第70話 自分たちの歩幅
《紅蓮商会》の本部を出ると、昼過ぎの日差しが石畳を白く照らしていた。重い扉が閉じると、算盤と鉄筆の音が背後へ遠ざかる。代わりに、荷車の車輪が石の継ぎ目を越える音と、露店から漂う焼いた豆と油の匂いが戻ってきた。
俺たちはしばらく何も言わず、大通りを歩いた。エルザの髪際では、リンが白く揺れている。
「ヴェラさん」
エルザが鞄へしまった手帳を取り出しかけて、手を止めた。
「もしかして脚具の購入を保留にしたこと、後悔していますか」
ヴェラはすぐには答えなかった。歩きながら、自分の右脚へ一度だけ目をやる。
「……まだ、分かりません」
「使った時は楽だったんですよね?」
「はい。まっすぐ歩くだけなら、右脚は出しやすくなっていました」
ヴェラが少し間を置く。
「ですが、盾を持って方向を変えた時には合いませんでした」
「もしかしたら調整品なら変わるかもしれませんね」
「はい」
腰の小袋へ指が触れる。中には、商会でもらった見積もりが入っている。
「それに、分割方法によっては仕事の条件も付きます。もし共同資金を使うことになれば、なおさら私一人で決めることではありません」
「そうですね」
「ですから、持ち帰りました」
短い言葉だった。
「俺は、それで良かったと思います」
ヴェラがこちらを見る。
「購入しなかったことが、でしょうか」
「いえ」
首を振る。
「三人に関わる話を、その場で一人で決めなかったことです」
ヴェラは少し考えてから頷いた。
「はい」
エルザが頷きながら、今度こそ手帳を開く。
「値段と、脚に合うかどうか。それから、三人の仕事への影響ですね」
手帳へ短く書き込む。
ちりん。
リンが小さく鳴いた。
「リンも何かあります?」
一応リンにも聞くだけ聞いてみた。
ちりん。
「うん。分かりませんね」
エルザも何も言わなかった。リンはもう一度小さく鳴いて、髪際へ戻る。
まあ、元気そうならいいか。
◆
帰り道、大通り沿いの武具店へ寄った。昨日、通常整備に預けていた俺の剣を受け取るためだ。
店内には革油と研ぎ粉の匂いがこもっている。店の男は奥から布に包んだ剣を持ってきた。
「大きな傷はなし。刃も問題ない。擦れは浅く整えただけだ」
「消さなかったんですね」
「消すとなると刀身を削ることになる。そこまでする傷じゃない」
「わかりました。ありがとうございます」
布を外し、鞘から少しだけ抜くと、刃が店内の光を返した。共同任務の時についたのか、それ以前からあったのか分からなかった擦れは、薄く残っている。
柄を握って、腰へ戻す。やっと、いつもの場所にいつもの重さが戻った。
「やっぱり、これが落ち着きますね」
剣を腰に下げて落ち着くようになるとは、前の俺には教えない方がいい気がする。軽く鞘を押さえる。
店を出ようとしたところで、エルザが足を止めた。
「ヴェラさんの脚のことで、一つ決めておきませんか」
ヴェラも振り返る。
「『状態が変わりました』だけでも伝わりますが、戦っている最中には長いかもしれません」
「ああ」
共同任務では、ヴェラは状態が変わったことを報告した。伝わらなかったわけではない。ただ、三人だけなら、もう少し短くてもいい。
「何かあります?」
俺が聞くと、ヴェラは少し考えた。
「右脚が遅れそうな時、でしょうか」
「『右脚が遅れます』」
自分で言ってみて普通すぎる。
「少し長いですね」
エルザが言う。
「では、『右、遅れます』では」
ヴェラが試すように口にした。
「右、遅れます」
「分かりやすいですね」
エルザが手帳へ『右、遅れます』と書く。
「ただ」
ヴェラが続けた。
「言う余裕がないこともあると思います」
確かに。
今日、既製の脚具を試した時にも、方向転換で違和感が出た。気づいてから毎回余裕を持って話せるとは限らない。
「その時は、先に気づいた方が止めましょう」
俺が言う。
「止める、ですか」
「はい。これを言ったら頑張って続ける、ではなくて」
エルザが手帳を見る。
「前進を止める合図にします?」
「それがいいと思います」
ヴェラが頷いた。
「必要であれば、後退か隊列の組み直しですね」
「そうですね」
エルザが一行だけ足した。
「報告が間に合わない場合は?」
「誰かが気づいたらなんとかして止める」
我ながら雑すぎる。
「……それでよろしいのでしょうか」
「決めすぎるのも良くないと思います」
ヴェラの右脚は、午前中に脚具を試したばかりだ。もう一度盾を持たせて確かめる理由はない。
「今日はこれで終わりにしましょう」
「はい」
ヴェラはすぐに頷いた。
「では、宿へ戻りましょうか」
「そうですね」
◆
〈鈍色亭〉へ戻る頃には、日が傾き始めていた。夕食にはまだ少し早い。俺たちは一度部屋へ荷物を置き、食堂へ戻った。
エルザが卓の上へ、以前の依頼控えを広げる。
『〈灰石の口〉第一層・浅層巡回路の確認。道標の白墨印補修。灰苔の少量採取。異常痕跡の記録』
第三道標までの巡回路確認。この依頼は、ハルトの救助で中断した。その後の《鉄鎖の盟約》との共同任務でも同じ道を進んだが、第三道標手前でマッドクローと遭遇し、任務を打ち切った。
「……もう一度、行ってみましょうか」
俺が提案する。
「はい」
ヴェラの返事は早かった。エルザも頷く。
「私も行きたいです」
三人とも同じだった。だからこそ、そのまま日を決めるのはやめた。
「明日、依頼がまだ出ているか確認しましょう」
エルザが手帳を開く。
「第三道標手前の通路もですね」
「はい。第三道標の手前は、まだ狭いところが残っていますし」
「物資も確認いたしますか」
ヴェラが聞く。
「松明と油。白墨。採取袋。包帯と予備布」
指で数える。
「あと、修理に出した物が全部戻っているか」
「脚具についても」
「そうですね」
ヴェラの調整脚具は、まだ決めていない。だからといって、脚具が決まるまで何もできないと決める必要もない。逆に、脚具がなくても行けると決める必要もない。
明日、今ある条件をもう一度並べてみよう。
「止まる条件も、少しだけ決めておきませんか」
エルザが言った。
「少しだけ、ですか?」
「増やしすぎると、覚えられません」
「成長しましたね」
「……何ですか、その言い方」
ちりん。
リンがエルザの髪際から少し浮いた。
「ほら、リンも賛成みたいですよ」
「何にですか」
「さあ」
ヴェラが口元を緩める。エルザは羽ペンを持ち直した。
「まず、灯りです」
「帰るための余裕がなくなる前に戻りましょう」
「予備を使い切る前、ですね」
「予備を使い始めたら、その時点で戻りましょう」
書く。
「次に身体ですね」
エルザがヴェラを見る。
「『右、遅れます』が出たら、まず止まる」
「はい」
「私だけではなく、誰かの身体に進行へ支障が出た場合も同じでよいと思います」
ヴェラが続けた。
「そうですね、そうしましょう」
俺も頷く。
「三つ目は、分からないことが重なった時」
「重なった時、ですか」
「共同任務の時みたいに、別々なら進めると思ったことが重なったら、一度止まりたいです」
「分かりました」
エルザが書く。
「最後」
羽ペンが止まる。
「三人のうち一人でも、このまま進むのは危ないと思った時」
ヴェラが控えを見る。
「理由を説明できなくても、でしょうか」
「まず止まりましょう。理由は止まってから聞けばいいです」
止まってみて問題がなければ、その時にもう一度決めればいい。
「再開は?」
エルザが聞く。
「三人とも大丈夫だと思った時」
ヴェラが先に答えた。俺も頷く。
エルザが最後の一行を書く。卓の上へ並んだのは、四つだけだった。
灯り。
身体。
分からないことが重なった時。
一人でも危ないと思った時。
「これなら覚えられそうですね」
「ノワールさんもですか?」
「……俺が一番危ないと思われてません?」
「今までの実績でしょうか」
「ヴェラさんまで」
最近、二人とも遠慮が減っている気がする。
悪いことではない。
たぶん。
◆
夕食が運ばれてきた。煮込みの湯気が上がり、黒パンの端が少し固い。
女将が依頼控えを見て言った。
「また潜るのかい」
「まだ日も決めてませんけどね」
「じゃあ、飯が冷める前に決めるのはやめな」
「そうします」
「そうしな」
女将はそれだけ言って厨房へ戻った。
匙を取る。エルザも手帳を閉じた。ヴェラはもう一度、依頼控えを見る。
「今度こそ、第三道標まで届きたいです」
「はい」
「ですが」
そこで一度止まる。
「届くために、戻る条件を変えたくはありません」
「俺もです」
エルザも頷いた。
「第三道標へ行く依頼ですけど、第三道標へ着かないと帰れない依頼ではありませんからね」
「そうですね」
ヴェラが少し笑った。
明日、もう一度条件を並べる。その上で、行く日を決める。
卓の上の控えは、まだ新しい依頼ではなかった。第三道標という文字だけが、紙の上に残っていた。




