第77話 帰りの荷台
泊まる場所へ向かおうとしたところで、農家の男に呼び止められた。
「せっかく来たんだ。飯くらい食っていけ」
マルセルと御者も一緒だった。
家の中へ入ると、すでに大きな鍋が火に掛けられていた。豆と根菜を煮たものらしい。湯気と一緒に、塩気のある匂いが広がっている。
「座ってて。もうできるから」
奥さんに言われ、俺たちは長い木の卓を囲んだ。ヴェラが壁際へ盾を置く。
エルザも椅子へ座ったところで、子供が駆け寄ってきた。
「エルザ、見て」
両手には、昼間と同じ輪になった糸が掛かっている。
「食事の前に出さないの」
奥さんの声が飛んだ。
「まだ食べてないよ」
「だから今しまうの」
「でもできるようになったんだよ」
「食べ終わってから見てもらいなさい」
子供は少しだけ口を尖らせた。それでも糸を外し、丁寧に巻いて服のポケットへしまう。
「ちゃんと言うこと聞くんですね」
俺が言うと、父親が笑った。
「今は客がいるからな」
「いつも聞いてるよ!」
「そういうことにしておくか」
「聞いてる!」
奥さんが鍋を卓へ置いた。
「二人とも座って」
「はい」
父親と子供の返事が重なった。
やっぱり親子らしい。
◆
煮込みには豆と根菜のほかに、細かく切った肉が少し入っていた。パンを浸して食べると、思ったより味が濃い。
「美味しいです」
ヴェラが言った。
「よかった。今日は人数が多いから少し薄くなったかと思ったけど」
「これで薄いんですか?」
俺が聞く。
奥さんが笑う。
「外で一日働いたら、濃い方がいいでしょう?」
「なるほど」
畑仕事なら確かにそうかもしれない。俺は今日、ほとんど見ていただけだ。
それでも馬車に揺られて歩き回ったせいか、腹は減っていた。
子供がパンを煮込みへ沈める。柔らかいのが好きなのか、浸す時間が長い。
「……お前、もう崩れるぞ」
父親の指摘で慌ててパンを引き上げたが遅かった。パンの端が崩れ、汁の中へ沈む。
子供が真剣な顔で匙を使って探し始めた。エルザが横で小さく笑う。
「そういえば」
奥さんが父親を見る。
「この人、農業の話した?」
「少しな」
「最初の畑の話は?」
「聞いてません。何かあったんですか?」
「何もない」
返事が早かった。
「何かあったんですか?」
聞くと、父親が俺を見る。
「聞かなくていいぞ」
「最初に畝を作った時ね」
「おい」
奥さんは気にせず続ける。
「端から端まで、見事に曲がってたの」
「土地が悪かった」
「隣の畝は真っすぐだったでしょう」
「慣れてなかったんだよ」
「水もやりすぎて」
「あれはお義父さんの教え方が悪い」
「朝と夕方にって言ったのに、昼にもやったでしょう?」
「乾いて見えたんだ」
マルセルが笑い始めた。
「お前、そんなだったのか」
「十年近く前の話だぞ」
「今しか知らんからな」
俺も思わず畑の方を見る。窓の外はもう暗く、昼間見た畝はほとんど見えない。
あれだけマルセルと収穫量や作物の出来を話していた人にも、そんな時期があったらしい。
「翌日は身体中痛いって動けなかったし」
「それはしょうがないだろ。使ったことない筋肉ばっかりだったんだから」
「三日くらい歩き方がおかしかったわよ」
「そこまでじゃない……二日だ」
「色々と苦労をされたんですね」
俺が言うと、父親が嫌そうな顔をした。
「お前だって初めて農業をやればわかるさ」
「俺も初めて冒険者をやって苦労してますから、気持ちはわかるつもりです」
「そうだろう」
奥さんが思い出したように笑顔で両手を合わせた。
「雑草を大切に育てていたこともあったわね」
「もう勘弁してくれ……」
子供だけは話より、汁の底に沈んだパンの方が大事らしい。ようやく見つけた欠片を匙ですくい上げ、満足そうに口へ入れていた。
◆
食事が終わると、子供はすぐ糸を取り出した。
「エルザ」
「はい」
「できるようになった」
さっき軒下でも一度見せたばかりなのに、もうすっかり自信がついたらしい。
エルザが椅子を少し寄せた。
「見せてください」
子供が両手へ糸を掛ける。一度、指を間違えたのか少し戻し、今度は別の糸を取る。
昼間より時間は掛かったが、最後まで形が崩れなかった。
「できた」
「はい。ちゃんとできています。良く覚えましたね」
エルザが笑う。子供も嬉しそうに形を見る。
「次の教えて」
「今日はここまでです」
「えー」
「まず、それを一人で間違えずに作れるようになってからです」
「できたよ」
「さっき一度間違えました」
子供が食い下がる。
「明日の朝できたら?」
「どうでしょう」
「教えて」
「考えておきます」
拒否ではない。子供もそれが分かったのか、少しだけ機嫌を直した。
ヴェラがエルザを見る。
「教えるのも上手なんですね」
「そうですか?」
「間違えながらも一人でできていました」
エルザは子供の糸を見る。
「本人が覚えるのが早いんです」
「エルザはすごいよ」
子供が言った。
「手がパパパパッってすっごく早かった」
「私のは長くやっているから少し上手なだけです。最初は下手でしたよ」
「いっぱいやった?」
「ええ、いっぱいです」
エルザが笑う。
ちりん。
髪際に戻っていたリンが小さく鳴いた。子供がすぐそちらを見る。
「リンはあやとりできる?」
「できないと思います」
「手ないもんね」
ちりん。
「今の、怒った?」
「さあ」
エルザがリンを見る。
「でもリンは飛べます」
もう一度、ちりんと鳴った。
◆
食事のあと、父親が客用の部屋まで案内してくれた。村の中央寄りにある小さな建物で、普段は商人や用事で泊まる人間が使うらしい。
「毛布は中にある。水は裏の桶。朝は早いぞ」
「ありがとうございます」
「マルセルはもっと早いからな。置いていかれたくなきゃ起きろ」
「そこは仕事なので起きますよ」
「仕事だと思うと起きるのが嫌にならないか?」
わかる。
男が帰ろうとする。
「今日はありがとうございました」
声を掛けると、振り返った。
「何が?」
「色々聞けたので」
「ああ」
少しだけ考えたあと、男は肩をすくめた。
「畑の失敗なら、まだあるぞ」
「そっちですか」
「聞きたきゃまた来い」
「本人が話す気なんですね」
「もう女房にばらされたからな」
男が笑った。
「じゃあ、また明日」
「はい」
暗い道を家の方へ戻っていく。
少し離れたところから、子供の声が聞こえた。
「父ちゃん、できた!」
「さっき見た!」
「もう一回!」
「分かった、分かった!」
声は家の中へ消えた。
俺たちは客用の部屋へ入った。狭い部屋に簡単な寝台が三つ並んでいる。
エルザが荷物を置き、ヴェラも盾を壁へ立て掛けた。
「エルザさん、楽しそうでしたね」
ヴェラが言った。
「そうですか?」
「はい」
「かなり」
俺も続ける。
エルザがこっちを見た。
「二人とも同じことを言うんですね」
「見てましたから」
「子供に教えるのが好きなんですか?」
「嫌いではありません」
そこで少し考える。
「覚えてくれると、嬉しいですね」
「なるほど」
昼間の速さを思い出す。
「でも、あれで『少し』なんですよね」
「まだ言いますか?」
「気になって」
「ノワールさんができなさすぎるだけかもしれませんよ」
「まだ一回もやってません」
「では、王都へ戻ったら試しますか? 教えますよ」
「……考えておきます」
エルザが小さく笑った。
窓の外は暗い。王都ならまだ人の声や車輪の音が聞こえていそうな時間だった。
ここでは、ときどき家畜の鳴き声がするくらいだ。
昼間に聞いた言葉が浮かぶ。
十年くらい。
最初はな。
女房はこの村の生まれ。
あいつもここで生まれた。
それだけが、妙に頭に残った。
俺は毛布を引き寄せた。
◆
朝、目を覚ました時には、外でもう何かを運ぶ音がしていた。
戸を開けると、冷たい空気が入ってきた。草の先にはまだ露が残り、遠くで家畜が鳴いている。
村のあちこちで戸が開き、人が出てくる。昨日の夕方とは逆に、少しずつ音が増えていた。
「もう始まってますね」
後ろからエルザが出てくる。
「早いですね」
ヴェラも続いた。
持ってきた保存食で簡単に朝食を済ませ、マルセルの馬車が止まっている場所へ向かった。
昨日はまだ余裕のあった荷台の周りに、すでに袋や箱が並べられていた。
「おはよう」
マルセルが手を上げる。
「おはようございます」
「ちょうどいい。積むぞ」
御者が大きな袋を一つ持ち上げる。
「重いのは下。箱は後だ」
「手伝います」
「じゃあ、その豆の袋から頼む」
俺とヴェラで袋を持つ。
「……昨日の箱より全然重いですね」
「中身が入ってるからな」
「それはそうですけど」
荷台の奥へ運ぶ。床へ置くと、どすんと低い音がした。
「もう少し右」
御者が言う。
「ここですか?」
「そう。隙間空けすぎると揺れた時に動く」
次の袋を隣へ置き、その上には軽い物を載せる。箱の間には藁を詰め、縄を掛けて荷が横へ動かないよう締めていく。
「……俺も締めてみて良いですか?」
マルセルの許可をもらって荷に縄を掛ける。
前に見た手順を思い出しながら縄を引き、結び目を作る。荷の位置を見て、もう一度締めた。
「どうですか?」
「おお、しっかり固定できてるな。なんだ、こういうの慣れてるのか?」
「いえ。前に見た縛り方を真似してみたんです」
ちゃんと覚えていた。
その後も固定を手伝った。見ているだけなら単純に積んでいるように見えるが、実際に手伝うと置く場所が全部決まっている。
「これ上ですか?」
エルザが箱を持って尋ねる。
「それは上だ。潰したくない」
「分かりました」
マルセルが荷台へ入り、ここまで載せた荷を一つずつ押して確かめる。エルザも縄の結び目を見ていた。
「この縄、少し緩く見えます」
「最後まで積んだら締め直す。走り出してから一回止まるから、その時にも見る」
「分かりました。緩んだら言います」
「頼む」
昨日とはまるで違う荷台になった。座れる場所はほとんど残っていない。
これなら、帰りはほとんど歩くことになりそうだ。
最後の箱を載せたところで、子供が走ってきた。
「エルザ!」
その後ろから父親も歩いてくる。
「走るなって昨日も言っただろ」
「転んでない!」
「結果の話じゃない」
子供は俺たちの前まで来ると、すぐ両手を出した。糸が掛かっている。
「見て」
昨日教わった形だった。途中までではない。ちゃんと最後まで出来ている。
「一人で作ったんですか?」
エルザが聞く。
「うん!」
「上手です」
子供が満足そうに笑う。
「次のは?」
「もう出発なので」
「えー」
「また来られた時にしましょう」
「ほんと?」
エルザが少し考えた。
「その時まで、今日のを忘れなかったらです」
「忘れない!」
「では、約束です」
子供が何度も頷いた。
父親が後ろからエルザを見て笑った。
「随分気に入られたな」
「俺は駄目でした」
「見れば分かるぞ」
父親が笑う。
マルセルが荷台の横から声を上げた。
「そろそろ出るぞ」
「はい」
父親へ頭を下げる。
「お世話になりました」
「こっちこそ。帰り気をつけろよ」
「はい」
「昨日より重いからな」
馬車を見る。荷台には隙間なく荷物が積まれている。
「帰りの方が大変そうですね」
「そういうことだ」
父親が手を上げた。
子供もあやとりを崩さないよう、片手だけ少し振ろうとして失敗した。
「あっ」
形が崩れる。
「……」
しばらく糸を見る。
「エルザ!」
「戻せますよ!」
エルザが笑った。
「昨日教えたところからやってみてください!」
「分かった!」
そのまま糸と格闘し始めた。
◆
御者が馬の手綱を取った。
「最初、少し重いぞ」
馬が前へ身体を入れる。荷台が軋み、昨日より明らかに動き出しが遅い。
車輪が土へ食い込み、それからゆっくり回り始めた。
「全然違いますね」
俺が言う。
「あれだけ積めばな」
マルセルが荷台の横を歩きながら答えた。
「今日は基本歩いてくれ。特に下りは乗らない方がいい」
「分かりました」
「止めるのも昨日より時間がかかる。前へ出すぎるなよ」
御者も言う。
ヴェラが馬車の右側へ回った。
「帰りは、私は右後ろを歩いてもいいですか?」
「何か理由があります?」
俺が聞く。
「荷台の後ろと、右側の道を両方見たいです。盾を持ったまま前へ寄るより、その方が邪魔にならないと思います」
馬車を見る。確かに、荷が増えた分だけ後方は見えにくい。
「俺は左前でいいですか?」
「はい」
「私は後ろを見ます」
エルザが言った。
「縄も確認します。揺れて緩んだら止めてもらいます」
「お願いします」
三人の位置が決まった。
馬車が村の道を進む。子供の姿が少しずつ遠くなっていく。
まだ軒先で糸を触っていた。父親がその横に立っている。
曲がり角を過ぎると、見えなくなった。
街道へ出る。
荷を積んだ車輪が、昨日より深い跡を土へ残していく。
俺たちはその横を歩いて、王都へ向かった。




