第67話 受け取る責任
朝食を終える頃、ヴェラが椅子から立った。右脚へ一度目を落とし、普通に数歩歩いてから戻ってくる。
「今朝は問題ございません」
「なら良かったです」
昨日は、隊列を保てなくなるところまで遅れが出た。翌朝に何も残っていないなら、今はそれでいい。
「でも、今日は走らないでくださいね」
「承知いたしました」
「盾の訓練もなしで」
「……承知いたしました」
返事の前に間があった。エルザがこちらを見て、すぐ視線を外す。
「何です?」
「何も言っていません」
「そうですか」
厨房では食器を重ねる音がしていた。女将が空いた器を下げながら、入口を顎で示す。
「ノワール。あんたたちに用事があるみたいだよ」
振り返ると、《鉄鎖の盟約》の鎖印が入った札を持った男が立っていた。
「〈コンパス〉三名。本部から確認要請だ。昼前までに来てくれ」
「分かりました」
昨日、ダグラスが言っていた通りだった。
◆
《鉄鎖の盟約》本部へ入ると、石造りの廊下には人と荷物が絶えず行き交っていた。壁際では二人の男が紙を見ながら木箱の数を確かめ、その横を革鎧の一団が階段へ向かっていく。
俺たちも前回と同じように武器の留め具へ赤紐を結ばれた。
「二階、奥から二番目の部屋に行ってくれ」
「ありがとうございます」
階段を上がる。扉を叩くと、すぐに低い声が返ってきた。
「入れ」
「失礼します」
中にはリベルトとダグラスがいた。リベルトの前には、昨日ダグラスと確認した任務記録が広げられている。何枚かの紙は時刻順に揃えられ、その脇には別の書類と印が置かれていた。
ダグラスは机の横に立っている。
「座れ」
「失礼します」
三人で椅子へ腰掛ける。リベルトは記録へ一度目を落とした。
「ダグラスから報告は受けた。提出前に、お前たち三人とも内容を確認しているな」
「はい」
エルザとヴェラも頷く。
「追加か訂正はあるか」
「ありません」
「ありません」
「ございません」
「なら、同じ話を最初からやる必要はないな」
紙の一枚を手前へ寄せる。
「評価へ移る」
◆
「まず、右分岐の未確認情報」
リベルトの指が記録の上で止まった。
「視認なし。音なし。生物かも不明。位置も確実ではない」
「はい」
「あれだけで進行を止めなかったことを、俺は問題にはしない」
俺は頷いた。次に指が動く。
「後方の照明死角。予備灯の追加はしなかった」
エルザを見る。
「予備を退路と緊急時へ残す理由はある。追加しなかったこと自体を誤りとはしない」
「はい」
「ただ、見えたことと対応案は分けろ」
「次からそうします」
「次。丸盾の右脚」
ヴェラの姿勢がわずかに正される。
「最初の報告では自力歩行可能。これは誤報ではない」
「はい。その時点では歩けました」
「その後、遅れが増えた」
「はい」
「現在の速度と配置では、前方との間隔を維持できないと更新した」
「その通りです」
「最初の報告を撤回したわけではないな」
「はい」
リベルトはそれ以上ヴェラへ尋ねず、紙の続きを見た。
「その後、丸盾と前方との間隔が開いたという報告が入る。脚の遅延も増えた。最後には、現在の配置では進行命令を遂行できないところまで変わった」
指先がそこで止まる。
「ダグラス」
「はい」
「右の未確認だけなら止めなかった」
「はい」
「照明も、その時点では進行を続けられると判断した」
「はい」
「最初の脚の報告も、自力で歩けるなら進めるとした」
「はい」
「一つずつ見れば、理由はある」
ダグラスは黙って聞いている。窓の外を荷車が通り、車輪の軋む音が近づき、そのまま遠ざかっていく。
「では、その後に新しい報告が来た時、それまでの情報を判断材料へ戻したか」
ダグラスの返事はすぐには出なかった。
「……いいえ」
「脚の更新は」
「同じ不調の報告として扱いました」
「隊列の間隔は」
「自分でも見えていました」
「だから、新しい判断材料としては扱わなかった」
「はい」
リベルトが紙の端を揃えた。
「そこだ」
◆
「俺は前に、お前たちへ言った」
リベルトが俺たちを見る。
「共同任務では最終判断を隊長へ集める。必要な報告をした上で、隊長が続行を決めたなら、その結果は指揮側が引き受ける」
ヴェラが黙って聞いている。
「ダグラスは、その後半は守った」
今度はダグラスを見る。
「進行を決めたのは自分だと報告した。戦闘後は任務を止めた。隊列を組み直し、照明を前後へ分け、負傷者を中央へ入れて全員を戻した」
ダグラスは姿勢を変えない。
「記録も書き換えていない。戦闘中と戦闘後の指揮にも、大きな問題はない」
「はい」
「だが、結果を引き受ければ、それで指揮の責任が終わるわけじゃない」
リベルトが記録を指で叩いた。
「判断するなら、判断材料を持て」
「はい」
「報告を聞くだけでは足りん」
紙の上には、昨日まで別々に出ていた報告が時刻順に並んでいる。右側の未確認。後方の照明。ヴェラの右脚。開いた隊列。
増えた遅れ。遂行できなくなった配置。
それぞれの時点で、進む理由はあった。だからといって、後から増えた情報まで別々に扱っていいわけではないらしい。
「一つずつ理由をつけて捨てれば、最後に決める人間のところへ何も残らん」
リベルトの声が部屋へ落ちた。
「決定権を集めるのは、下から上がる情報を減らすためじゃない」
一度言葉を切る。
「集めるためだ」
ダグラスが僅かに顎を引いた。
「結果を引き受ける覚悟と、報告を受け取る責任は別だ。前者があるから後者を省いていいことにはならん」
「理解しました」
「今はそう言うしかないだろうな」
言い方は柔らかくない。リベルトはそのまま続けた。
「今回の話は、未確認情報が出るたび止まれという意味じゃない。提案を全部採用しろという話でもない。歩ける人間を毎回休ませろという話でもない」
俺たち三人にも視線が向く。
「一度外した情報でも、新しい報告が来れば見直せ。その時点で何が残っているかを、もう一度同じところへ載せろ」
エルザが小さく頷いた。
「それが、受け取るってことだ」
◆
リベルトが記録を横へ避け、別の書類を手前へ出した。
「処理を決める」
筆先が紙へ触れる。
「第三道標の確認は未達。ただし、戦闘後の任務中止と帰還運用に問題なし。安全上の中断として扱う」
短く書き込み、ダグラスを見る。
「そこは正しかった」
「はい」
次の欄へ進む。
「〈コンパス〉三名に規律違反なし。基本報酬は全額、危険手当を加算する」
エルザが紙へ目を向けた。
「資材担当の治療は盟約負担。共同任務で生じた装備損耗は契約条件に従って確認する」
「ヴェラさんの脚は?」
俺が聞く。
「現時点で損傷なしと聞いている」
「はい。今朝も問題ございません」
ヴェラが答えた。
「後から診察が必要になった場合は、今回の任務との関係を確認した上で扱う」
「分かりました」
リベルトは筆を置いた。
「ダグラス」
「はい」
「報告受領の確認が終わるまで、単独で最終指揮は取らせない」
「承知しました」
「二分隊も確認する」
ダグラスの眉がわずかに動いた。
「お前個人の判断の癖なのか、分隊内でも同じ扱いをしているのかを見る」
「はい」
「処分を決めるのはその後だ」
ダグラスはもう一度頷いた。すぐに降格や謹慎を決めるわけではないらしい。
リベルトは書類を一枚ずつ確認し、最後に印を押した。鈍い音が机の上へ残った。
◆
リベルトが次の書類へ手を伸ばしたところで、ダグラスが俺たちへ向き直った。
「一つ訂正する」
ヴェラが顔を上げる。
「昨日、お前の更新報告を口答えと言った」
「はい」
「違った」
ヴェラは黙って待った。
「状態が変わったなら、報告は必要だった」
「承知いたしました」
「今後も変わったら言うようにしろ」
一度間を置く。
「前に何を報告していてもだ」
「はい」
ダグラスがエルザを見る。
「最後尾が見えないなら、それは報告しろ。ただし、見えたことと対応案は分けろ」
「次からそうします」
次に俺へ視線が向く。
「未確認でも、危険に関わると思ったなら報告しろ」
「分かりました」
「確定したようには言うな」
「そこは今まで通りにします」
「ああ」
ダグラスの視線が俺たち三人の間を動いた。
「今回、報告を受けた後の扱いを誤った」
少し間があった。
「悪かった」
ちりん。
エルザの髪際でリンが鳴った。ダグラスがそちらを見る。
「それは何だ」
「リンという精霊です」
エルザが答える。
「変わった髪留めじゃなかったのか」
それで終わった。
「俺たちも、伝え方は工夫します」
俺が言うと、エルザが頷いた。
「私は、見たことと対応案を分けます」
ヴェラも続ける。
「私は、状態が変わった時点で改めて報告いたします」
「それでいい」
ダグラスが答えた。
「次に一緒になることがあれば、前よりやりやすそうですね」
俺が言うと、ダグラスの眉が動いた。
「……俺との次があると思ってるのか」
「嫌なんですか?」
「そうは言ってない」
「なら良かったです」
隣から、小さく息を吐く音がした。エルザの方は見ないでおく。
「終わったぞ」
リベルトが精算札を机の上へ置いた。
「持っていけ」
「ありがとうございます」
エルザが受け取り、鞄へしまう。立ち上がろうとしたところで、リベルトが俺を見た。
「……今日は随分素直だな」
「前回とは立場が違いますから」
リベルトの目が一度止まった。
「そうか。お前、そういう奴だったか」
「どういう奴でしょう」
「面倒な奴だ」
少し考える。
「でしたら、前回と変わっていないと思いますが」
リベルトが喉の奥で短く笑った。
「違いない」
「では、失礼します」
「ああ。ご苦労だった」
三人で立つ。ダグラスへも軽く頭を下げた。
「お疲れ様です」
「ああ」
返事はすぐに返ってきた。
◆
本部を出ると、昼前の日差しが石畳へ広がっていた。荷車が通りを横切り、建物の向こうから金属を打つ音が聞こえてくる。
エルザが鞄から精算札を少しだけ出して確かめた。
「危険手当、思っていたよりありますね」
「お金は大事ですよね」
「そういう意味ではなくてですね」
「分かっています」
ヴェラが隣を歩いている。今のところ、歩調に乱れはない。
「宿へ戻ったら休みましょうか」
「はい」
ヴェラの歩調が少しあがった。
「今日は走らないんですよね?」
エルザが聞く。
「その予定です」
「ノワールさんではなく、ヴェラさんに聞いています」
「……承知しております」
また少し間があった。今度は何も言わないでおく。
三人で西区画を抜ける。昨日まで鞄の中に入っていた共同任務の依頼票は、もう返却してある。
エルザの鞄には、代わりに精算札が入っていた。
今回の仕事は、これで終わりだった。




