第64話 預ける条件
〈鈍色亭〉へ戻ると、昼の混雑はもう過ぎていた。食堂には空いた卓が増え、厨房から包丁の音が一定の間隔で聞こえてくる。俺たちはいつもの卓へ座った。リンはエルザの髪際からふわりと離れ、卓の端近くへ浮かんだ。
エルザが鞄から、盟約でもらった共同任務の条件を書いた紙と補償条件の紙を取り出す。
「広げるなら、汁物が来る前にしな」
女将が横を通りながら言った。
「今日はまだ注文してませんよ」
「そのうちするだろ」
女将はそれだけ言って厨房へ戻った。エルザが紙の端を揃える。
「では、汁物が来る前に決めましょう」
「注文するんですか」
「ここのご飯は美味しいので」
昨日までなら、こういう時はエルザが手帳を開いて、一つずつ確認を始めていた。今日は紙がもうある。それでも結局、確認を始めるのはエルザだった。
「受ける方向は、先ほどのままでいいですよね」
「はい」
俺が答えると、ヴェラも頷いた。
「私もです」
「では、どこまで盟約側の指揮へ預けるかを決めましょう」
そこは、受けるかどうかより大事だった。
「全部ではないですね」
「はい」
エルザが即答する。
「共同任務中だからといって、今後の活動全体まで盟約の指揮下へ入るわけではありません」
「今回だけでいいと思います」
俺が言うと、ヴェラが紙を見る。
「今回の〈灰石の口〉第一層における定期警備と設備確認。その任務中のみ、でしょうか」
「俺はそのつもりです」
「私もです」
エルザが指先で紙に書かれた任務内容をなぞった。
「任務内容にないことまで、その場で追加される可能性についてはどうしますか?」
「例えば?」
「別の班から救援要請が来た場合です」
確かに。書かれているのは、巡回路と退避所の確認。警戒。必要時の魔物対応。
そこまでは最初から含まれている。
「その場で人が危ないなら、何もしないわけにはいかないと思います」
「はい」
ヴェラも頷く。
「ただし、それを新しい任務として続けるのであれば、一度こちらへ確認していただきたいです」
「そうですね」
救助そのものは緊急対応。その後、別の仕事まで当然のように追加されるのは違う。
「では、任務中の緊急対応は隊長判断に従う。ただし、当初の任務範囲を外れて継続する場合は改めて確認」
エルザが紙の余白へ短く書いた。
「それでいいですか?」
「良いと思います」
「承知いたしました」
次に、エルザが補償条件の紙を前へ出した。
「指揮については、先ほどリベルトさんから聞いた通りです。最終判断は隊長へ集める」
「そこは受ける以上、従いましょう」
俺が答える。
「ただ、報告まで止められるのは困ります」
ヴェラが俺を見る。
「先ほど、リベルト様も、危険や不調、遂行不能は報告するよう仰っていました」
「はい。そこは確認の意味でも条件にした方がいいですね」
エルザが頷いた。
「見えた危険、装備の異常、身体の不調、命令を実行できない可能性。これは三人とも報告する」
「報告した後の判断は隊長へ預ける、と」
「そうですね」
書きながら、エルザが顔を上げる。
「ノワールさんも、例の不確かなものを報告しますか?」
一瞬だけ考えた。〈灰石の口〉で感じた、視界の外の反応。種類も数もはっきり分かるわけではない。
「確実じゃないことは、確実じゃないと言った上で伝えようと思います」
「どういう感じで?」
「右側に何かいるように感じる。ただし、見えていないし、種類も数も分からない。そんな感じです」
エルザが頷く。
「事実と推測を分けるんですね」
「はい。分からないものを、分かったようには言わないです」
「それなら良いと思います」
ヴェラも頷いた。
「確定していないことでも、危険に関わるのであれば報告した方が良いと思います」
「そうですね」
何を感じたか。どこまで分かっているか。分からない部分はどこか。伝えるなら、そこまでだ。
「それで」
エルザが紙へ視線を戻す。
「報告した後の責任についてです」
卓の端に浮かんでいたリンが、少しだけエルザの方へ寄った。
「隊長が情報を聞いた上で続行を決めたなら、その判断の責任は命令した側が引き受ける。ここは先ほどの説明通りですね」
ヴェラの返事は少しだけ早かった。
「はい」
リベルトが言っていたのは、判断だけを預けろという話ではなかった。前で何かを見つければ言う。後ろから見えていることがあれば言う。身体がおかしければ言う。
そこまでを俺たちが持った上で、最後に決める人間を一人にする。
「報告しなかったことまで、盟約側へ預けることはできませんね」
エルザが紙へ書き足した。
「あと……問題は隊長ですね」
俺が言うと、エルザが紙を裏返した。
「そこですが、ノワールさんが隊長は確認したいと言っていたので、帰りに入口で聞いておきました」
「いつの間に」
「赤紐を外してもらった時です」
「全然気づきませんでした」
「ノワールさん、まだ少し機嫌が悪そうでしたから」
「……それは申し訳ありませんでした」
エルザが小さく笑ってから、紙の裏をこちらへ向けた。
「予定は、二分隊長のダグラスさんだそうです」
「ダグラスさん」
知らない名前だった。
「どんな人です?」
「そこまでは聞いていません。四十代くらいの男性で、短斧を二本使うこと。〈灰石の口〉の警備経験があること。それだけです」
「実務経験はある、と」
「はい」
「知らない人なら、結局やってみないと分からないですね」
「そう思います」
ヴェラが紙へ視線を戻した。
「今回一度、ダグラス様へ指揮を預けることについて、私は問題ございません」
ヴェラの指が、紙の端に触れる。
「先ほど伺った規則が、実際の任務でどのように運用されるのかを見てみたいです」
「私も同じです」
エルザが言う。
「円卓の支援も、説明を聞くだけでは分からないことがありました。盟約も、実際に一度組んでみないと分からないと思います」
二人の視線がこちらへ向いた。
「俺も賛成です」
リベルトには思うところがある。それだけで、盟約との共同任務まで断る理由にはならない。リベルトにはああは言ったが、そもそもダグラスという隊長がどういう人かもまだ知らない。
少し言い返しすぎた。反省しよう。
「では、条件をまとめます」
エルザが余白へ書いたものを上から追う。今回一回だけ。〈灰石の口〉第一層の定期警備と設備確認、その任務中に限って最終判断を盟約側の隊長へ預ける。
緊急時は隊長判断に従う。ただし、元の任務を外れて別の仕事へ移るなら、そこで改めて確認する。俺たちは、危険や不調、装備の異常、命令を実行できない可能性を報告する。確定していないことは、そのことも含めて伝える。
その上で出された判断は、指揮を執った側が引き受ける。書かれていることは、さっきまで三人で話した内容と変わらない。
「これで受けます?」
エルザが顔を上げた。
「俺はそれで」
ヴェラも頷く。
「私も異議ありません」
「では、決まりですね」
エルザが最後に一行書き足した。そこへ女将が三つの皿を置く。野菜と豆の入った汁物だった。
「さぁ、終わったんだろ? 食べな」
「え……まだ頼んでませんけど?」
「腹減った顔してたから持って来たんだよ」
「顔で注文ができる宿だったんですね」
「……嫌なら下げるよ」
「すみませんいただきます」
女将が厨房へ戻る。エルザが紙を急いで端へ寄せた。
「危なかったです」
「汁物が来る前に決められましたね」
「ぎりぎりです」
コソコソと話しながら、ヴェラが匙を取る。
「返事は、食後でよろしいでしょうか」
「もちろんです」
「急いで食べる必要はないですよ」
エルザも匙を持った。
「分かっています」
たぶん分かっていない速さで、一口目を飲んだ。
ちりん。
卓の端にいたリンが、エルザの髪の近くへ戻る。
「何て?」
「……『はやい』」
「ほら」
「リンまで言わなくていいんです」
エルザが指でリンをつつく。ヴェラが俯いた。
笑っている。
「ヴェラさん?」
「申し訳ございません」
「謝りながら笑ってますよ」
俺も汁物を一口飲む。先ほどの盟約本部より、ずっと話しやすかった。
◆
食事を終えたあと、三人で冒険者ギルドへ向かった。リンもいつもの位置へ戻り、エルザの髪際で揺れている。盟約への返答は、ギルドを通して渡せると聞いていた。受付にはミラがいた。
「こんにちは」
「こんにちは。先ほどの面談はどうでしたか?」
答えを考える。
「……少し疲れました」
答えると、ミラが一瞬こちらを見る。
「……面談で、ですか?」
「いろいろありまして」
エルザとヴェラが俺から顔を背ける。
「こちら、盟約からの共同任務についての返答です」
エルザが紙を差し出す。ミラが内容を確認する。
「受ける方向で、条件付きですね」
「はい。この範囲であれば受けます」
「分かりました」
ミラがもう一度、書き加えられた部分へ目を通す。
「こちらを盟約側へ回して、この条件で問題ないか確認します」
「お願いします」
「隊長予定はダグラスさんと聞いています。変更がある場合は、出発前に知らせてもらえますか?」
エルザが続けた。
「その旨も付けておきます」
「ありがとうございます」
ミラが受付用の札へ何かを書き込み、紙と一緒にまとめる。
「今のところ、集合予定は明朝の〈灰石の口〉入口です。ただ、条件について盟約側から変更や確認があれば、その前に連絡します」
「連絡がなければ、この条件で受けてもらえたと考えていいですか?」
「はい。その形で伝えておきます」
「分かりました」
「今日はゆっくり休んでください。続けて地下ですから」
「そうします」
受付を離れる。まだ正式に決まったわけではない。
けれど、こちらから出す条件は決めた。あとは、向こうが受けるかどうかだ。エルザが隣で鞄の口を閉じた。
「明日は、報告するところからですね」
「そうですね」
ヴェラが頷く。
「見落とさないようにいたします」
「いつも通りで十分だと思いますよ」
俺が言うと、ヴェラはこちらを見た。
「見えたものを、そのまま言えばいいと思います。分からないなら、それも一緒に」
「……はい」
ギルドの扉を開ける。外はまだ明るかった。明日の朝までに連絡がなければ、共同任務は予定通りだ。三人で集合時間を確認してから、それぞれ準備へ戻ることにした。




