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明日も、ダンジョンへ。  作者: 為書結依
第三章 自分たちの歩幅

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第70話 自分たちの歩幅


 《紅蓮商会》の本部を出ると、昼過ぎの日差しが石畳を白く照らしていた。重い扉が閉じると、算盤と鉄筆の音が背後へ遠ざかる。代わりに、荷車の車輪が石の継ぎ目を越える音と、露店から漂う焼いた豆と油の匂いが戻ってきた。


 俺たちはしばらく何も言わず、大通りを歩いた。エルザの髪際では、リンが白く揺れている。


「ヴェラさん」


 エルザが鞄へしまった手帳を取り出しかけて、手を止めた。


「もしかして脚具の購入を保留にしたこと、後悔していますか」


 ヴェラはすぐには答えなかった。歩きながら、自分の右脚へ一度だけ目をやる。


「……まだ、分かりません」


「使った時は楽だったんですよね?」


「はい。まっすぐ歩くだけなら、右脚は出しやすくなっていました」


 ヴェラが少し間を置く。


「ですが、盾を持って方向を変えた時には合いませんでした」


「もしかしたら調整品なら変わるかもしれませんね」


「はい」


 腰の小袋へ指が触れる。中には、商会でもらった見積もりが入っている。


「それに、分割方法によっては仕事の条件も付きます。もし共同資金を使うことになれば、なおさら私一人で決めることではありません」


「そうですね」


「ですから、持ち帰りました」


 短い言葉だった。


「俺は、それで良かったと思います」


 ヴェラがこちらを見る。


「購入しなかったことが、でしょうか」


「いえ」


 首を振る。


「三人に関わる話を、その場で一人で決めなかったことです」


 ヴェラは少し考えてから頷いた。


「はい」


 エルザが頷きながら、今度こそ手帳を開く。


「値段と、脚に合うかどうか。それから、三人の仕事への影響ですね」


 手帳へ短く書き込む。


 ちりん。


 リンが小さく鳴いた。


「リンも何かあります?」


 一応リンにも聞くだけ聞いてみた。


 ちりん。


「うん。分かりませんね」


 エルザも何も言わなかった。リンはもう一度小さく鳴いて、髪際へ戻る。


 まあ、元気そうならいいか。


◆


 帰り道、大通り沿いの武具店へ寄った。昨日、通常整備に預けていた俺の剣を受け取るためだ。


 店内には革油と研ぎ粉の匂いがこもっている。店の男は奥から布に包んだ剣を持ってきた。


「大きな傷はなし。刃も問題ない。擦れは浅く整えただけだ」


「消さなかったんですね」


「消すとなると刀身を削ることになる。そこまでする傷じゃない」


「わかりました。ありがとうございます」


 布を外し、鞘から少しだけ抜くと、刃が店内の光を返した。共同任務の時についたのか、それ以前からあったのか分からなかった擦れは、薄く残っている。


 柄を握って、腰へ戻す。やっと、いつもの場所にいつもの重さが戻った。


「やっぱり、これが落ち着きますね」


 剣を腰に下げて落ち着くようになるとは、前の俺には教えない方がいい気がする。軽く鞘を押さえる。


 店を出ようとしたところで、エルザが足を止めた。


「ヴェラさんの脚のことで、一つ決めておきませんか」


 ヴェラも振り返る。


「『状態が変わりました』だけでも伝わりますが、戦っている最中には長いかもしれません」


「ああ」


 共同任務では、ヴェラは状態が変わったことを報告した。伝わらなかったわけではない。ただ、三人だけなら、もう少し短くてもいい。


「何かあります?」


 俺が聞くと、ヴェラは少し考えた。


「右脚が遅れそうな時、でしょうか」


「『右脚が遅れます』」


 自分で言ってみて普通すぎる。


「少し長いですね」


 エルザが言う。


「では、『右、遅れます』では」


 ヴェラが試すように口にした。


「右、遅れます」


「分かりやすいですね」


 エルザが手帳へ『右、遅れます』と書く。


「ただ」


 ヴェラが続けた。


「言う余裕がないこともあると思います」


 確かに。


 今日、既製の脚具を試した時にも、方向転換で違和感が出た。気づいてから毎回余裕を持って話せるとは限らない。


「その時は、先に気づいた方が止めましょう」


 俺が言う。


「止める、ですか」


「はい。これを言ったら頑張って続ける、ではなくて」


 エルザが手帳を見る。


「前進を止める合図にします?」


「それがいいと思います」


 ヴェラが頷いた。


「必要であれば、後退か隊列の組み直しですね」


「そうですね」


 エルザが一行だけ足した。


「報告が間に合わない場合は?」


「誰かが気づいたらなんとかして止める」


 我ながら雑すぎる。


「……それでよろしいのでしょうか」


「決めすぎるのも良くないと思います」


 ヴェラの右脚は、午前中に脚具を試したばかりだ。もう一度盾を持たせて確かめる理由はない。


「今日はこれで終わりにしましょう」


「はい」


 ヴェラはすぐに頷いた。


「では、宿へ戻りましょうか」


「そうですね」


◆


 〈鈍色亭〉へ戻る頃には、日が傾き始めていた。夕食にはまだ少し早い。俺たちは一度部屋へ荷物を置き、食堂へ戻った。


 エルザが卓の上へ、以前の依頼控えを広げる。


『〈灰石の口〉第一層・浅層巡回路の確認。道標の白墨印補修。灰苔の少量採取。異常痕跡の記録』


 第三道標までの巡回路確認。この依頼は、ハルトの救助で中断した。その後の《鉄鎖の盟約》との共同任務でも同じ道を進んだが、第三道標手前でマッドクローと遭遇し、任務を打ち切った。


「……もう一度、行ってみましょうか」


 俺が提案する。


「はい」


 ヴェラの返事は早かった。エルザも頷く。


「私も行きたいです」


 三人とも同じだった。だからこそ、そのまま日を決めるのはやめた。


「明日、依頼がまだ出ているか確認しましょう」


 エルザが手帳を開く。


「第三道標手前の通路もですね」


「はい。第三道標の手前は、まだ狭いところが残っていますし」


「物資も確認いたしますか」


 ヴェラが聞く。


「松明と油。白墨。採取袋。包帯と予備布」


 指で数える。


「あと、修理に出した物が全部戻っているか」


「脚具についても」


「そうですね」


 ヴェラの調整脚具は、まだ決めていない。だからといって、脚具が決まるまで何もできないと決める必要もない。逆に、脚具がなくても行けると決める必要もない。


 明日、今ある条件をもう一度並べてみよう。


「止まる条件も、少しだけ決めておきませんか」


 エルザが言った。


「少しだけ、ですか?」


「増やしすぎると、覚えられません」


「成長しましたね」


「……何ですか、その言い方」


 ちりん。


 リンがエルザの髪際から少し浮いた。


「ほら、リンも賛成みたいですよ」


「何にですか」


「さあ」


 ヴェラが口元を緩める。エルザは羽ペンを持ち直した。


「まず、灯りです」


「帰るための余裕がなくなる前に戻りましょう」


「予備を使い切る前、ですね」


「予備を使い始めたら、その時点で戻りましょう」


 書く。


「次に身体ですね」


 エルザがヴェラを見る。


「『右、遅れます』が出たら、まず止まる」


「はい」


「私だけではなく、誰かの身体に進行へ支障が出た場合も同じでよいと思います」


 ヴェラが続けた。


「そうですね、そうしましょう」


 俺も頷く。


「三つ目は、分からないことが重なった時」


「重なった時、ですか」


「共同任務の時みたいに、別々なら進めると思ったことが重なったら、一度止まりたいです」


「分かりました」


 エルザが書く。


「最後」


 羽ペンが止まる。


「三人のうち一人でも、このまま進むのは危ないと思った時」


 ヴェラが控えを見る。


「理由を説明できなくても、でしょうか」


「まず止まりましょう。理由は止まってから聞けばいいです」


 止まってみて問題がなければ、その時にもう一度決めればいい。


「再開は?」


 エルザが聞く。


「三人とも大丈夫だと思った時」


 ヴェラが先に答えた。俺も頷く。


 エルザが最後の一行を書く。卓の上へ並んだのは、四つだけだった。


 灯り。


 身体。


 分からないことが重なった時。


 一人でも危ないと思った時。


「これなら覚えられそうですね」


「ノワールさんもですか?」


「……俺が一番危ないと思われてません?」


「今までの実績でしょうか」


「ヴェラさんまで」


 最近、二人とも遠慮が減っている気がする。


 悪いことではない。


 たぶん。


◆


 夕食が運ばれてきた。煮込みの湯気が上がり、黒パンの端が少し固い。


 女将が依頼控えを見て言った。


「また潜るのかい」


「まだ日も決めてませんけどね」


「じゃあ、飯が冷める前に決めるのはやめな」


「そうします」


「そうしな」


 女将はそれだけ言って厨房へ戻った。


 匙を取る。エルザも手帳を閉じた。ヴェラはもう一度、依頼控えを見る。


「今度こそ、第三道標まで届きたいです」


「はい」


「ですが」


 そこで一度止まる。


「届くために、戻る条件を変えたくはありません」


「俺もです」


 エルザも頷いた。


「第三道標へ行く依頼ですけど、第三道標へ着かないと帰れない依頼ではありませんからね」


「そうですね」


 ヴェラが少し笑った。


 明日、もう一度条件を並べる。その上で、行く日を決める。


 卓の上の控えは、まだ新しい依頼ではなかった。第三道標という文字だけが、紙の上に残っていた。

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