第76話 知っている遊び
「見れば分かる」
男が笑いながら畑から上がってきた。膝まで土のついたズボンに、袖を肘までまくったシャツ。手には小さな鎌を持っている。
「久しぶりだな」
「前に頼まれてた物も持ってきたぞ」
「助かる。金具が先に駄目になるとは思わなかった」
「使い方が荒いんじゃないのか?」
「農具なんて荒く使うもんだろ」
マルセルが笑い、荷台へ回った。どうやら何度も取引している相手らしい。
「降ろすの、手伝います」
「おう。そっちの箱二つだけ頼む。奥のは帰りに使うから、そのままでいい」
俺とヴェラが荷台へ上がった。箱は見た目ほど重くない。中で金属同士が触れる音がする。
「どこへ置けばいいですか?」
「そこの軒下でいい」
農家の男が家の横を示す。エルザは荷台から布包みを受け取り、マルセルへ渡していた。
「それは?」
「針と糸。あと細い紐だ」
「こっちじゃ足りなかったか」
「冬まで考えると少し欲しいって話だったろ」
「そうだったな」
箱を置いて戻ると、家の戸が開いた。女の人が顔を出す。
「マルセルさん?」
「邪魔するぞ」
「ちょうどよかった。昨日、隣からも頼まれた物があるの」
「増やすなよ」
「まだ言ってないでしょう」
農家の男が横で笑った。
「諦めろ。来た時点で仕事は増える」
「まあ、仕事があるのは良いことだからな。実は大歓迎だ」
三人のやり取りに、ヴェラが小さく笑った。
女の人は俺たちへ気づくと、軽く頭を下げる。
「護衛の方?」
「はい。〈コンパス〉です」
「遠いところ、ご苦労さまです」
遠いと言っても、馬車で半日ほどだ。ただ、尻に受けた被害まで考えれば、少しくらい労ってもらってもいい気はする。
「父ちゃん、これ運ぶ?」
さっきの子供が、小さな籠を持ち上げた。
「それは空だろ」
「運ぶ」
「じゃあ納屋に運んでおいてくれ」
「うん」
子供は籠を抱えて走り出した。
「走るな。転ぶぞ」
「転ばない!」
言った直後、石につまずきかけた。両手で籠を抱えたまま踏ん張る。
父親が何も言わずに見ている。子供も何事もなかったように歩き出した。
「今のは転んでないよ!」
「そうだな」
今度はちゃんと歩いて納屋へ向かった。
◆
マルセルの買い付けは、その場ですぐ荷物を積むわけではなかった。農家ごとに出せる量を確かめ、翌朝までに集めてもらうらしい。
俺たちは邪魔にならない範囲で付いて歩いた。
穀物や根菜、乾燥させた豆、乳を加工した固いもの、塩漬けにした肉。同じ村でも、家ごとに出せる物は違う。
「今年はこっちの畑が少し少ないな」
マルセルが束ねた紙を見ながら言った。
「春の雨が遅かったからな」
農家の男が答える。
「その代わり豆の出来はいい。そっちは予定より出せる」
「じゃあ少し増やすか」
「無理に持っていかなくてもいいぞ」
「王都なら売れる」
「なら頼む」
二人の会話は早い。俺には畑を見ても、出来がいいのか悪いのかさっぱり分からない。
エルザは土の端へしゃがみ込んでいた。
「何かありました?」
「いえ。畝の間隔がきれいだと思って」
記録しているのかと思ったが、手帳は出していなかった。ただ眺めている。
「興味あります?」
「少し」
「農業に?」
「こういう場所を見ることが、です」
エルザが立ち上がる。
「王都とはずいぶん違いますから」
家の数は少なく、道も土のままだ。それでも、人は行き来している。
畑の向こうでは誰かが家畜を移動させ、別の家では軒下へ何かを干していた。静かというより、聞こえる音が違う。車輪や人の声より、風や家畜の鳴き声の方が近かった。
◆
ひと通り確認が終わる頃には、日がかなり傾いていた。
「残りは明日の朝だな」
マルセルが紙を畳む。
「今日はこれ以上積まないんですか?」
「今積んでも外で一晩置くだけになる。朝の方がいい」
「なるほど」
「お前らの寝るところも用意してある。あとで案内するよ」
農家の男が言った。
「ありがとうございます」
「礼なら村長に言ってくれ。客用の部屋を空けてるだけだ」
その時、軒下に座っていた子供が目に入った。
両手を前へ出し、指の間に細い糸を渡している。手を開いたり、指を差し込んだりしていた。
見覚えがある。
「……それ、あやとりですか?」
思わず声を掛けた。
子供が顔を上げる。
「知ってるの?」
「知ってますよ」
自分でまともに出来た記憶はほとんどないが、見たことくらいはある。
子供が急に立ち上がった。
「父ちゃん!」
「何だ」
「この人、あやとり知ってる!」
農家の男が俺を見る。一瞬だけ、顔から笑いが消えた。
「……お前、これ知ってるのか?」
「はい。子供の頃に見たことがあります」
「こっちで?」
「いえ」
言ってから、俺も気づいた。
男が少し目を細める。
「落人か?」
「はい」
今度はこちらが男を見る番だった。
「もしかして……」
「ああ」
男が笑った。
「俺もだよ」
「え」
横からエルザの声がした。ヴェラも男を見る。
さっきまで畑の出来をマルセルと話していた人。
土のついた服で、子供に走るなと言っていた人。
それが、俺と同じ落人だった。
「いつ頃こちらへ?」
「もう十年くらいになるかな」
「十年……」
「正確には数えてない。最初の何年かは数えてたんだけどな」
男は何でもないことのように言った。
「帰る方法は、探したんですか?」
「最初はな」
短い返事だった。
「ずっと、この村に?」
「最初からじゃない。でも、今はここに住んでいる」
畑の方を見る。
「結構長い」
男は家の方へ目を向けた。
「女房はこの村の生まれだ。あいつもここで生まれた」
視線の先では、子供がまた糸を指へ掛け直していた。俺もそちらを見る。
「前の世界でも農家だったんですか?」
尋ねると、男は吹き出した。
「まさか」
「違うんですか?」
「家庭菜園すらやったことない」
「え?」
「土いじりなんて、学校でやらされたくらいだ」
さっきまでマルセルと収穫量の話をしていた人とは思えない。
「じゃあ、こっちへ来てから全部覚えたんですか?」
「そう」
「何でまた農家を?」
「やってみたかったから」
返事は短かった。
「前から田舎暮らしには憧れてたんだよ。畑やって、自分で食う物作って、みたいな」
「本当にやったんですね」
「場所が場所だからな」
男は笑う。
「せっかくなら、やってみるかって」
畑の向こうから、女の人が声を上げる。
「いつまで話してるの。水汲みお願い」
「ああ、今行く」
「父ちゃん!」
「今度は何だ」
子供が糸を指へ掛けたまま追いかけてくる。
「新しいの教えて」
「もう知らん」
「またそれ」
「知らんもんは知らん」
「これと、これと、これしか知らない」
「三つも知ってれば十分だろ」
「少ない」
「贅沢言うな」
子供が頬を膨らませた。
男が俺を見る。
「お前、何かできる?」
「無理です」
即答した。
「知ってるって言っただろ」
「知ってるのと出来るのは別です」
「役に立たねえな」
「初対面でひどくないですか?」
子供が俺を見る。期待していた目が、すぐに普通へ戻った。
その変化が少し悲しい。
「私、できますよ」
エルザが言った。
「え?」
俺より先に、子供が反応した。
「できるの?」
「はい」
エルザがしゃがむ。
「少し貸してもらえますか?」
「うん!」
子供が急いで糸を外した。輪になった糸を受け取り、エルザが両手へ掛ける。
「エルザさん、あやとりもできるんですね」
「ええ。少し」
糸を指へ渡すと、エルザの指が迷いなく動いた。何度か糸を取り替え、両手を開く。もう形が出来ている。
「おお?」
どうやったのかはさっぱり分からないが、かなり複雑なのは俺にも分かった。
子供が前へ寄った。
「それ知らない!」
「では、これは?」
エルザの指がまた動く。糸を一度緩め、人差し指ですくい、手首を返す。さっきまで横へ広がっていた形が、縦に細く変わった。
「こんなの知らない!」
「次です」
一本を歯で軽く引き、指を入れ替える。もう違う形になっていた。
「……エルザさん?」
「はい?」
こちらも見ずに答える。
今度は両手を近づけ、一度糸を重ねる。そこから中指だけを抜くと、形がまた変わった。
「ちょっと待ってください」
「何ですか?」
「少しって言いませんでした?」
「言いましたね」
「それ、少しですか?」
ようやくエルザが俺を見た。
「私の基準では少しです」
「俺の基準ではおかしいレベルです」
子供はもうエルザのあやとりに興味津々だった。
「次は?」
「これを覚えてからです」
「覚える!」
「では、ここを見てください」
エルザがゆっくり最初から指を動かす。さっきまでの速さとは違い、子供でも追えるよう一つずつ止めていた。
「ここに入れて」
「はい」
「こっちを取ります」
「これ?」
「そうです」
子供が真似する。途中で一本落ちた。
「あ」
「大丈夫です。そこから戻せます」
「戻せるの?」
「はい」
エルザが横から指先を添え、糸を一つ前の位置へ戻した。また続ける。
いつの間にかヴェラも隣へしゃがんでいた。
「すごいですね」
「ヴェラさんまで」
「一本の糸でこんなに複雑な形を作れるんですね……初めて見ました」
「同じ糸なのに、いろんな形になるから面白いんですよ」
ちりん。
リンまでエルザの手元へ近づいている。
「これ何!?」
子供がリンを見て驚く。
「精霊ですよ。リンって言います」
「へー! 初めて見た!」
子供の目が輝きっぱなしだ。糸が動くたび、リンも左右へふらふら動く。
「リン、入らないでください」
ちりん。
「そこへ入ると邪魔です」
少し下がった。
「分かるんですね」
「分かっていると信じます」
子供が笑った。
そのままリンへ手を伸ばすと、リンはすっと距離を取った。
少し離れたところで見ていた父親が腕を組む。
「楽しそうだな?」
「この人いっぱい知ってる!」
「そうか、良かったな」
男が笑う。
エルザは子供に次の指の位置を教えていた。
「そこに指を入れて、そうです……上手ですよ」
いつもより少しだけ、声が弾んでいた。
◆
日が沈む頃には、村のあちこちから煙が上がっていた。畑から人が戻り、家畜が柵の中へ入っていく。昼間より人の声は減り、代わりに食事の匂いが風に混じってくる。
マルセルは明日の積み込み時間を農家と確認し、俺たちも泊まる場所へ向かうことになった。
子供は軒下に残り、まだ糸を指へ掛けていた。
「できた!」
エルザが教えた形が、今度は最後まで崩れずに残った。
「見て!」
父親が振り返る。
「おお。よかったな」
「エルザに教えてもらった!」
子供はエルザの名前を覚えたようだ。
「知ってるよ。ずっと見てたぞ」
父親は子供を見つめながら笑った。
子供は崩さないように両手を広げたまま、何度も出来上がった糸の形を見ていた。




