第72話 三度目の道標
〈鈍色亭〉の一階食堂には、いつもより少し早く朝食が並んでいた。昨夜、女将が言っていた通りだ。
粥を食べ終えてから、最後に装備を確認する。剣を抜くほどのことはしない。柄を握り、鞘と剣帯を見る。
「俺は問題ありません」
向かいでは、ヴェラが椅子から立った。右脚へ一度目を落とし、右足で床を軽く二度踏む。
「痛みも張りもございません。昨日から変わった感覚もありません」
「分かりました」
「私は出発できます」
ヴェラが自分から言った。
エルザも手帳を閉じる。
「私も問題ありません。灯りと火口箱も確認しました」
「では、行きますか」
「はい」
「はい」
昨日決めた予定が、そのまま今日の予定になった。
◆
冒険者ギルドへ着くと、ミラが昨日の木札を棚から出した。
「おはようございます。今日は受けるんですね」
「はい」
依頼内容をもう一度見る。
〈灰石の口〉第一層、浅層巡回路の確認。
道標の白墨印補修。
灰苔の少量採取。
異常痕跡の記録。
変わっていない。
「第三道標手前ですが、昨夜から新しい報告はありません」
ミラが別の紙を確認する。
「新しい崩落や通行止めもなし。以前からの狭い区間はそのままです」
「分かりました」
「すぐに向かいますか?」
「はい、三人とも出発できます」
俺が答えると、ミラは頷いた。
「分かりました。では、無理はしないでくださいね」
「はい」
受諾の手続きを終え、受諾票を受け取る。ギルドを出た。
二度届かなかった第三道標へ、もう一度向かう。
今日はそこまで行けるかもしれない。
行けないかもしれない。
そのくらいにしておこう。
◆
〈灰石の口〉の入口脇では、ガイルが台帳を広げていた。
俺たちを見ると、差し出した受諾票へ目を落とす。
「また第一層巡回か」
「はい」
「三人」
俺たちを順に見る。ヴェラの右脚で視線が一度止まったが、何も言わなかった。
灯りと荷物も簡単に確認される。ガイルは台帳へ何か書き、木製の札を三枚出した。
「戻ったら返せ」
受け取って腰へ結ぶ。番号と入口の印。前と同じだ。
エルザが入口で松明へ火を移した。炎が立つ。
髪際にいたリンが、その光へ少し寄った。
「熱いですから近寄らないで」
エルザが手をかざしてリンを制止する。
ちりん。
「覚えているなら、なおさら近づかないでください」
エルザに怒られて、リンが少しだけ離れる。
「リン、わざとやってませんか?」
「誰かみたいです」
誰のことだろう。
ガイルがこちらを見る。
「……遊ぶなら他でやれ」
「すみません」
なぜかヴェラが真っ先に謝った。申し訳ない。
地下へ入った。
◆
第一道標までは、前より足が止まらなかった。
角ではヴェラが先を見る。俺はその後ろ。エルザが灯りを持って最後尾につく。道幅が狭くなれば縦に戻り、広くなれば互いの位置を少しずらす。
第一道標の鉄杭が見えた。脇には、前と同じ打刻具がある。
「先に札ですね」
腰から木札を外して差し込み、取っ手を押す。
かちん。
一つ目の印が増えた。エルザ、ヴェラも続く。
白墨印は残っている。
「ここは補修しなくてもよさそうですね」
エルザが近くから確認する。
「そうですね」
先へ進んだ。
◆
第二道標でも、三人とも札へ打刻した。
二つ目。
前に削れていた白墨印も、まだ読める。その先へ向かう。
少し進んだところで、通路の形が見覚えのあるものへ変わった。右側には崩れた岩壁があり、天井は低い。床には砕石が散らばっている。
共同任務で、マッドクローが頭上の岩から飛び降りてきた場所だ。
「ここから、少しゆっくり行きましょう」
「はい」
ヴェラが歩調を落とす。俺も足元を見る。
その時、上から細かな粉が落ちてきた。
ぱら、と肩の少し前へ散る。
「止まりましょう」
三人とも止まった。
エルザが松明を上げる。天井の細い亀裂が光の中へ浮かんだ。
「石粉ですね」
「今落ちたことは分かります」
俺は上を見る。
「前より増えたかは分かりません」
「音はございません」
ヴェラが言った。
俺たちはしばらくその場で待った。水滴の音が遠くから聞こえる。
また少し石粉が落ちた。
それきりだった。
「右側の方が、床の石は少ないですね」
エルザが灯りを向ける。中央より右壁際の方が、見える範囲では歩きやすそうだった。
「一人ずつ行きます?」
「そうしましょう」
ヴェラが先に抜け、向こう側へ着く。
「こちら、足元は問題ございません」
次に俺。最後にエルザが通る。
通り抜けたあと、エルザが手帳を開いた。
「石粉の落下。場所だけ書いておきます」
それ以上は調べなかった。
◆
崩落箇所を抜けて少し進んだ時だった。
意識の端へ、弱い反復が触れた。
右前。
一度。
少し間を空けて、また返ってくる。
俺たち三人のものとは違う。
ただ、それだけだった。
「右前に、何かいるような気がします」
ヴェラが丸盾を少し上げる。
「位置は分かりますか」
「だいたいです。動くかどうかまでは分かりません」
前に、分かったつもりで外した。
変化したからといって、次の動きまで同じとは限らない。
「まだ近づいてはきてません」
「承知いたしました」
進まずに見る。
がりっ。
石を爪で削るような音がした。
反復が一度強く縮む。
位置は低い。
「近づいてきます」
松明の光の端へ、灰褐色の影が滑り出した。
マッドクロー。
一体。
こちらへ真っ直ぐ来ない。
低い身体が俺たちの前を横切り、そのまま左の岩壁へ飛んだ。
「左!」
ヴェラが丸盾を向け、左へ踏み出す。
マッドクローの前脚が壁へ張りついた。
爪が石を削る。
がりっ。
身体が返った。
次の瞬間、灰褐色の影が右へ飛ぶ。
「右へ返ります!」
エルザの声が飛んだ。
ヴェラが左へ向けていた盾を戻す。左足で床を踏み、右へ動こうとした。
右足だけが遅れた。
「右、遅れます!」
俺は前へ出しかけた足を止める。
マッドクローは右の岩壁へ着地すると、そのまま低く走った。
「右奥です!」
エルザが松明を動かす。
だが、岩の張り出しに光が遮られた。
マッドクローの姿が消える。
「見えない。左へずれます」
俺が左へ動く。
右へ移りきれなかったヴェラが、まだそこにいた。
「っ」
近い。
盾の縁が俺の肩のすぐ前にある。
その向こうから、マッドクローが飛び込んできた。
逃げるより先に剣を抜く。
剣を斜めに差し入れた。
がん、と硬い衝撃が右腕へ返る。
真正面から止めず、押される力を横へ逃がす。
マッドクローの身体が逸れた。
右手の指が柄の上で一度ずれた。
「ノワールさん、下がってください!」
「はい!」
追わずに離れる。
右前腕の奥がじんと痺れていた。
握れる。
ただ、同じ受け方はしたくない。
「右腕が痺れました! 握れます! 次は受けられません!」
「右脚、痛みはございません! 前後には動けます!」
ヴェラが丸盾を正面へ戻す。
「灯り! 戻します!」
エルザが張り出しを避ける位置へ松明をずらした。
リンはエルザの髪際から、肩の後ろへ隠れるように寄っている。
マッドクローがこちらを向き直った。
今度はヴェラが無理に右へ回らない。
正面を空けずに待つ。
マッドクローが低く走る。
盾へ爪が当たる。
ヴェラが押し返さず、盾を傾けた。
前脚が外へ流れる。
俺は剣先だけを前へ出した。
こちらへ抜けさせない。
身体を捻ったマッドクローの脇へ、エルザが入る。
短剣が前脚の内側を浅く切った。
すぐ離れる。
姿勢が崩れたところへ、ヴェラの短槍が伸びた。
穂先が首元へ入る。
マッドクローが石床へ落ちた。
動かない。
「周囲」
俺が言う。
「後方、動きありません」
「前方も、見える範囲に異常ございません」
俺も意識を広げる。
近くに、さっきと同じ反復は感じない。
「近くに同じ気配は感じません」
「分かりました」
右手を開く。
握る。
痺れはまだ残っていた。
このまま、また戦闘になれば危険だ。
痺れが残るなら、ここで戻る。
「……手が少し痺れてるので、休んでも良いですか?」
「そうしましょう」
壁際へ移り、水を飲んだ。
右手を開いて閉じながら、痺れ具合を確かめる。
ヴェラも右脚を伸ばす。
「痛みは?」
「ございません。ただ、さきほど右へ切り返した時には遅れました」
「分かりました」
エルザは手帳を開きかけ、一度閉じた。
「後で書きます」
しばらく休んでいるうちに、手の痺れは薄れていった。
右手を開く。
握る。
さっきのような痺れはない。
「痺れは良くなりました。俺は行けます。二人は?」
「私も大丈夫です」
「私も問題ございません」
三人で立ち上がった。
◆
その先で通路が広がった。中央に、風化した石柱が立っている。
第三道標。
三人とも足を止めた。
最初に来た時は、その手前でハルトを見つけて戻った。共同任務でも、ここまでは来られなかった。
今日は石柱が目の前にある。
「まず周囲を見ましょう」
ヴェラが丸盾を外側へ向ける。
俺も岩室の奥を見る。動くものは見えない。
「俺の方は、近くに気配は感じません」
「見える範囲にも動くものはございません」
「後方も大丈夫です」
エルザが答える。
石柱の脇には打刻具が残っていた。
「先に、これですね」
腰の木札を外して差し込み、取っ手を押した。
かちん。
札を抜く。
三つ目の小さな印が増えていた。
思わず少し眺める。
「入りました?」
エルザが横から覗く。
「入りました」
「では、私も」
かちん。
続いてヴェラ。
かちん。
三人分の札に、三つ目の印が並んだ。
ヴェラが自分の札を見る。
「届きましたね」
「ええ」
「届きました」
エルザが小さく息を吐いた。
それだけだった。
まだ仕事は残っている。
「白墨を」
「はい」
ヴェラが荷袋の上側から、新しい白墨を出して俺へ渡す。
「お願いします」
「任されました」
石柱に残っている古い矢印を見る。消えている部分へ白墨を押し当てると、ざらざらとした感触が指へ返った。
薄かった線が白く戻っていく。
「補修、終わりました」
「記録しました」
エルザが答える。
石柱の根元には、薄緑色の灰苔が生えていた。
採取用の小刀を取り出し、必要な分だけ削いで採取袋へ収める。袋の口を縛った。
「こちらも終わりです」
ヴェラが奥の通路を見た。
「この先は?」
「依頼はここまでですよね」
「はい」
エルザが答える。
「では、戻りましょう」
「そうしましょう」
第三道標の先へは行かなかった。
◆
帰りは、来た時より少し遅くなった。
第二道標を過ぎたところで、ヴェラが自分から口を開いた。
「右脚が少し重くなってきました」
「痛みは?」
「ございません」
「次の退避所で休みます?」
「はい。そうしたいです」
第一退避所へ入り、荷物を下ろす。ヴェラが右脚を伸ばす。
俺も剣を置き、右手を休ませた。痺れは再発していない。
「エルザさんは?」
「私は大丈夫です」
少し休んでから立つ。
歩ける。
ヴェラも立てる。
急ぐ理由はなかった。
入口まで、そのまま歩調を落として戻った。
◆
地上の光が見えた。
石段を上がると、入口小屋の前にいたガイルがこちらを見る。
「戻ったか」
「はい」
「札」
三人で木札を外して渡す。
ガイルは一枚ずつ確認した。三つ目の印で手が止まる。
「第三まで行ったな」
「はい」
「三人ともです」
エルザが答える。
「異常は」
「第三道標手前の崩落箇所で、天井から石粉が落ちました。原因は分かっていません」
「他は」
「その先でマッドクロー一体と交戦しました」
「死体は」
「討伐しましたが、そのままです」
「場所をそこの地図に残しておけ」
ガイルは卓の上にある地図を指さす。
「怪我は」
「三人とも傷はありません。俺は、剣で突進を逸らした時の衝撃で右腕が痺れましたが、今は改善しています」
「今は動くんだな」
「はい」
ガイルがヴェラを見る。
「右脚に重さが出ています。痛みはございません」
「分かった」
台帳へ記録する。木札は入口脇の箱へ入れられた。
「ギルドにも石粉のことは上げろ」
「分かりました」
エルザが地図に印をつけてから、ギルドへ向かった。
◆
冒険者ギルドへ戻り、ミラへ報告した。
第三道標の白墨補修。
灰苔の採取。
崩落箇所での石粉。
マッドクロー一体との交戦。
俺の右腕の痺れの発生と改善。ヴェラの右脚の重さ。
エルザが手帳を見ながら、見たことと分からないことを分けて伝える。
「石粉は、その場で少し待ったあとは落ちませんでした。ただ、原因は確認できていません」
「分かりました。巡回記録へ残します」
ミラが記録する。
「マッドクローの死体は現地に残しています。入口で場所を地図に記しました」
「分かりました。死体の回収も作業班へ回します」
「第三道標までは?」
「三人とも到達しました」
「では、依頼達成です」
受諾票へ印が押された。
報酬の小袋を受け取る。
◆
〈鈍色亭〉へ戻る。
土間へ入るなり、女将が俺たちの靴を見た。
「そこで止まりな」
「はい」
「井戸」
「はい」
三人で素直に裏へ回った。
靴の泥を落とし、手についた白墨も洗う。
食堂へ戻ると、湯気の立つスープと黒パンが用意されていた。
椅子へ座る。ヴェラは右脚を少し前へ出し、俺も右手を卓へ置く。
エルザが手帳へ伸ばした手を止めた。
「……先に食べます」
「素晴らしい判断です」
「冷めますよ」
エルザが反応してくれなくなった。つまらない。
髪際でリンが小さく鳴った。
ちりん。
「リンは相手してくれるんですか。優しいですね」
「……何故私が悪くなってるんですか」
エルザが不満を漏らした。ヴェラが笑っている。
スープを口へ運ぶ。
第三道標まで行った日の夕食も、いつもの味がした。




