第73話 潜らない日
目が覚めて最初にしたのは、右手を開くことだった。窓から入る朝の光が、指の間を通る。
指を伸ばす。握る。もう一度開く。
痺れはない。
昨日、マッドクローを剣で逸らした時の感覚も残っていなかった。
「よし」
小さく呟いてから身体を起こし、床へ足を下ろす。朝の板床は少し冷たい。
だからといって、今日は剣を振りに行くつもりはない。
そのはずだ。
◆
一階へ下りると、エルザとヴェラはもう席についていた。厨房では朝食の片づけが始まっていて、食器を重ねる音が時々聞こえる。
ヴェラの前には朝の粥。エルザの髪際にはリン。
いつもの朝だった。
「おはようございます。右腕はどうですか?」
こちらが挨拶するより先に質問が飛んできた。
「痺れはありません。痛みもないです」
右手を軽く上げる。
「握るのも問題なしです」
「良かったです」
ヴェラも自分から口を開いた。
「私も、今朝は右脚に重さも痛みもございません」
「なら――」
「潜りません」
「潜るのはやめましょう」
エルザとヴェラが同時に言った。
俺は椅子を引く手を止めた。
「……まだ何も言ってませんけど」
「昨日、ノワール様は右腕が痺れました」
「今は治ってます」
「私は右脚が重くなりました」
「今は大丈夫なんですよね」
「はい。ですので、今日は休みます」
言い切られた。
エルザが粥を口へ運びながら頷いている。
「私も賛成です」
俺が来る前に、すでに話はまとまっていたようだ。
「二対一ですか」
「ノワールさんもこちらに入ってください。仲良くしましょう」
エルザが匙を持ちながら、妙に優しい声で俺を勧誘する。
若干胡散臭い。
「……別にまだ反対してませんよ」
座る。
女将が俺の前にも器を置いた。湯気と一緒に、穀物の甘い匂いが上がる。
「朝から何の相談だい」
「今日はダンジョンへ行かない相談です」
「じゃあ相談終わってるじゃないか」
「そうなんですよね」
粥を食べる。
そこでリンが、エルザの髪際から少し浮いた。俺とヴェラを順に見るように揺れる。
ちりん。
「リンも俺に懐いてくれましたね」
エルザの匙が止まる。
「私の耳には違うことが聞こえてますが、何故そう思ったのですか?」
「雰囲気です」
「ヴェラさん、ノワールさんがこういう時は、まず疑ってください」
エルザの助言にヴェラが素直に頷いた。
今日は普通に相手をしてくれた。
嬉しい。
◆
朝食のあと、冒険者ギルドへ向かった。
依頼を受けるためではない。
朝の通りには店を開ける音が残っている。板戸が外され、荷車が石畳を軋ませながら横を通った。
昨日の報告について、その後何か分かったことがないか。
それだけ確認しておきたかった。
ギルドへ入ると、朝の依頼を探す人たちがまだ掲示板の前に集まっていた。ミラは受付の奥で書類を束ねている。
「おはようございます」
「おはようございます。身体は大丈夫ですか?」
「今朝は大丈夫です」
「私も問題ございません」
ヴェラが答える。
「良かったです」
ミラは手元の紙を一枚抜いた。紙の束が擦れる。
「昨日のマッドクローは、朝の作業班が回収しています。場所も確認できました」
「ありがとうございます」
「石粉の方は?」
エルザが聞く。
「そちらも記録へ回しています。ただ、今のところ通行止めにはなっていません」
「原因はまだ分からない?」
「はい。今のところ、すぐ通行止めにするほどとは見られていません。しばらく巡回時に見ることになると思います」
それなら、俺たちが今日確かめに行く話でもない。
「分かりました」
話は終わった。
終わったのだが。
受付の横にある依頼板が目に入る。
昨日まで気にしていた第一層の札とは違う。荷運びや店の手伝い、城壁まわりの簡単な確認。町の外へ出ても、ダンジョンへは入らない依頼もいくつかある。
「見るだけですよね」
エルザが横から言った。
「はい」
「今日は受けませんよね」
ヴェラも反対側から言った。
「二人とも、俺を何だと思ってるんですか」
エルザとヴェラが顔を見合わせた。
「……」
「……」
「答えに困るのはわかりましたので、顔を見合わせないでください」
ミラが口元を隠している。
隣の受付で硬貨が数えられる音がした。
「明日以降なら、地上の依頼もありますよ」
「そうします」
今日は見るだけにした。
◆
昼を過ぎても、剣は部屋に置いたままだった。
代わりに、食堂の端の卓へ三人で集まった。昼の客が引き始め、厨房から聞こえる音も朝より少ない。窓から入る光が、卓の端まで伸びている。
エルザが手帳を置く。
「昨日のこと、少しだけ確認していいですか?」
「少しだけなら」
ヴェラも頷く。
「少しだけです」
エルザは手帳を開いたが、すぐには書かなかった。
卓の上へ、小さな木の駒を三つ置く。朝、ギルドから戻る途中で寄った小物屋で買ったものだ。
可愛い猫と可愛い兎。
それから、可愛いけど少し不細工な狸。
「やっぱり必要だったんですか」
「必要でしたので買いました」
いつもの顔だ。
たぶん、それだけではない。
「これが昨日の位置です」
「俺たちですか」
「はい」
可愛い兎がヴェラ。
少し後ろの、可愛いけど少し不細工な狸が俺。
さらに後ろの可愛い猫がエルザ。
「どうして俺だけ不細工なんです?」
「話を進めます」
やっぱりその配役だったか。
エルザが一枚の硬貨を取り出した。
「こちらがマッドクローです」
「俺が硬貨でもいいんですよ?」
「進めます」
配役は変わらなかった。
硬貨が卓の右前へ置かれた。
「最初は、ここにいました」
「はい」
「そのあと、私たちの前を横切って左の壁へ」
硬貨が左へ滑る。
ヴェラが兎へ指を添え、同じ方向へ動かした。
「私は左へ対応しました」
「そこまでは問題なかったですね」
「はい」
エルザが硬貨を左端で止める。
「そのあと、壁を使って右へ切り返しました」
硬貨が一気に右へ戻る。
ヴェラも兎を右へ戻そうとして、途中で止めた。
「ここです」
「右へ戻ろうとして、右脚が遅れました」
「それで」
エルザが兎をその位置に残したまま言う。
「『右、遅れます』」
「はい」
狸はまだ後ろにいる。
「ノワールさんは、前へ出るのを止めました」
「そこまでは良かったと思います」
「私もそう思います」
エルザが硬貨を右奥へ動かす。
「そのあと、岩で灯りが遮られました」
「見えなくなりました」
「それでノワールさんが左へ」
狸が左へ動く。
こつ。
右へ戻りきれていなかった兎に当たった。
「こうなりました」
「なりましたね」
実物より分かりやすい。
ヴェラが兎へ指を置いたまま、少し考える。
「私は右へ戻るつもりでした」
「俺は、ヴェラさんがそこに残ってると思ってませんでした」
「私は灯りを動かしましたが、位置は変えていません」
エルザが猫の横で指を動かす。猫そのものはその場に残った。
三人が何をしようとしていたのかは分かっていた。
実際の位置だけが、合っていなかった。
「私が右へ戻れていれば、ぶつからなかったのでしょうか」
「たぶん。でも、戻れる前提で俺が動くのも違いますよね」
「はい」
ヴェラが頷く。
「では、次に同じように右が遅れた時は、向かう方向まで言った方がよろしいでしょうか」
「言えそうなら助かります」
「『右、遅れます。右へ戻ります』のように?」
「それなら、俺も動き終わる前に同じ場所へ入らずに済みそうです」
エルザが俺を見る。
「灯りが隠れた時もです」
「はい」
「見えなければ?」
「まず、見えないと言います」
「そのあと、すぐ横へ動く?」
「そこは一回待ちます。エルザさんが灯りを動かせるなら、そっちを先に」
「分かりました」
エルザが手帳へ手を伸ばしかける。
「これで決まりですか?」
俺が聞くと、手が止まった。
「……まだですね」
「実際に声を出しながら動けるかは、やってみないと分かりません」
ヴェラが言う。
「じゃあ、次に試す時は、稽古で一度やってからにしましょう」
「その方が良いと思います」
「私も賛成です」
「今日は?」
「やりません」
ヴェラの返事が早かった。
「まあ、休養日ですからね」
「ノワール様が忘れていなくて良かったです」
本当に忘れるとでも思われているのか。
エルザが手帳へ短く書き始める。筆先が紙を擦った。
その時、白い光が卓へ降りた。
リンだった。
ふわふわと駒の上を回る。
「リン、それは触らないでくださいね」
ちりん。
次の瞬間。
狸が押された。
ころん、と倒れる。
「……なぜ俺なんですか」
リンが浮き上がる。
「……」
「今のは偶然ですよね?」
ちりん。
「返事だけはいいですね。意味は知りたくないですけど」
エルザが笑いを堪えていた。
「記録します?」
「しません」
最近の俺への扱いを記録しておいてほしい。
◆
確認が終わると、本当にすることがなくなった。
休む日なのだから正しい。
正しいのだが、昼過ぎから何もしないというのは、意外と落ち着かない。
窓の外から、通りを行く人の声が聞こえる。
「町を歩きませんか」
エルザが言った。
「買い物です?」
「いえ、特に決めてません」
「珍しいですね」
「だって、休む日ですから」
ヴェラも立ち上がる。
「私は賛成です」
三人で外へ出た。リンも当然のようについてくる。
昼を過ぎた通りには、朝とは違う人の流れがあった。買い物籠を下げた人や荷を運ぶ店員の間を、路地から走ってきた子供が抜けていく。
市場通りへ入ると、野菜や干した果物、焼いた肉を並べた店が続き、客を呼ぶ声と食べ物の匂いが左右から重なった。
今日は武器屋へは行かない。防具屋にも寄らない。薬屋の開いた戸口から乾いた薬草の匂いが流れてきたが、そのまま通り過ぎた。
店先に吊られた革具を、ヴェラが一度だけ見た。
足は止まらなかった。
「本当に何も買わないんですね」
俺が言う。
「決めていませんでしたから」
エルザが答える。
「見るだけでも楽しいものですね」
ヴェラは通りの反対側を見ていた。
何を見ていたのかは、人が間に入って分からなかった。
焼き菓子を並べた露店の前で、エルザの足が止まった。
甘く焼けた匂いが風に乗っている。籠にはいくつかの形の菓子が並び、その中に小さな花の形をしたものがあった。
「……」
エルザが見ている。
かなり見ている。
露店の向こうでは、店主が別の客へ紙袋を渡していた。
「買います?」
「見ていただけです」
「そうですか」
「はい」
歩き出す。
市場の人波へ戻る。
少し進んだところで、エルザが振り返った。
「買わないんですか?」
「俺がですか?」
「ええ、聞いていたので」
「……欲しいんですね」
「違います」
「今の答えで買いたくなりました」
素早く踵を返す。
「待ってください」
エルザが小走りについてきた。
面白い。
ヴェラも笑いながらついてくる。
結局、三人とも一つずつ買った。
紙に包まれた菓子は、まだ少し温かい。
俺が選んだのは丸いだけのもの。
ヴェラは細長いもの。
エルザは花の形だった。
「偶然です」
「何も言ってませんよ」
「顔に出ています」
また人の流れへ混じる。
歩きながら食べる。外側は少し固く、中は柔らかい。
甘い。
特別高いものでもない。
第三道標へ着いた祝いとしては、小さすぎるくらいだった。
エルザは花の端から少しずつ食べていた。リンがその横をふわふわとついていく。
市場の声は、通りを抜けるまで背中から聞こえていた。
◆
夕方。
日が傾き、建物の影が石畳へ長く伸びていた。
〈鈍色亭〉へ戻る頃になっても、俺の右腕に痺れは戻らなかった。ヴェラからも、右脚について新しい申告はなかった。
「休みもたまには良いですね」
俺が言うと、エルザが隣でこちらを見る。
「明日はどうします?」
「明日の朝、依頼板を見てからですね。ダンジョン以外の依頼なら、受けてもいいと思います」
「私もそう思います」
ヴェラが頷いた。
「身体を使わないという意味ではありませんが、昨日と同じことを続ける必要もございません」
「じゃあ、明日の朝に依頼板を見ましょうか」
「はい」
「賛成です」
宿の扉を開ける。
中から温かい空気と、夕食の匂いが流れてきた。厨房では鍋を混ぜる音がしている。
今日一日、ダンジョンには入らなかった。
明日の予定にも、まだダンジョンの名前はなかった。




