第66話 責任の形
昼を少し回った頃、〈鈍色亭〉の食堂は朝より静かだった。昼食を終えた客が二人、入口近くの卓でまだ話している。厨房からは鍋を洗う音がして、開けた窓から乾いた風が入ってきた。
俺たちは奥の卓を使っていた。リンはエルザの髪際から少し離れ、卓の端近くで白く揺れている。
ヴェラの右脚は、宿へ戻ってからもう一度確認している。強い腫れや鋭い痛みはない。今日はもう休んだ方がいいだろう。
「明日はどうしますか?」
エルザが聞く。
「朝の状態を見てからですね」
「承知いたしました」
ヴェラが頷いた。その前には、食べ終えた皿と湯気の薄くなった茶が置かれている。俺の前にも同じものがある。
朝からずいぶん長かった気がする。
「失礼する」
聞き覚えのある声がした。三人で入口を見る。リンもエルザの髪際へ戻った。
ダグラスが立っていた。朝と同じ革鎧のままだったが、肩や袖についていた石粉はだいぶ落ちている。腰の短斧も二本とも残っていた。片手に、何枚か重ねた紙を持っている。
「ダグラス隊長」
「座ったままでいい」
俺が立ちかける前に言われた。
「本部へ上げる前に、同行者の確認がいる。時間をもらうがいいか?」
「もちろんです」
エルザが自分の皿を端へ寄せた。ダグラスは空いている椅子を引き、紙を卓へ置いた。上の一枚には、細かな枠と時刻らしき数字が並んでいる。
「朝の任務記録だ。俺が書いた。お前たちの発言と違うところがあれば言え」
ダグラスは、そのまま記録の確認に入った。謝罪などの言葉はなかったが、俺にはその方が助かった。
「どこから確認します?」
「第二道標を越えたところからだ」
ダグラスが紙を指で押さえた。
◆
「右分岐奥、不明気配」
読み上げる。
「報告者、ノワール。視認なし。音なし。生物か不明」
「はい」
「位置も確実ではない、と言ったな」
「言いました」
「未確認として記録。進行を継続」
「そこまで合っています」
ダグラスが小さく印をつける。
「この気配が、あとで落ちてきた二体だったかは」
「分かりません」
俺はすぐに答えた。
「近づいた時の感覚は似ていました。ただ、右分岐で感じたものと同じだったとは断定できません」
「なら同一とは書かん」
「はい、お願いします」
能力について聞かれるかと思ったが、ダグラスは何も尋ねなかった。そのまま、次の欄へ指が動く。
「照明」
エルザが少し身を乗り出した。
「最後尾の足元に死角。予備灯の追加を提案」
「はい」
「俺は予備を退路と緊急時に残すとして、追加せず。対応案までつけるな、と言った」
「言われました」
「報告自体は」
「最後尾が足場を確認できない時間がある、と伝えました」
ダグラスの筆が止まる。
「そこを追加する」
紙へ短く書き込んだ。硬い筆先が紙を擦る。
受付小屋で見た背中を思い出した。
「次。丸盾」
ヴェラが背筋を伸ばす。
「右脚の踏み替え遅延。最初の報告では自力歩行可能」
「はい」
「俺が進行を継続」
「はい」
「その後、遅延増加。現在速度と配置では、方向転換時に前方との間隔を維持できないと更新」
「その通りです」
ダグラスが次の行を読む。
「俺は同じ報告として扱い、口答えと判断した」
ヴェラの指が膝の上でわずかに動いた。
「はい」
「違うか」
「いいえ、そのとおりです」
少し間を置いて、ヴェラが続けた。
「ただ、最初の『歩ける』も、そのまま残してください」
ダグラスが顔を上げる。
「消すつもりはない」
「ありがとうございます」
「……なぜだ?」
ヴェラは一度、自分の右脚へ目を落とした。
「歩くことはできました」
それから顔を上げる。
「ですが、あの速度と配置で盾を扱い続けることはできませんでした。どちらも、その時の私の状態です」
ダグラスはしばらく黙っていた。筆先が紙の上へ戻る。
「……分かった」
短く答え、何かを書き足した。俺は黙ってそれを見ていた。
朝は、「歩けるか」と聞かれていた。ヴェラも「歩けます」と答えていた。どちらも間違ってはいない。
それでも、その一問だけでは足りなかった。
「ノワール」
「はい」
「丸盾と前の間が開いている、とお前からも報告があった」
「しました」
「俺は見えていると答えた」
「はい」
また一つ、印がついた。
◆
ダグラスが一枚目を横へずらした。二枚目には、第三道標手前から戦闘終了までが書かれていた。
「ここからは戦闘記録だ」
紙の上を指が進む。
「丸盾から、現配置では進行命令を遂行できないとの報告」
「はい」
「直後、後方で爪音。ノワールから上方二体の報告」
「はい」
「マッドクロー二体が上方から侵入。中央と後方へ分かれた」
今朝の音が戻ってくる。石を引っかく爪。落ちる細かな石。剣の腹へ伝わった重さ。
「資材担当、左腕浅い裂傷。丸盾、右脚疲労増加。その他負傷なし」
ダグラスが俺を見る。
「異論は」
「ありません」
エルザとヴェラも頷く。
「戦闘後、第三道標の確認を中止。帰還へ変更」
そこまで読んで、ダグラスが一度紙から目を離した。
「この判断について何かあるか」
エルザが先に口を開いた。
「帰路の照明は問題ありませんでした。前後へ分けたことで、最後尾まで足元を確認できました」
「歩調も問題ございませんでした」
ヴェラが続ける。
「右脚の状態を伝える時間もございました」
俺も思い返す。戦闘後の命令は早かった。第三道標へ進もうともしなかった。
「俺も、戻る判断で良かったと思います」
ダグラスが頷く。
「なら、任務中止後の運用について異議なし、と書く」
筆が動いた。
妙な感じだった。
朝は同じ人の指示で、あの狭所まで進んだ。その後は、同じ人の指示で問題なく帰ってきた。
どちらかだけなら、話はもっと簡単だったのかもしれない。
◆
「確認したいのはここだ」
ダグラスが三枚目を出した。今までより文字が少ない。上から順に、短い項目が並んでいた。
不明気配。照明死角。右脚遅延。隊列間隔拡大。
右脚遅延増加。進行困難。上方二体。
エルザが紙へ目を落としたまま、指先を一つずつ追う。
「時刻も入っているんですね」
「入れる」
「……近いですね」
ダグラスがエルザを見る。
「何がだ」
「最初は別々に聞いていたので、私も別のこととして見ていました」
エルザが紙の三か所を指した。
「でも、並べると、照明の報告のあとにヴェラさんの脚が遅れて、そのあとノワールさんから隊列間隔の報告が出ています」
俺も紙を見る。確かに、文字にすると近い。
朝の通路では、右側の気配は右側のことだった。照明は最後尾。ヴェラの脚は中央。場所も報告した人も違う。
「一つずつなら」
ダグラスが言った。そこで言葉が止まる。紙の上へ視線を戻した。
「……右の未確認だけなら、止まる理由にはしなかった」
次の行へ指を移す。
「照明も、歩けるなら進めると判断した」
さらに下。
「脚も、自力で歩けるなら進めると判断した」
その下で指が止まった。誰も口を挟まなかった。
「隊長」
ヴェラが呼ぶ。
「何だ」
「私が歩けると答えたことは、進行判断の材料になったのでしょうか」
「ああ」
「では、二度目の報告は?」
ダグラスはすぐには答えなかった。
「聞いた」
「はい」
「最初と同じ不調の繰り返しとして扱った」
ヴェラが小さく頷く。
「承知いたしました」
責める声ではなかった。ただ確認しただけだった。
ダグラスが俺を見る。
「お前の最初の報告は、不明だった」
「はい」
「だから、その時点では進行を変えなかった」
「分かりました」
次にエルザを見る。
「照明については、予備を残す方を選んだ」
「はい」
ダグラスは紙へ視線を戻した。俺も何も言わなかった。
事実は、紙の上に残った。
◆
「記録はこうする」
ダグラスが新しい欄へ筆を置いた。
「事前報告あり。不明気配、後方照明死角、丸盾右脚遅延。各報告後も進行判断を変更せず」
一度止まる。
「右脚の状態更新と隊列間隔拡大の追加報告後も進行」
また書く。
「狭所進入後、上方からマッドクロー二体。隊列分断の危険が発生」
エルザが紙を見ている。ヴェラも同じだった。
「魔物が出たことまで、隊長の判断が原因という書き方にはしないですよね」
エルザが言った。
「ああ。そこは分からん」
「私も、その方がいいと思います」
「危険が出たことと、その時の隊列がどうなっていたかは別だ」
ダグラスが答える。
「進んだのは俺の判断だ。そこは分けて書く」
筆がまた動く。
「戦闘後、任務中止。帰還隊列を再編。前後照明。歩調低下。状態更新を随時報告」
さらに一行。
「第一退避所で資材担当の左腕を洗浄。丸盾が基礎治癒。出血軽減後、固定。魔力消費による異常なし」
最後の行を書き終えた。
「これで異論は」
俺は紙を最初から見直した。能力のことは書かれていない。エルザの報告も、ヴェラの報告も、そのまま残っている。資材担当の負傷をヴェラの脚のせいにもしていない。
「ありません」
「私もありません」
「ございません」
三人の返事を聞いて、ダグラスが紙の端へ印をつけた。
◆
「一つ、聞いてもいいですか」
エルザが言った。ダグラスが紙をまとめながら顔を上げる。
「言え」
「朝と同じ状況なら、今はどうします?」
俺はエルザを見る。ダグラスも少しだけ眉を寄せた。
「答え合わせをする気はない」
「私も、正解を聞きたいわけではありません」
「なら何だ」
「記録にしたことで、何か変わったのかなと思って」
ダグラスはすぐには答えなかった。まとめた紙の角を卓へ当て、揃える。
「不明な報告を全部拾って止まる気はない」
「はい」
「そんなことをすれば進めなくなる」
そこは朝と変わらない。ダグラスは三枚目の紙を見る。
「……だが、この並びはそのまま本部へ出す」
エルザが頷いた。
「はい」
「評価するのは俺じゃない」
「分かりました」
それ以上、ダグラスは続けなかった。今ここで、自分の判断へ都合のいい答えをつけるつもりもないらしい。
「ノワール」
「はい」
「お前たちには、明日本部から確認が入るかもしれん」
「分かりました」
「今日と同じことを答えろ」
「そのつもりです」
ダグラスが立ち上がる。俺も今度は立った。
「ダグラス隊長」
「何だ」
「資材担当の方の腕は?」
「医務へ回した。縫うほどではない」
「そうですか」
「明日には軽作業だろう」
「良かったです」
ダグラスが一度だけ頷く。紙を脇へ抱えた。
「これは俺が本部へ持っていく」
「お願いします」
今度は、言葉を足す理由があった。
「お疲れ様です」
ダグラスがこちらを見る。
少し間があった。
「ああ」
それだけ返して、食堂を出ていった。
◆
扉が閉まる。エルザが椅子へ座り直した。
「……思っていたより、細かく書くんですね」
「そうですね」
俺も座る。ヴェラは、ダグラスが座っていた場所をまだ見ていた。
「ヴェラさん?」
「はい」
「何か気になります?」
少し考えてから、ヴェラが答えた。
「最初に歩けると答えたことを、消さなくてよかったと思いました」
「どうしてです?」
「歩けたことも、途中から隊列を保てなくなったことも、どちらも本当でしたので」
「はい」
「最初の答えが間違っていたことにすると、次に何を報告すればよいのか、また分からなくなる気がいたします」
エルザがヴェラを見る。俺も頷いた。
「変わったら、変わったことを言えばいいんだと思います」
「……はい」
ヴェラの肩から少し力が抜けた。エルザが、さっきまで紙があった場所へ視線を落とす。
ちりん。髪際で、リンが小さく鳴いた。




