第78話 追わない仕事
村を出てしばらくすると、御者が馬車を止めた。
「一回見るぞ」
マルセルが荷台へ回る。俺たちもそれぞれの位置を離れ、積荷を確認した。
村を出た時には固く張っていた縄が、少しだけ緩んでいる。
「やっぱり動くな」
御者が荷台へ手を掛けた。
「道が悪いところもあったからな」
マルセルが縄を引く。エルザも後ろから結び目を確かめていた。
「こちらは少し緩んでいます」
「締め直そう」
「はい」
俺も自分が手伝ったところを押してみる。袋はほとんど動かなかった。
少し安心した。
「そこは大丈夫そうだな」
マルセルが言う。
「よかったです」
「でもまた確認するぞ。油断して外れたら洒落にならんからな」
「はい」
荷台を一周してから、また歩き始める。
俺は左前。ヴェラは右後ろ。エルザは後方。マルセルは荷台の右脇、前輪より少し後ろを歩いている。
街道は王都へ向かって緩やかに続いていた。昨日の往路では馬車へ乗ることばかり気にしていたが、今日は乗ろうという気にならない。そもそも座る場所がほとんどないし、動きも重い。
少し傾斜がついただけで、御者は馬の速度を細かく調整していた。その横を歩いている方が気が楽だった。
道の両側には低い藪が増えてきた。木が密集しているわけではなく、向こう側まで見えるところもある。それでも、人が隠れるには十分な高さだった。
俺は左側を見ながら歩く。
何もいない。風で葉が揺れている。
その時だった。すぐ横で、乾いた音がした。
荷台の左側板からだ。
馬が首を上げる。御者がすぐに手綱を引いた。
足元へ小さな石が転がってきた。
「石か?」
反対側からマルセルの声がした。
次の石が飛んできた。今度は街道へ落ちる。
「止まれ!」
御者が声を上げた。
馬車がすぐには止まらない。重い荷台が軋みながら進み、少し遅れて車輪が止まった。
左側の藪が揺れた。
小さな人影のようなものが飛び出してくる。
「ゴブリンだ!」
マルセルの声が飛ぶ。
俺の胸ほどの高さしかない。二本脚で立ち、手には太い木の棒を持っていた。口が大きく、鼻は低い。腰には薄汚れた布のようなものを巻いている。
棍棒を持ったそれが、こちらへ走ってきた。
一瞬だけ目が止まった。人の形をしている。それでも、次の瞬間には剣を抜いていた。
「左、来ます!」
自然と声が出た。
ゴブリンが棍棒を振り上げる。真っすぐだ。
俺は馬車から少し離れ、振り下ろされた棍棒を横へ避ける。
地面を叩いた木の棒が跳ねた。
腕が戻る前に剣を振る。
ゴブリンが身をひねる。
浅い。肩口を切っただけだった。
「っ!」
甲高い声を上げ、また棍棒を構える。
人間より小さい。その分、振り下ろしてくる位置も低い。もう一度棍棒が来る。
今度は剣で横へ逸らした。
重さはある。でも、マッドクローの突進ほどじゃない。
空いた胴へ剣を入れるとゴブリンが崩れ落ちる。
「右、石です!」
ヴェラの声の直後、がん、と盾を叩く音がした。
「右、もう一体! 荷台へ来ます!」
ヴェラの声が続く。今度は刃物と盾がぶつかる乾いた音が響いた。
一度。
すぐにもう一度。
「後ろへ回ります!」
「分かりました!」
エルザが返す。
右前方の藪を見る。石を手にしたゴブリンが一体、こちらを窺っていた。
俺は右へ動きかけたが止まった。
ヴェラは後ろへ回っている。
エルザも後ろだ。
俺まで右へ寄れば、左が空く。
俺は動かずに周りへ意識を向ける。
左の藪の方から、薄い反復を感じた。
俺はそちらへ視線を向ける。その時、左の藪が揺れた。
「左、もう一体! こっちは俺が!」
俺は声を飛ばした瞬間、棍棒を持ったゴブリンが馬の方へ出てきた。
御者が手綱を短く持つ。
「馬に寄せるな!」
「分かりました!」
ここは離れない。
ゴブリンが馬へ向かってくる。こちらへ斜めに走る。
そのまま来る。
剣の届くところへ――。
踏み込んだ。
棍棒を持った腕へ剣を当てる。腕に傷を負ったゴブリンの手から棒が落ちた。
続けて肩で押すと、小さな身体が街道の端へ転がる。
ゴブリンが立ち上がろうとしたところで、俺は近寄らず剣先だけを向ける。
ゴブリンが止まった。こちらを見る。
それから藪へ走った。
追わない。
後ろで木箱が鳴った。
「後ろ、来ています!」
エルザの声。
振り返ったが、積荷に遮られて荷台の後ろまでは見えない。
金属がぶつかる音がした。
一度。
もう一度。
俺は左の藪へ視線を戻す。さっきの一体はもう見えない。新しく出てくるものもいない。
後ろで地面を蹴る音がした。
「後ろの一体、離れます!」
エルザの声が飛ぶ。
少し遅れて、馬車の右後ろで枝が大きく鳴った。追いかける足音はしない。
「右へ戻ります!」
ヴェラの声がした。
右前方の一体が、また石を持ち上げる。
「石!」
俺が叫ぶと同時に、石がマルセルの方へ飛んだ。
「マルセルさん!」
がん、と盾を叩く音がした。
「マルセル様、大丈夫ですか?」
ヴェラの声にマルセルが答える。
「ああ!」
投石していたゴブリンが一歩下がった。
こちらを見たままさらに距離を取ると、そのまま藪へ入った。
俺は一歩踏み出す。その背中が見える。追えば届くかもしれない。
その時、馬が鼻を鳴らした。
御者が手綱を握っている。馬車は道の真ん中で止まったままだ。
追い払って、通れるならそれでいい。
「追いません!」
俺は言った。
「はい!」
右側からヴェラの返事。
「分かりました!」
後ろからエルザの声も返ってきた。
藪の中で枝が鳴る。
それ以上は追わなかった。
◆
「馬は?」
「大丈夫だ。俺も何ともない」
御者が馬の首を撫でながら答えた。息は荒いが、見える範囲に傷はない。マルセルも無傷らしく、こちらへ頷いた。
それならよかった。
馬車の右側へ回ると、ヴェラが丸盾を少し持ち上げる。
「私も大丈夫です。盾にも問題ありません」
そのまま右側の車輪へ目を向けた。
「車輪も問題ございません」
後ろへ回ると、エルザも短剣を下げてこちらを見た。
「私も怪我はありません」
「よかったです」
エルザはそのまま荷台の後ろへ寄った。
「後ろの縄を見ます」
「頼む」
俺は剣を持ったまま、馬車の左側へ戻った。
側板には、最初の石が当たった跡が残っている。少し白く擦れているだけで、穴はない。
「荷は?」
マルセルが後ろへ回ってくる。
「今見ています」
エルザが縄を引いた。
「一本、少し緩んでいます。先ほど、ゴブリンがここへ手を掛けていました」
「切れてるか?」
「いえ。擦れただけです」
「なら締め直そう」
マルセルが荷台へ上がる。
俺も周囲を見る。
倒れたゴブリンが一体。街道の端に棍棒が一本。見える範囲に、ほかの姿はない。
藪も静かになっていた。
「そいつはそのままでいい」
マルセルが言った。
「いいんですか?」
「余計な物まで持って帰る仕事じゃないからな」
確かにそうだ。
「また来るかもしれない。早めに動こう」
御者も言う。
「はい」
ヴェラが盾を構えたまま周囲を見る。エルザは縄を締め直していた。
「これで大丈夫です」
「助かる」
マルセルが荷を押すが、しっかりと固定されて動かない。
「他は?」
「問題ありません」
「よし」
御者が馬車の前へ戻った。
「出すぞ」
俺も左前へ戻る。剣はまだ抜いたままにしておく。
マルセルも荷台の右脇へ戻り、御者が手綱を動かした。
馬が歩き出す。重い車輪が、ゆっくり回り始める。
街道の脇に倒れたゴブリンが残っていた。
俺はそこを通り過ぎた。
少し進んでから剣の汚れを拭い、鞘へ戻す。
荷台の側板には、石の跡が残っている。
それ以外は、朝に村を出た時とほとんど変わらなかった。
俺は深く息をつくと、また馬車の左前を歩いた。




