第74話 来る場所を残す
朝食を終える頃、エルザが足元の鞄を開いた。
中から、小さな布袋が出てくる。
見覚えがあった。
「……それも持っていくんですか」
「はい」
「狸も?」
「あたりまえじゃないですか?」
昨日、食堂の卓で使った猫と兎と狸だ。
「どこで使うんです?」
「使うことになれば、あった方が分かりやすいと思います」
「まだ決まってないんですね」
「今日は依頼板を見てからでしょう?」
「そうでした」
エルザが布袋を鞄へ戻す。
狸だけ置いていけばいいのに。
◆
冒険者ギルドへ着くと、昨日見た地上の依頼がいくつか残っていた。
荷運び、店の手伝い、城壁周辺の確認。新しく増えている札もある。
三人で依頼板の前に立つ。
「今日でも受けられそうですね」
城壁周辺の札を見る。
「そうですね」
エルザも内容を確認する。
ヴェラは別の札へ目を移したあと、少し考えてから依頼板を離れた。
「ヴェラさんは、どれがいいです?」
「私は……先に、一昨日の動きを試したいです」
「稽古を?」
「はい。昨日決めたことを、一度動いて確かめてからの方が良いと思います」
「私もそう思います」
エルザが頷く。
「分かりました。俺もそれでいいです」
昨日決めたのは、今日必ず依頼を受けることではない。
まず見て、それから三人で決める。
依頼札を戻したところで、受付のミラがこちらを見た。
「あれ? 今日は受けないんですか?」
「先に、一昨日詰まった動きを稽古で試してこようと思って」
ミラが少し考える。
「一昨日、位置が詰まったと報告していたところですか?」
よく覚えていてくれているな。
「はい。昨日、三人で少し整理したので」
「分かりました。戻ってからまだ札が残っていれば、その時にまた声を掛けてください」
「ありがとうございます」
それだけ伝えて、職人区へ向かった。
途中でエルザの髪際からリンが少し浮く。
ちりん。
「『いく』だそうです」
「リンも賛成ですか」
ちりん。
「はい」
「怖いおじさんのところに行くんですよ?」
「リンに変なことを吹き込まないでください」
「前に『こわい』って言ってましたよ?」
ちりん。
「『いく』ですって」
「『こわい』の意味がわかってるんですかね?」
俺の評価も聞いてみたくなった。
「リン。俺は怖いですか?」
ちりん。
「エルザさん、何て言ってます?」
「……『よわい』……」
「……」
エルザとヴェラが顔をそらした。
二人とも肩が揺れている。
「聞いた俺が悪かったです」
◆
板塀の門をくぐると、ドランは庇の下で片刃剣を拭いていた。
三人で入ったところで顔を上げる。
「今日は何だ」
相変わらずの不愛想だ。
「おはようございます、師匠。今日は三人で試したいことがあるんです」
「場所を少しお借りしてもいいですか?」
「勝手に使え」
「少し狭い場所も作りたいのですが」
ドランの眉が動いた。
「……何する気だ」
エルザが鞄を開く。
「一昨日、ダンジョンで――」
布袋から三つの駒を出した。
猫。
兎。
狸。
ドランの手が止まった。
嫌な予感がする。
「この狸がお前か」
なんで分かるんだよ。
「そこからですか?」
「違うのか」
「合ってます」
エルザが即答した。
「エルザさん」
「説明を進めます」
ドランは俺を一度見てから、駒へ視線を戻した。
エルザが硬貨を一枚置く。
「こちらをマッドクローとします」
「俺が硬貨でも良いんですよ?」
足掻いてみる。
「昨日も決めたとおりの配役です。変えません」
「まだ納得してません」
「話を進めろ」
ドランに怒られた。
エルザが硬貨を俺たちの右前へ置く。
「最初はここにいました。そのあと、私たちの前を横切って左の壁へ移動しました」
硬貨が左へ滑る。
ヴェラが兎を同じ方向へ動かした。
「私は左へ対応しました」
「そこまでは問題ありませんでした」
エルザが硬貨を左端で止める。
「そのあと、マッドクローが壁を使って右へ切り返しました」
硬貨が一気に右へ戻る。
ヴェラも兎を右へ戻そうとして、途中で止めた。
「ここで右脚が遅れました」
「それで『右、遅れます』と伝えました」
狸はその場に残る。
「ノワールさんは前へ出るのを止めました。ここまでは問題ありません」
エルザが硬貨を右奥へ動かす。
「そのあと、岩で灯りが遮られました」
「俺は見えなくなって、左へ動きました」
狸を左へ動かす。
途中で止まっていた兎へ当たった。
「ヴェラさんは、右へ戻る途中でした」
「はい。戻るつもりでしたが、まだそこまで動けておりませんでした」
「それで位置が詰まりました」
ドランは駒を黙って見ている。
エルザが続けた。
「昨日、三人でここまで整理しました」
「それで?」
「次に同じことが起きた時は、可能なら私が動く方向も伝えます」
ヴェラが言う。
「例えば『右、遅れます。右へ戻ります』のように」
「俺は見えなくなっても、すぐ横へ動かずに『見えない』と伝える」
「その時、必要なら私が灯りを動かします」
エルザが最後に付け足した。
ドランは駒をしばらく眺めた。
それから立ち上がる。
「ついてこい」
◆
庇の奥には、古い板や使っていない打ち込み台が立て掛けてあった。
ドランが幅広の板を二枚引きずり出し、一枚を柱の近くへ、もう一枚を少し前へずらして置く。板と板の間に、人が通れる細い道ができた。
外からの光は入るが、庇の奥はもともと薄暗い。板の位置次第で向こう側が影になり、松明を動かせば光の当たる場所も変わる。
「こんなもんか」
エルザが中を覗く。
「近いと思います」
俺も覗く。
「実際はもう少し狭かったです。あと、もっと暗かったです」
「狭くして怪我するなら意味ねえだろ。そもそも折角作ってやったものに文句つけるんじゃねえ。なんなら枝も置くぞ」
「とても素晴らしい出来です」
すぐに引き下がった。
エルザが持ってきた松明へ火をつける。橙色の明かりが板の表面を照らし、位置が少し変わるだけで反対側の影も動いた。
「松明を板に近づけすぎるな」
「はい」
ドランが腰掛けを指す。
「そいつはそこへ置いとけ」
リンのことらしい。
「リン、ここで見ていてください」
ちりん。
リンは素直に腰掛けの上へ移った。
「今日は聞き分けがいいですね」
「余計なこと言うな」
「はい」
ヴェラが木盾を持つ。
俺は木剣。
エルザは松明。
ヴェラが前、俺がその後ろ、エルザがさらに後ろへ立った。
ドランが板の向こうへ移動する。
「本当に右足を遅らせる必要はねえ。遅れたつもりでやれ」
「はい」
「始めるぞ」
◆
ドランが右前から入ってくる。
ヴェラが盾を向けた。
ドランはそのまま俺たちの前を横切り、左の板へ寄る。
ヴェラも左へ動く。
板の手前で、ドランが急に向きを変えた。
右へ戻る。
ヴェラも盾を返した。
一歩目で止まる。
「右、遅れます。右へ戻ります」
俺は前へ出るのを止めた。
ヴェラが右へ戻り始める。
ドランはその先で板の陰へ入った。
木剣が影へ消える。
「見えません」
「はい」
エルザが答える。
ここまでは昨日決めた通りだ。
ヴェラは右へ動いている。
なら、その場所を空けておいた方がいい。
俺は少し左へ寄った。
同時に、後ろで足音がした。
「あ」
背中へ何かが触れる。
「すみません」
振り返ると、エルザだった。
俺が左へ寄り、エルザも左から灯りを回そうとしている。
「止まれ」
ドランの声が飛んだ。
ヴェラも盾を下ろす。
「……また近くなりましたね」
「はい」
「多く喋るようになっただけだな」
ドランの言葉のとおりだった。
ドランがヴェラを見る。
「右へ戻れたか」
「はい」
「だそうだ」
今度は俺を見る。
「なのに何で動いた」
「戻る場所を空けた方がいいかと」
「最初から空いてただろ」
足元を見る。
ヴェラが戻った場所と俺が最初にいた位置は重なっていない。
「……空いてました」
「余計に動いて邪魔してどうする」
「そう思います」
次にエルザ。
「お前は」
「ノワールさんが見えないと言ったので、左から灯りを回そうとしました」
「そいつの隣まで行かなきゃ照らせねえのか」
エルザが松明を見る。
元の位置へ戻り、その場から腕だけを少し横へ伸ばした。
板の向こうへ光が回る。
俺からもドランの腕が照らされているのが見えた。
「あ」
エルザが松明を戻す。
「足まで動かなくても良かったですね」
「二人とも前にも言ったな」
ドランが俺とエルザを見る。
エルザが先に気づいた。
「あ」
俺も思い出す。
まだ二人だけで動いていた頃。
ここで初めて、お互いの足運びを合わせた時だ。
あの時も、ぶつかりそうになった。
「相手に合わせようとしすぎるな。相手が来る場所を残せ、慣れれば相手はそこに勝手に収まる」
前と同じ言葉だった。
「……言われましたね」
「覚えてるなら使え」
「二人の時と同じですか?」
「人数が増えただけだ」
ドランが板の間を指す。
「一人が動くたびに全員で合わせてたら、狭いところじゃ邪魔になる」
それだけだった。
「もう一回」
◆
元の位置へ戻る。
ドランが右前から入る。
左へ走る。
ヴェラも左へ動く。
板の前で、右へ切り返した。
「右、遅れます。右へ戻ります」
俺はその場に残った。
ヴェラが右へ戻る。
最初から空いていた場所へ、そのまま入る。
ぶつからない。
ドランが板の陰へ入った。
「見えません」
「灯り、動かします」
今度はエルザの足音がしなかった。
松明だけが少し横へ出る。
板の向こうへ光が差し、ドランの木剣が照らされた。
「見えました」
こん、と盾に木剣が当たった。
ヴェラが受ける。
俺は隣へ出ない。
エルザも後ろにいる。
そのままドランが止まった。
「できましたね」
エルザが松明を戻す。
「今の形なら」
ヴェラも盾を下ろした。
「じゃあ――」
「もう一回だ」
ドランが元の位置へ戻る。
「今のは、お前らが決めた通りに俺が動いただけだ」
「次は違うんですか」
「獣が相談通り動いてくれるなら楽だな」
「それはそうですね」
木剣を構え直す。
◆
三度目。
今度はドランから説明がなかった。
ヴェラが盾を上げる。
俺も木剣を構える。
エルザの松明が後ろで揺れる。
ドランが右前から入ってきた。
左へ抜ける。
ヴェラが盾を向けながら左へ動く。
板の手前でドランが右へ返った。
「右、遅れます。右へ戻ります」
ヴェラが右へ動き始める。
俺は残る。
ドランが板の影へ入った。
「見えません」
「灯り、動かします」
光が横へ回った。
板の向こうにドランの脚が見える。
次の瞬間、その向きが変わった。
右へ抜けるはずだった身体が、こちらへ返る。
ヴェラが足を止めた。
「右へ戻りません。ここで受けます」
盾がその場で上がる。
俺も動かない。
ドランが盾の外側へ回る。
一度、また板の影へ消えた。
「見えません」
エルザが松明を少し戻す。
光の中へドランの肩が出た。
俺の前だった。
木剣は最初から正面にある。
少し向きを変える。
その先へドランが入ってきた。
止まる。
俺も止めた。
剣先とドランの胸の間には、まだ距離がある。
ヴェラの盾は横に残っている。
エルザも後ろだ。
誰ともぶつかっていない。
ドランが俺の木剣を横へ払った。
「今のだ」
「今の?」
「お前が追ったんじゃねえ。俺が来た」
自分の足元を見る。
最初からほとんど動いていない。
ヴェラも、右へ戻る途中で止まっただけだ。
ドランがヴェラを見る。
「最初は右へ戻るって言ったな」
「はい」
「途中で変えた」
「はい。戻るより、その場で受けた方が良いと思いました」
「なら、今みたいに変わった時も言え」
「はい」
「一瞬が惜しい時は声を出すのを忘れやすい。だが、黙って変えりゃ、後ろは最初に聞いた方で動く。だから声を出せ」
「承知しました」
ヴェラが頷く。
昨日考えた「右へ戻ります」が正解だったわけではない。
変わったなら、変わったことを言う。
「もう一回やりますか?」
俺が聞いた。
「やらん」
「一回うまくいっただけですよ」
「だからだ」
ドランが俺の木剣を取り上げる。
「同じの繰り返して、次も同じ形が来ると思い始めたら意味がねえ」
「もう少し身体に覚えさせた方が――」
「お前は覚えた形に寄りかかるだろ」
何も言えなかった。
「そんなに分かりやすいですか?」
「普段は飄々としているくせに、戦いでは単純になる。逆の方が少しマシになるぞ」
エルザが顔を横へ向けた。
「エルザさん」
「何でしょう」
「師匠の指摘、どう思いますか?」
「わかりません」
腰掛けから鈴の音がした。
ちりん。
「リンは何て?」
「言いません」
エルザは松明の火を消しに行った。
逃げた。
◆
使った板を元の場所へ戻す。
一枚は思ったより重かった。
「そっち持て」
ドランに言われ、反対側を持つ。二人で壁際まで運び、元の場所へ立て掛けた。
ヴェラは木盾を戻している。
エルザは腰掛けに残していた駒を布袋へ入れ始めた。
猫。
兎。
狸。
狸を入れる時だけ、リンが近づいた。
「触らないでくださいね」
ちりん。
「昨日ノワールさんを倒したでしょう」
狸を守るエルザの手を、リンは掻い潜ろうとする。
「倒した?」
ドランがこちらを見た。
「何でもありません」
◆
板塀を出たところで、ヴェラが振り返った。
「ありがとうございました」
中から返事はなかった。
たぶん聞こえている。
職人区の通りを歩く。
「どうでした?」
エルザがヴェラへ聞いた。
ヴェラは少し考える。
「駒で動かした時より、分かりやすかったです」
「そうですね。実際に動くと、余計に動いていたところも分かりました」
「昨日決めた言い方に、毎回合わせる必要はないのですね」
ヴェラが言う。
「相手が同じように動くとは限りませんからね」
前から荷車が来た。
三人並んだままでは通りにくい。
エルザが右へ寄る。
ヴェラがその隣へ入った。
左側が空いた。
俺はそこを歩く。
荷車が横を抜けていった。
三人の足音がまた並ぶ。
「こういうのは出来るんですけどね」
俺が苦笑すると、二人も小さく笑った。
エルザの髪際で、小さく鈴が鳴った。




