第68話 踏み固める足元
翌朝、〈鈍色亭〉の食堂へ下りると、いつもの卓の半分が道具で埋まっていた。丸盾と短槍、短剣。油の残った小瓶、布帯と包帯、火口箱。その間にエルザの手帳が開かれている。
二人に挨拶をして、空いているところへ剣を置いた。
「今日はダンジョンへ行かないんですよね?」
「はい」
エルザが手帳を閉じかけて、やめた。
「次に行く前に、戻すものを確認しようと思いまして」
「戻すもの?」
「減ったものです」
卓の上を見る。そういう意味か。
女将が水差しを持って横を通った。
「朝飯を置く場所は残しときな」
「今、片づけます」
「そうしな」
それだけ言って厨房へ戻っていく。俺たちは少しずつ道具を卓の中央へ寄せた。
◆
まず確認したのは、共同任務で使ったものだった。
ヴェラの丸盾の縁には、岩壁へ擦った跡が残っている。マッドクローの爪を受けたところにも浅い傷があった。短槍の石突きは泥と石粉を噛んでいるが、こちらは前からの摩耗も混じっていそうだった。
俺の剣は、刃こぼれまでは見当たらない。布で拭うと、刀身の腹に細い擦れが残っていた。
「これ、一昨日の分でしょうか」
エルザが覗き込みながら聞く。
「たぶん……と言いたいところですけど、前からあったかもしれません」
「では、分からないということですね」
「そうなりますね。一応記録しておきましょう」
エルザが手帳へ何か書いた。
俺の鞘には以前からの削れがある。エルザの短剣も研ぎ直しが必要になりそうだが、それが一昨日の共同任務だけのせいとは言えない。
包帯と重ね布は、ハルトの応急手当でかなり使った。共同任務前に買い足した分もある。油も減っているが、予備の縄はまだ使える。
「盟約から出るのは、共同任務で増えた損耗ですよね」
「はい」
エルザが昨日受け取った精算札を取り出した。
「診察が必要になった場合の扱いと、任務中に生じた装備損耗。そこは盟約側で確認すると言われました」
「じゃあ全部これで直せるわけではないんですね」
「もちろんです」
即答された。卓の上へ、今度は小さな硬貨袋が置かれる。
「危険手当もいただきましたけど」
エルザが包帯、油、俺の鞘、短槍の石突きを順番に見た。
「ハルトさんの時に使った布。以前から減っていた油。今回を見て、追加した方がいいと思った予備の灯り。古くなっていた部分の手入れ」
「その辺は俺たちですね」
「はい」
危険手当という名前だけを見ると、少し得をしたように思える。けれど、次に同じ場所へ行くなら、前より減ったままでは行きたくない。
使った布は戻す。油も戻す。古いところは直し、必要なら増やす。並べてみると、袋の中の硬貨にも行き先があった。
「お金って、増えたと思うと減りますね」
俺が言うと、エルザが顔を上げた。
「何ですか、その当たり前の感想」
「朝なので」
「……どんどん適当になってきてますね」
ちりん。
「ほら、リンにまで『てきとう』って言われてますよ」
「『適当』は良い意味もあるので、リンも覚えましょう」
「ノワールさんのは駄目な方なので、リンに教えないでください」
リンの保護者に怒られた。
◆
「それと、これです」
エルザが手帳をこちらへ向けた。新しい頁に、三つだけ見出しがある。
見たこと。
分からないこと。
してほしいこと。
「ずいぶん短くなりましたね」
「昨日、ダグラス隊長に言われたこともありますけど」
エルザが一番上を指す。
「私、最後尾が暗いことと、松明を増やしたいことを一緒に言っていましたよね」
「はい」
「自分では分けているつもりでした」
羽ペンの先が、二つの見出しの間を行き来する。
「でも、聞く側からしたら、どこまでが見えたことで、どこからが私の案なのか分かりにくかったと思います」
「だから三つ?」
「はい。難しい言葉にすると、使う前に考えそうなので」
「それは助かります」
俺も、難しい言葉だと使う前に少し考えそうだ。
「これからは、分からないことも書くのですね」
ヴェラが手帳を見る。
「書きます」
「分からないままでも?」
「分からないからです」
エルザが少し考えて、余白へ小さく線を引いた。
「あと、変わった時は消しません」
ヴェラが頷く。
「前の状態も残しておくのですね」
「ええ。最初は歩けた。途中から同じ速度では歩けなくなった。なら、両方残します」
エルザがその下へ小さく書く。
更新。
「時刻も?」
「時刻まで分かる時だけです。共同任務みたいに記録担当がいるとは限りませんから。分からない時は、前後の順番だけでも残します」
「そこまですると細かくなりすぎません?」
「使いながら減らします」
「増やす前提じゃないんですね」
「増やしたら、また手帳ばかり見ることになりますから」
それは本人も気にしていたらしい。
リンが開いた頁の上へ寄っていく。
「リン、墨に触らないでくださいね」
リンは少しだけ上へ離れた。
えらい。
朝食が運ばれてきたので、手帳も装備も一度片づけた。今日は修理と補充の見積もりを取る。
その前に、エルザが冒険者ギルドへ寄りたいと言った。ハルトの経過について、何か連絡が入っていないか確認するためだ。
◆
冒険者ギルドでは、ハルト本人の詳しい状態までは分からなかった。大聖堂で治療が続いていることと、相棒のミックが何度かギルドへ来ていること。それだけ聞いて、西区画へ向かう。
大聖堂前は、前に来た時より人が多かった。白い石段を上る人、杖をついて降りてくる人、包帯を巻いた腕を吊っている人。開いた扉からは薬草と香の匂いが流れてくる。
リンはエルザの髪際から少しだけ離れ、大聖堂の方を見ているようだったが、すぐに戻ってきた。
「ノワールさん」
声を掛けられた。石段の脇にいた男が立ち上がる。
ミックだった。
「エルザさん、ヴェラさんも」
顔色はまだ良くない。髪も少し乱れている。それでも、前に見た時より声に力があった。
「こんにちは、ミックさん。ハルトさんの具合はどうですか?」
「昨日、意識が戻りました」
ミックが息を吐く。
「水も飲めました。まだ長くは話せませんけど、俺の名前も分かってました」
それを聞けただけで、肩の力が少し抜けた。
「熱も下がり始めてるそうです。治療師には、ひとまず一番危ないところは越えたって」
「良かったです」
「ただ、傷の状態はまだ見ないといけないそうです。右脚がどこまで戻るかも、まだ分からないって」
ミックは石段の方を振り返った。
「しばらくは潜れません」
「そうですか……」
「……ありがとうございました」
急に頭を下げられた。
「俺たちだけじゃないですよ」
すぐに言う。
「ミックさんが助けを呼びに戻って、ガイルさんたちが動いて、大聖堂へ運ばれて。俺たちは途中をつないだだけです」
「その途中がなかったら、ここまで来てません」
顔を上げたミックが言った。
そこまで否定することでもない。
「……じゃあ、受け取っておきます」
「はい」
「でも、治したのは俺じゃないですからね」
「こだわりますね……それは分かってます」
少しだけ笑った。その笑い方を見て、俺も笑う。
エルザは手帳へ手を伸ばしかけて、やめた。
◆
「それで……まだ、終わりじゃないんです」
ミックが手にしていた木札を見た。
「治療のことですか?」
「治療もですけど、その後です」
木札を裏返す。赤い印が押されていた。
「急ぎの治療は、ギルドと大聖堂の仕組みでかなり助かりました。でも、これから長くなると、部屋代も飯代も薬代もかかる」
少し間を置く。
「ハルトは仕事に出られない。俺一人じゃ、前と同じようには稼げません」
命が助かっても、次の朝は来る。食べて、眠って、傷を診てもらう。働けない間も、それは続く。
病院を出た後のことまで考えるのは、前の仕事でも珍しくなかった。退院できることと、元の生活へそのまま戻れることは別だった。ここでも、その部分は変わらないらしい。
「その札は?」
エルザが尋ねる。
「《紅蓮商会》です」
トッドが持っていた証文を思い出した。
ミックが赤い印を指でなぞる。
「大聖堂の人に、相談だけしてみろって言われました」
「何をしてくれるんですか?」
「当面の費用を先に出す仕組みがあるそうです。治療費とか、生活費とか」
「貸す、ということですか」
「そうです」
ミックは木札をこちらへ見せた。細かい数字までは読まない。
「返し方も何通りかあるみたいです。依頼の報酬から少しずつ返すとか、商会の補給仕事を受けるとか」
「手数料は?」
エルザが聞く。
「あります。いくら返すことになるかも、先に書いてありました」
「全部、借りられるんですか?」
「そこが……」
ミックが苦い顔をした。
「俺が希望した額より、向こうが出せる額の方が少なかったです」
「理由は?」
「……今の俺が返せる範囲までだって」
声に怒りはなかった。困ってはいるが、説明に納得していないわけでもなさそうだった。
「全部出して、返せなくなったら、次にもっと困るって言われました」
「もう契約をしたんですか?」
「してません。もう一度相談します」
足りないことには変わりない。それでも、まだ契約はしていないらしい。
「ハルトさんのこと、また聞きに来てもいいですか」
「もちろんです」
「無理に細かいことまで教えなくて大丈夫ですから」
エルザが付け足した。
ミックが頷く。
「分かりました」
俺たちはそこで別れた。大聖堂の鐘が鳴り、振り返ると、ミックはまた石段の方へ歩いていった。
◆
次に向かったのは、商業区の武具店だった。《鉄鎖の盟約》でもらった精算札を見せれば、提携している店で装備の確認ができると聞いている。
店の奥には、普通の売り場とは別に細い窓口があった。帳簿と算盤、赤い印肉。壁には、修理、交換、補填と書かれた札が並んでいる。
「共同任務の補填確認です」
エルザが精算札を出した。
黒い革前掛けをつけた若い男が受け取る。
「《鉄鎖の盟約》ですね。装備を順にお願いします」
まずヴェラの丸盾。男は縁を指でなぞり、角度を変えて傷を見る。
「この擦れは任務中?」
「はい。狭所で岩壁へ接触した際です」
「これも新しい傷に見えますね」
別の浅い傷を示す。
「はい。マッドクローの爪を受けました」
「分かりました」
帳票の左側へ書き込む。
「ここは盟約へ回します」
次に短槍。石突きを見て、男が首を傾げた。
「これは前からも減ってますね」
「はい」
ヴェラが答える。
「今回で悪化したかは、私には分かりません」
「なら、任務損耗としては取らない方がいいですね」
「それでお願いいたします」
右側へ数字が入る。
「こちらは自費です」
俺の剣も見てもらう。
「大きな損傷はないですね」
「良かったです」
「擦れはあります。ただ、いつついたか断定できますか」
「できません」
「では通常整備扱いにします」
「お願いします」
鞘も同じだった。前から削れていた部分は自費。エルザの短剣も、刃の研ぎ直しは通常整備。
共同任務で壊れたものを探すというより、どこまでを誰が負担するのか、一つずつ分けていく作業だった。
「包帯と油も追加します」
エルザが言う。
「購入ですね」
「はい」
「自費です」
「分かりました」
算盤の珠が動く。エルザも帳票を見ながら、手元の硬貨袋を押さえた。
「危険手当、ちゃんと減りますね」
「さっきも言ったじゃないですか」
「数字で見ると実感がわきます」
「それは分かります」
リンが算盤の方へ寄っていく。
「触らないでくださいね」
リンはそのまま少し離れた。
今日のリンは言うことをよく守る。
男がリンを一度見て、それからエルザを見る。何も聞かなかった。
◆
査定が終わりかけたところで、ヴェラの視線が店の奥で止まった。
棚の端に、革と細い金属板を組み合わせた道具が置かれている。足首から脛の下までを支える形に見えた。
「すみません」
ヴェラが男へ声を掛ける。
「はい」
「あれは、脚につけるものでしょうか」
男が視線を追った。
「ああ。補助具の見本です」
「見せていただいてもよろしいですか」
「どうぞ」
男が棚から取り出し、卓の上へ置く。
ヴェラは手に取らず、近くから見た。
「以前、大聖堂で、装具を使う方法もあると教えていただきました」
「脚を診てもらったんですか?」
「はい。古い負傷が残っています」
「盾を使う?」
「はい」
男が頷いた。
「なら、実際に合わせるなら盾を使う動きまで見た方がいいですね」
「これは、私に合うものなのでしょうか」
「それは分かりません」
返事は早かった。
「これは見本です。どこをどこまで支えるかは、治療師と装具職人に見てもらわないと決められません。合わないものをつけると、別の場所へ負担が移ります」
「試すことはできますか」
「治療師の確認があれば。装具職人が合わせて、歩いてもらいます」
「盾を持った状態でも?」
「必要なら」
ヴェラは少し考えた。
「費用は……」
「補助具自体の値段に加えて、調整にも費用がかかります。具体的な金額は治療師の確認を得てからですね」
「承知いたしました」
ヴェラはしばらく見本を見ていた。俺もエルザも口を挟まない。
「では」
ヴェラが顔を上げた。
「……まだ何も決めません」
「はい」
「以前診ていただいた治療師にも、この装具を試してよいか確認します。その後、実際に装着して歩き、盾を使う動きも確認してから決めます」
「それがいいと思います」
前に診てもらった大聖堂へ、もう一度相談することになりそうだ。
男が見本を棚へ戻した。
「必要なら、この札を持ってきてください」
小さな札へ赤い印を押す。
ヴェラが受け取った。
「ありがとうございます」
◆
店を出た頃には、日が傾き始めていた。
修理に出したものと、今日持ち帰るもの。買い足した包帯と油。ヴェラの手には装具の相談札があり、エルザの鞄には朝書き直した手帳が入っている。
「第三道標はどうします?」
俺が聞いた。
エルザはすぐには答えなかった。
「とりあえず修理が戻ってから考えましょうか」
「そうですね、そうしましょう」
ヴェラが言う。
「脚具についても、確認してからにしたいです」
「じゃあ、今は決めないということで」
「はい」
それで話は終わった。
今日は、持って帰る袋の中身を一つずつ確かめる。包帯と油、修理の預かり札、装具の相談札。
最後に、エルザが修理と補充の見積もりを取り出した。いくつかの項目の横へ、盟約負担と自費の印が分かれている。その末尾には、赤い印が一つ押されていた。
リンがエルザの肩越しから覗き込む。
ちりん。
エルザが紙を畳み、そのまま鞄へしまった。
俺たちは荷物を持ち直して、宿へ向かった。




