第84話 地図と同じ道
第三道標が見えなくなってから、通路の空気が変わったような気がした。
もちろん、本当に変わったわけではない。
岩壁も、硬い床も、松明の火も変わらない。前にはヴェラの背中があり、後ろからはエルザの足音が届いている。
今までと同じだ。
違うのは、ここを俺が歩いたことがないというだけだった。
「この先、少し左側を見ます」
ヴェラが声を落とした。
「はい」
俺も左を見る。
通路は二人が並べるほどの幅がある。
ヴェラが中央より少し右を歩いているので、左側の壁と床は俺からも見える。
エルザの松明が後ろからその辺りを照らした。
「白墨印は、曲がった先でしたね」
「はい」
エルザが答える。
「地図では、もう少し先です」
俺は壁を見ながら歩く。
白いものを探していると、岩の明るい部分まで印に見えてくる。
少し進んだところで、ヴェラが止まった。
盾を持った左手はそのまま、右手だけを壁へ向ける。
「あれでしょうか」
指の先を見る。
灰色の岩壁に、短い白線が残っていた。
「ああ」
近づく。
太い線ではない。少しかすれているが、横向きの二本と、その下に短い縦線が一本残っている。
俺には意味までは分からない。
「これで合っています?」
エルザが地図と壁を見比べた。
「はい。この位置です」
「薄くなってますね」
「そうですね」
ヴェラが荷袋から支給された白墨を出してエルザへ渡す。
「ヴェラさん、ありがとうございます。では、補修します」
「お願いします」
ヴェラは通路の先を見る。
俺は後ろを振り返った。
曲がってきた通路の向こうは、もう第三道標まで見通せない。
エルザが元の線をなぞる。
白い粉が少しだけ床へ落ちた。
「これくらいでしょうか」
「前より見やすいです」
俺が言うと、エルザが壁から一歩離れた。
「元の形を変えないようにしています」
「新しく描くわけじゃないんですね」
「はい。私たちの印ではありませんから」
なるほど。
見やすくする。
でも、勝手に別の意味にはしない。
エルザが白墨を布で包み直し、ヴェラへ返した。
「位置も地図と一致しています」
「一個目ですね」
「はい」
今のところ、昨日見た線の通りだ。
エルザは手帳に印を書き写す。
「書き写すんですか?」
「位置と形を報告する時に使えますから」
「なるほど」
◆
白墨印を過ぎると、通路は少し狭くなり、ヴェラ、俺、エルザの順に自然と縦へ並んだ。
頭上は十分に高く、足元にも大きな段差はない。
それでも、知らない道だと思うと目につくものが増える。
床の小さな欠けや岩壁の細い筋、松明の火が揺れるたびに動いて見える影まで気になった。
前を歩くヴェラが少し速度を落とした。
俺も同じだけ落とす。
「何かあります?」
「床に石があります」
ヴェラが足を止めた。
頭より少し大きな石が二つ転がっている。
周囲の床には凹んだ跡と、小石が散らばっていた。
上から落ちたようにも見える。
ヴェラがその場から天井を見上げる。
エルザも松明を少し高くした。
俺も上を見る。
見える範囲に、大きく割れているところはない。
しばらくそのまま待つ。
石が落ちる音はしなかった。
「横は通れそうですね」
「はい」
ヴェラが半歩横へずれ、石との間隔を確かめる。
触れずに通れるだけの幅はある。
「少し待ってください」
エルザが言った。
「記録しておきます」
手帳が出る。
「通れる幅は残っています。ただ、通路の状態として残しておきます」
「石もですか?」
「全部ではありません」
エルザが二つの石を見る。
「ここから先は確認の間隔が空いていると聞きました。今の状態を残しておけば、次に変わっていた時に比べられます」
「なるほど」
エルザは短く書いて手帳を閉じた。
頭より少し大きな石が二つあって、横を通れる幅はある。たぶん、その程度だろう。
ヴェラが先に石の横を通る。
俺も続いた。
少し進んだところで、ヴェラが右手を上げた。
止まる。
俺も足を止めた。
「分かれています」
ヴェラの肩越しに先を見る。
通路が左右へ割れていた。
「もう着いたんですか?」
「地図を確認します」
エルザが前へ来る。
ヴェラは盾を構えたまま、少し左へ寄った。
俺も場所を空ける。
三人で地図を見る。
一本だった線が、その先で二本になる。
今、目の前にある形と同じだった。
「左が少し狭いですね」
俺が言う。
「地図もそうなっています」
エルザが指を置く。
「右はこのままの幅。左は少し細くなっています」
「印は?」
ヴェラが聞いた。
三人で壁を見る。
右。
左。
分岐の中央。
「あ」
俺が先に見つけた。
右側の壁。
肩より少し低い位置に、白い線がある。
「ありました」
近づきすぎないところで止まる。
今度の印は、最初のものより濃かった。
エルザが地図を見る。
「位置も合っています」
「補修は?」
「これは必要なさそうです」
そう言いながら手帳に印を書き写す。
ヴェラが左右の通路を順に見る。
「ここまでですね」
「はい」
エルザが答えた。
俺も地図を見る。
依頼の範囲は、この分岐まで。
右にも道が続いている。
左にも続いている。
どちらも松明の光の先で暗くなる。
「この先が気になりますか?」
エルザが聞いた。
「……まあ」
「どちらがです?」
「両方です」
エルザの口元が少し緩んだ。
「そうですよね」
ヴェラもこちらを見る。
「でも、今日はここまでです」
「分かってますよ」
返事はすぐに出た。
行けないわけではない。
少なくとも、目の前の道は塞がっていない。
でも、今日確認するのはここまでだ。
それで十分だった。
「一応、左右から何か来ていないか確認してから戻りましょう」
「はい」
ヴェラが右を見る。
俺は左へ視線を向けた。
物音はしない。
エルザが後方を見る。
少し待っても、何も出てこなかった。
「戻れそうですね」
「はい」
エルザが手帳を開いた。
「最初の白墨印は補修。途中に頭より少し大きな落石が二つ、横を通れる幅はありました。分岐と二つ目の印は地図通り」
「それで全部?」
「今のところは」
手帳を閉じる。
ヴェラが盾を持ち直した。
「帰りましょう」
「はい」
俺はもう一度だけ分岐を見る。
右。
左。
どちらにも道がある。
次に来た時、どちらへ行くかはまだ決まっていない。
俺たちは来た道へ向き直った。
◆
帰りは、さっき見たものを逆から通る。
二つの石と、補修した白墨印を順に通り過ぎる。行きに右へ曲がった道は、帰りには左へ曲がる。
それだけなのに、行きとは少し違って見えた。
「印、見えますね」
俺が言う。
「補修しておいた甲斐がありますね」
エルザが後ろから答える。
少し進むと、岩室の向こうに石柱が見えた。
第三道標だ。
「戻りましたね」
ヴェラの声が少しだけ柔らかくなった。
「はい」
石柱のところまで戻る。
「少し休みましょうか」
「賛成です」
俺たちは第三道標の脇へ移動し、荷物を壁際へ下ろした。
水筒を出す。
エルザも腰を下ろす。
ヴェラは盾を壁へ立てかけた。
リンがエルザの肩口から少し離れ、石柱の周りを一度だけ回った。
ちりん。
「リンも休憩ですか?」
白い光は答えず、エルザの髪際へ戻った。
俺は水を飲む。
依頼はまだ終わっていない。
ここから入口まで帰って、ギルドへ報告するまでが仕事だ。
何かを持ち帰る依頼ではなかった。
それでも、エルザの手帳には文字と印が増えていた。




