ミラが言った。
地図を少し脇へ寄せ、報酬を出す。
硬貨が卓の上へ置かれた。
三人で確認する。
特別に高いわけではない。
それでも、ちゃんと仕事をした分の金だった。
「脚具に少し近づきましたね」
俺が言うと、ヴェラが硬貨を見る。
「はい、近づきました」
「現実的です」
エルザが横から言った。
昨日の見積もりを思い出す。
一度の依頼で賄えるような額ではない。
でも、昨日よりは増えた。
それでいい。
◆
受付を離れる前に、俺はもう一度地図を見た。
卓の上にはまだ広げられたままだ。
第三道標から、その先の曲がり角、最初の白墨印、落石があった辺り、最初の分岐まで。
紙の上では、どれも細い線と小さな記号だ。
昨日までは、それしか知らなかった。
今は違う。
曲がり角の先の暗さや、薄くなっていた白墨、床へ落ちた二つの石、左右へ分かれていた通路。
全部、頭の中に場所がある。
「ノワールさん」
「はい」
「次に行くなら、どちらが気になりますか?」
エルザが分岐を指した。
右。
左。
「なんで聞くんですか」
「先ほどは両方と答えましたので」
「今も両方です」
「変わりませんね」
「そんなにすぐ変わりませんよ」
ヴェラも地図を見る。
「次も、依頼を見てから決めるのが良いと思います」
「私も賛成です」
エルザが答えた。
「そうですね」
右も左も気になる。
けれど、次を今日決める必要はない。
「帰りますか」
「はい」
「はい」
三人で受付を離れた。
背後で、ミラが地図を畳み始める音がした。
扉を開ける。
午後の日差しが石畳へ広がっている。
エルザの鞄には手帳。
俺たちの頭の中には、さっきまで紙の線でしかなかった道が残っていた。
三人でギルドを出た。




