第71話 行く日を決める
翌朝。〈鈍色亭〉の一階食堂には、湯気の立つ粥の匂いと、厨房で木杓子が鍋へ当たる音が広がっていた。
俺たちは昨夜の続きから始めていた。エルザの手帳が卓の端で開かれている。
「今日確認するのは、依頼と通路、物資。それから、三人の状態ですね」
「止まる条件は?」
「昨日決めたものを、そのまま使います。今日は増やしません」
「それがいいと思います」
俺が答えると、エルザが少しだけ目を細めた。
「何です?」
「いえ。ノワールさんから素直な返答が返ってきましたので」
「俺、そんなに捻くれてませんよ」
「飄々とはしています」
だいぶ俺のことを理解してもらえているようだ。
向かいでは、ヴェラがいつも通り椅子へ腰掛けている。
「ヴェラさんは?」
「痛みも張りもございません。昨日、脚具を試した時のような感覚もありません」
ヴェラが一度だけ右脚へ目を落とした。
「ただ、急に右へ向きを変える動きについては、まだ大丈夫とは申し上げられません」
「そこは試さなくていいです」
「はい」
「ノワールさんは?」
「俺も問題ないです」
「私も問題ありません」
エルザが自分の名前の横へ丸をつけた。
そこへ、空いた器を下げに来た女将が手帳を覗くでもなく言う。
「食べ終わってから出なよ」
「まだ何も言ってませんよ」
「三人とも武器を持って朝から紙を見てりゃ、出かけるんだろ」
「今日は確認だけです」
「じゃあ、なおさら食べな」
俺の鉢には、まだ半分ほど残っている。
「はい」
「返事よりも食べな」
女将は器を重ね、そのまま厨房へ戻った。
エルザが俺の鉢を見る。
「急かさなくても食べますよ」
「何も言ってません」
「聞こえた気がしました」
髪際にいたリンが、わずかに揺れた。
ちりん。
「リンまで」
「何も言ってませんよ。ほら、食べてください」
ヴェラが俺たちのやり取りを眺めながら、口元をわずかに緩めていた。
◆
冒険者ギルドへ着く頃には、朝の混雑が少しずつ落ち着き始めていた。開いた扉から差し込む光が石床を斜めに横切り、掲示板の前では何人かの冒険者が依頼票を見比べている。
窓口でミラに依頼の確認を頼むと、棚から一枚の木札が出てきた。
「〈灰石の口〉第一層、浅層巡回路の確認ですね。まだ掲示されています」
木札が卓へ置かれる。
「道標の白墨印補修。灰苔の少量採取。異常痕跡の記録。内容も変わっていません」
「通路の方は、何か新しい報告がありますか」
ミラが別の記録を開き、頁を数枚めくった。
「第三道標手前ですね」
「はい」
「新しい崩落や、通行できなくなったという報告はありません」
「分かりました」
前に見た右側の壁崩れと、散らばった石。それから低い天井。
前回は、そこにマッドクローまで出てきた。
もう一度同じ顔ぶれで待っていてくれれば、まだ話は早い。
もちろん、ダンジョンがそんな親切をしてくれるとは思っていない。
「今回は、依頼を受けずに確認だけなんですね」
ミラが木札を棚へ戻す。
「はい。明日を候補にしています」
「では、受ける時にもう一度来てください。今夜か明朝に通路の情報が更新されていたら、その時に伝えます」
「お願いします」
窓口を離れる。扉へ向かう途中、エルザが手帳へ短く書き足した。
「新しい崩落と通行止めの報告なし……と」
ちりん。
今度はリンが何に反応したのか分からなかった。
◆
ギルドを出たあと、商業区の道具店へ寄った。
店先には縄の束や油瓶が並び、壁際の棚には白墨や火口箱が木箱ごと積まれている。店脇の板台を借り、荷袋の中身を一度全部出した。
松明。
油。
白墨。
採取袋。
採取用の小刀。
包帯。
予備布。
「松明、三本」
エルザが数える。
「油、小瓶が三つ」
俺が並べる。
「採取袋、二枚ございます」
ヴェラが重ねた。
「採取用の小刀もあります」
「包帯と予備布もあります」
「白墨は?」
「こちらです」
ヴェラが一本持ち上げる。その中央に、細いひびが入っていた。
「一本、ひびが入っていますね」
受け取って軽く回す。補修中に折れても不思議ではない。
第三道標まで行って「白墨が折れましたので補修できません」は、さすがに帰ってから説明しづらい。
「一本として数えない方がよさそうですね」
「はい」
エルザが数字を直す。
「白墨だけ買い足しましょう。二本あれば足ります」
「油は?」
「今ある分で足ります」
「布も?」
「足ります」
買い足すのは白墨だけで済んだ。
店内で新しい白墨を二本買い、ひびの入った一本は予備にも数えず別へ避ける。
ヴェラが新しい白墨を自分の荷袋へ入れようとして、いったん手を止めた。
「明日、私が持ってよろしいでしょうか」
「どうしてです?」
「第三道標では、私が周囲を見ている間に、エルザ様が記録する可能性もございます。私が持っていれば、どちらへも渡せます」
エルザが少し考える。
「私は記録帳と灯りがありますから、その方が取り出しやすいかもしれません」
「では、お願いします」
「はい」
ヴェラが白墨と予備布を、自分の袋の上側へ入れた。油は俺とエルザで分けた。包帯は取り出しやすい場所へ移し、採取袋も畳み直した。採取用の小刀は鞘を確かめて、荷袋へ戻す。
それぞれ荷袋へ戻してから、ヴェラが自分の袋を肩へ掛けた。
「重さは?」
「問題ございません」
「歩いてみて変われば言ってください」
「承知いたしました」
道具店を出る。通りには昼前の人が増え始め、荷車を避けるたび三人の間隔が少し狭まったり広がったりした。
ヴェラから右脚について新しい申告はなかった。
それなら、今はそれでいい。
◆
昼は〈鈍色亭〉へ戻らず、商業区の端で薄い焼きパンを買った。
大通りから一本外れた道沿いの低い石壁へ、三人で並んで腰掛ける。少し離れた店先から木箱を打ち付ける音が聞こえ、焼きパンの表面からはまだ薄く湯気が立っていた。
「今日、まだ確認することあります?」
俺が聞くと、エルザが手帳を見返す。
依頼。通路。物資。
朝から確認してきた項目には、それぞれ短い書き込みが増えていた。白墨だけは買い足したが、それ以外に新しく必要になったものはない。
「残っているのは、明日行くかどうかですね」
エルザが言う。
「今のところ、三人とも問題なしです」
ヴェラも頷いた。
「通常の歩行では問題ございません」
「右への急な動きは、まだ分からない」
「はい」
俺はパンを一口食べる。
「分からないままでいいんじゃないですか」
ヴェラがこちらを見る。
「確認しないのでしょうか」
「ダンジョンに入るために、今日わざと苦手な動きをして痛めたら意味がないですから」
「それは、そうですね」
「明日、必要になった時にいきなり頑張る、という意味でもないです」
エルザが補う。
「右脚に遅れを感じたら『右、遅れます』。先に私たちが気づいた場合も止まる。昨日決めた通りです」
「はい」
エルザは手帳を一度見直し、そのまま閉じた。
◆
夕方。〈鈍色亭〉の食堂には、煮込みの匂いが広がっていた。エルザの手帳が卓の上に置かれ、その隣から湯気がゆっくり上がっている。
「では」
エルザが手帳を開いた。
「明日を出発予定日にする、ということでよろしいですか」
俺は頷く前にヴェラを見る。
「俺は行きたいです。朝に変わりなければ」
「私も行きたいです」
エルザが言う。
ヴェラは少しだけ間を置いた。
「私も、明日を予定日にしたいです」
「朝に変わっていたら延期でいいですね」
「はい。痛みや張りが出ていた場合。それから、歩けても昨日までと違う感覚があれば、その時も延期したいです」
「分かりました」
エルザは手帳を一度見直し、羽ペンを取った。
『明朝、最終確認』
「これでいいですね」
「はい」
「俺もそれで」
厨房から女将が顔を出した。
「明日は早いのかい」
「朝の具合がよければ」
「じゃあ、朝飯だけは早めに出すよ」
「ありがとうございます」
エルザは手帳を閉じた。
明日の予定は決まった。
朝になって変わっていれば、また決め直す。
今夜は、もう決めることはなかった。




