第65話 報告と口答え
空はまだ青黒かった。王都の北東門を抜けると、街道の石は夜の冷たさを残している。吐いた息が白くほどけ、少し先を歩くエルザの背で揺れる荷袋が、門外の灯りを一度だけ遮った。
昨夜、盟約から条件についての連絡は来なかった。予定通りなら、こちらが出した条件も含めて受けられたということになる。
〈灰石の口〉の受付小屋には、すでに明かりがついていた。扉の前でヴェラが立ち止まり、右脚を一度曲げ伸ばしする。
「どうです?」
「問題ございません」
俺が頷くと、エルザが自分の荷袋を持ち直した。その髪際では、リンが白い雫のように静かに揺れている。
昨日増やした包帯と重ね布、幅広の布帯。水と予備の固定縄も三人で分けている。前にここへ来た時より、少し重い。
「〈コンパス〉だな」
小屋へ入ると、ガイルが台帳から顔を上げた。
「三人とも来たか。装備を見せろ」
剣、短剣、短槍、丸盾。荷袋の中身まで簡単に確認される。ガイルは最後にヴェラの脚へ目を向けた。
「足、無理になってから言うなよ」
「承知しております」
「そっちの二人もだ」
俺とエルザを見る。
「今日はお前らだけの仕事じゃない。隊長へ預けると決めたなら、現場の命令には従え」
「はい」
「ただし、何か見つけたら口には出せ。不調も同じだ」
昨日、三人で確認したことと同じだった。
「分かりました」
ガイルが台帳へ印をつける。その時、小屋の外から靴音が近づいた。
◆
「お前たちが〈コンパス〉か」
先頭の男は、四十代ほどに見えた。厚い肩を革鎧が覆い、表面には細かな擦り傷と補修跡が残っている。腰の左右には、柄の短い片刃の斧が一本ずつ吊られていた。
昨日聞いた通りだ。《鉄鎖の盟約》二分隊長、ダグラス。
後ろには二人いる。一人は長槍を持った若い男。もう一人は、資材袋と予備の松明を背負った中年の男だった。
中年の男の胸元には、小さな革張りの携帯時計が吊られている。片手には、細い板を挟んだ記録帳もあった。資材だけでなく、記録も受け持つらしい。
「ノワールです。こちらがエルザさんとヴェラさんです。本日はよろしくお願いします」
「ダグラスだ。挨拶はそれでいい」
短い。リベルトほどではないが、余分な言葉を使わない人らしい。
ダグラスの視線が、俺たち三人の装備を順に通った。
「先に方針を言う。進行と配置は俺が決める。敵を見た、身体に異常が出た、道が通れない。報告は短く、確定した事実から先に言え」
一拍置く。
「報告は最後尾が記録する。必要なものは時刻も残す」
中年の男が記録帳を軽く上げた。
「推測と対応は分けろ。命令が出た後に全員が好きな判断を始めるのが一番まずい」
「承知しました」
理屈は分かる。
「隊列を決める。俺が先頭。次に槍。中央に丸盾。ノワール、その後ろにエルザ。最後尾は資材担当だ」
ヴェラが三番目。俺たち三人だけで組む時とは違う。
「異論は」
「ありません」
エルザとヴェラも頷いた。
「なら行くぞ」
ダグラスが石段へ向かう。エルザが歩き出すと、リンも髪際に寄ったままついていく。俺たちも続いた。
◆
地下へ入ると、湿った冷気が肌へまとわりついた。先頭の松明が岩壁を照らし、その後ろを長槍の穂先が小さく揺れる。
ダグラスの歩き方は速い。ただ、雑ではなかった。水が溜まった場所では踏む位置を変え、曲がり角の手前では必ず歩調を落とす。天井の低い場所では一度止まり、槍手へ穂先を下げさせた。
最初の分岐を越えたところで、右手を上げる。全員が止まった。
「前。壁際に一体」
松明の向こう。灰褐色の背が、岩の影でわずかに動いた。マッドクローだ。
「槍、右を塞げ。丸盾、左へ半歩」
「承知いたしました」
ヴェラが盾を開く。逃げ道を絞られたマッドクローが低く身を沈めた。
ダグラスは動かない。前脚へ力が入る。
「来るぞ」
飛び出した瞬間、槍の石突きが横から進路を狭めた。ヴェラの盾が左を塞ぐ。ダグラスが開いている隙間を埋めるように入る。
右の短斧が落ちる。重い音が一度。マッドクローは石床へ崩れ、そのまま動かなくなった。
速い。全員がやることを迷わなかった。
「負傷」
「なし」
「ございません」
俺たちが順に答える。ダグラスは死体を確認してから、すぐに進行を再開した。
今の様子を見る限り、見えている危険への判断はかなり速い。
◆
第一退避所では、前回使った搬送布と木棒が補充されていた。資材担当の男が壁の木箱を開き、中身を一つずつ確認していく。
細縄。包帯。松明。油。ダグラスは数を確認し、古い油壺を一つ手に取った。
「蓋が緩い。交換」
「了解」
短いやり取りで作業が進む。俺たちが前回使ったものも、こうして次のために戻されるらしい。
確認を終え、再び歩き始める。第二道標を越えたところで、意識の端へ弱い反復が触れた。
右側。人が一人通れるくらいの狭い分岐の奥。
一度だけではない。間を空けて、もう一度。
マッドクローかどうかは分からない。距離も数もはっきりしない。
昨日決めた通り、そのまま口にする。
「ダグラス隊長」
「何だ」
「右の分岐の奥に、何かいるような気配があります。生き物かどうかは分かりません。位置も確実ではありません」
ダグラスが一度だけ右を見る。
「音は」
「聞こえていません」
「姿は」
「見えていません」
「未確認として記録。音か姿で取れたらもう一度言え」
最後尾で筆が紙を擦る音がした。
「分かりました」
「進む」
隊列が動く。俺も従った。反復は、通り過ぎる間にもう一度だけ触れた。
振り返らない。報告はした。変化があれば、また伝えよう。
◆
通路が何度か曲がった。岩の張り出しが増え、松明の光が届く範囲も狭くなる。
前の二人が角を抜ける。ヴェラ。俺。エルザ。その後ろの資材担当が曲がる時、壁の影が深く落ちた。
「ダグラス隊長」
エルザが声を上げる。
「最後尾の足元が、現在の松明位置では見えなくなる区間が出てきています」
ダグラスは歩調を落としたが、振り返らない。
「歩けないのか」
「歩けます。ただ、予備の松明を一本、後方でも使えば死角を減らせます」
「増やさない」
「理由を伺っても?」
「予備は退路と緊急時に使う。今は増やさない」
「今のままだと、最後尾が足場を確認できない時間があります」
「それは聞いた」
ダグラスが止まり、肩越しにエルザを見る。
「対応を決めるのは俺だ。報告へ指示までつけるな」
エルザが一瞬だけ黙った。
「……視界条件の報告として受け取っていただければ結構です」
「なら聞いた。進むぞ」
「承知しました」
エルザは松明を少し高く持ち直した。髪際のリンが、光から逃げるように少しだけ位置をずらす。最後尾へ届く光が、ほんの少し広がった。
◆
第三道標へ向かう通路に入る頃には、足場がさらに悪くなっていた。石床の一部が割れ、細かな砂利が斜面へ溜まっている。
前のヴェラの着地音が、一度だけずれた。
左。右。次の右が少し遅れる。
曲がり角で盾を切り返した時、縁が岩壁へ擦れた。ヴェラ自身も当然、気づいているはずだ。
「ダグラス隊長」
「何だ」
「右脚の踏み替えに遅れが出ています」
ダグラスが足を止める。ヴェラの右脚を一度見る。
「歩けるか」
「自力歩行は可能です」
「なら進め」
「現在の速度では、狭所で隊列維持が難しくなる可能性があります」
「不調は聞いた。速度は俺が決める」
「承知いたしました」
ヴェラはそれ以上言わなかった。隊列が再び動く。
しばらくして、また右脚の着地が遅れた。今度は前の槍手との間が半歩ほど開く。ヴェラが詰める。盾の向きが一瞬遅れる。
「ダグラス隊長。報告を更新します」
ヴェラの声が通路へ響いた。
「右脚の踏み替え遅延が増えています。歩行は可能ですが、現在の速度と配置では、方向転換時に前方との間隔を維持できません」
ダグラスが止まった。
「さっき聞いた」
「状態が変化しましたので、再度報告いたしました」
「同じ報告を繰り返すな。命令を聞いた後まで口答えを続ければ、隊列が止まる」
ヴェラの口が閉じる。けれど、視線は下がらなかった。
「……承知いたしました」
前へ向き直る。
「ダグラス隊長。俺からも報告です」
「何だ」
「さっきより、ヴェラさんと前の間隔が開いています」
「見えている。進む」
「分かりました」
判断は預ける。見えたことまで黙る理由はない。
エルザと目が合う。それだけだった。
◆
第三道標の手前。さらに狭い区間へ入った。右側の壁が崩れ、拳ほどの石が通路へ散らばっている。天井も低い。
先頭のダグラスが止まり、松明を上げた。
「ここを抜ければ少し広い。止まらず行く。間を詰めろ」
槍手が続く。ヴェラが足を踏み出した。
右足が砂利へ乗る。わずかに滑った。盾が壁へ寄る。
「ダグラス隊長」
ヴェラの声が強くなる。
「現在の状態では、進行命令をこの隊列のまま遂行できません」
ダグラスが振り返る。
「歩けると言っただろう」
「自力歩行は可能です。しかし、この幅で前方との間隔を保ちながら盾を切り替えることはできません」
その時。後ろで何かが鳴った。
がりっ。
石を爪で引っかく音。最後尾の足元は、岩の影へ沈んでいた。
ほぼ同時に、弱い反復が一気に近づいた。一つ。その横に、もう一つ。
上。
「ダグラス隊長、上です。二つ!」
言い終わる前に、細かな石が落ちた。
「止まれ!」
ダグラスの声が変わる。天井際まで張り出した岩の上から、灰褐色の塊が飛び降りてきた。マッドクロー。
一体目はヴェラと槍手の間。二体目は、俺たちの後ろ。隊列の中央と後方へ分かれる。
「中央固定! 槍、前を止めろ! 後ろ、灯りを出せ!」
命令が飛ぶ。俺の右足が後ろへ下がる。二体目の前脚が石床を叩いた。身体が沈む。
来る。
「エルザさん、左!」
エルザが壁際へ寄る。突進。剣を横へ入れる。
斬るためではない。刃の腹と鍔で肩口を押し、進路をずらす。衝撃が腕へ抜けた。マッドクローの爪が石床を滑り、資材袋の横を掠める。
「っ!」
最後尾の男が身を引いた。袖が裂けた。血が細く滲む。
「負傷一! 浅い!」
本人がすぐに叫ぶ。
「動けるか!」
「動ける!」
「後方へ下がれ!」
ダグラスは一体目へ短斧を向けながら叫ぶ。
ヴェラは踏み込まない。その場で丸盾を立て、中央を塞いでいた。
一体目のマッドクローが盾へ爪を掛ける。ヴェラの右脚は動かない。左足を軸に、盾の角度だけを変える。槍手が横から穂先を入れた。
「押すな! 留めろ!」
ダグラスの号令。槍が止まる。マッドクローの身体が盾の前で一瞬固定された。
ダグラスが踏み込む。短斧が首元へ入った。一体目が崩れる。
「後ろ!」
「まだ動いてます!」
ダグラスが中央を抜けて、こちらへ走る。
エルザが松明を壁の金具へ差し込んだ。両手が空く。短剣を抜く。
二体目がこちらへ向き直った。前脚の内側へ短剣が入る。姿勢が崩れる。
「ノワール、右へ流せ!」
「はい!」
剣先を下げ、肩へ当てる。前へ出る力に合わせて外へ逃がす。マッドクローが右壁へぶつかった。
そこへダグラスが入った。左の短斧が前脚を払う。右が首の付け根へ落ちた。動きが止まる。
「周囲!」
すぐに声が飛ぶ。槍手が前を見る。エルザが松明を持ち直し、後方を照らす。リンはその髪際へ戻り、白く小さく揺れていた。
俺も意識を広げた。さっきまで近くにあった反復は二つとも消えている。それ以外に、近いものは分からない。
「近くに、さっきと同じ気配はありません。確実ではありません」
ダグラスが一度だけ俺を見る。
「分かった」
今度は切らなかった。
◆
戦闘が終わると、ダグラスはその場で全員を止めた。
「負傷を言え」
槍手が先に答える。
「俺はなし」
資材担当が左腕を見る。
「左腕、浅い裂傷。動作に問題なし」
「俺もありません」
「私は負傷はしてません」
エルザに続いて、最後にヴェラが答えた。
「外傷はございません。右脚の疲労が増しています」
「歩けるか」
「自力歩行は可能です」
ダグラスの眉がわずかに動いた。ヴェラが続ける。
「ただし、先ほどと同じ速度、同じ配置での進行は困難です」
「分かった」
ダグラスがしゃがみ、散らばった石と頭上の岩を順に見る。次に、後方の暗くなっていた区間。ヴェラの右脚。俺たちが通ってきた右分岐の方角。一つずつ視線を動かす。
「第三道標の確認は中止する」
立ち上がった。
「任務未達で戻る。負傷者を中央へ。丸盾は歩調を落として中央固定。灯りは前後に分ける」
エルザがすぐに予備の松明を出した。
「油の消費は増えますが」
「構わん。帰還を優先する」
「承知しました」
ダグラスは資材担当の腕へ視線を向ける。
「第一退避所で傷を見る。それまでは布を当てて圧迫しろ」
「了解」
誰も続行を口にしなかった。ダグラス自身も、第三道標へは向かなかった。
◆
帰りの隊列は、行きと変わった。ダグラスと槍手の後ろに、負傷した資材担当とヴェラが続き、その後ろを俺とエルザが歩く。
前後に灯りがあった。歩調も遅い。
「ヴェラ」
「はい」
「右脚は、変わったらその都度言え」
ヴェラが一瞬だけダグラスを見る。
「承知いたしました」
声に、わずかな間があった。
その後は、第一退避所まで大きな問題は起きなかった。資材担当の傷を洗う。出血は続いている。
ダグラスがヴェラを見る。
「丸盾、治癒は使えるか」
「基礎的なものでしたら」
「出血が抑えられればいい。やれ」
「承知いたしました」
ヴェラが資材担当の左腕へ手を添える。淡い光が傷口を包み、にじんでいた血がゆっくり弱くなった。
「完全には塞がっていません。ですが、出血は抑えられました」
「十分だ。固定しろ。魔力消費の影響はないか」
「ございません」
「わかった」
槍手の男が重ね布を当てて固定する。俺とエルザは手を出さず、周囲を警戒する。ヴェラも座って右脚を休ませる。
「悪化していますか?」
「疲労感はあります。ただ、鋭い痛みはございません」
「戻るまでは無理に詰めないでください」
「はい」
休憩後、再び入口へ向かう。来た時より長く感じた。
◆
〈灰石の口〉の入口へ戻った時には、外はすっかり明るくなっていた。予定より早い帰還だったらしい。受付小屋からガイルが出てくる。
「早いな」
「第三道標確認は未達だ」
ダグラスが答える。
「何があった」
「第三道標手前の狭所で、マッドクロー二体が上方から侵入。隊列が分断しかけた。負傷一。右脚疲労一」
ガイルの視線が資材担当の腕からヴェラへ移る。
「怪我は」
「ございません」
「歩けるんだな」
「はい」
ガイルがダグラスを見る。
「原因は」
少し間があった。
「気配の報告があった。後方の視界が悪いとも言われた。丸盾の脚にも遅れが出ていた」
ダグラスが言う。エルザが顔を上げる。ヴェラも黙ってダグラスを見ている。
「全部聞いた。その上で、俺が進めると決めた。本部にはそう上げる」
声は変わらない。
「戦闘後に任務中止を決めた」
ガイルは何も返さず、台帳を開いた。ダグラスはその横へ立ち、記録を始めた。
ガイルがヴェラの右脚と資材担当の腕を確かめる。俺たちは少し離れた場所で待った。
ちりん。
リンがエルザの髪に留まったまま鳴いた。エルザがふっと笑う。
「リンが『つかれた』だそうですよ」
「何かしてましたっけ?」
少し肩の力が抜けた気がした。ヴェラの確認が終わった。
宿へ戻ろう。
小屋を出る前に振り返る。報告書を書いているダグラスの背中が見えた。
ああいう背中には、覚えがあった。
お疲れ様でした。




