第61話 名前のない手応え
石段を上がるにつれて、白い光が広がっていった。最後の段を越える。昼の風が頬へ当たった。地下の湿った空気が、まだ服に残っている。
前を行く担架は止まらない。
「こっちだ!」
入口脇で待っていた男が手を上げた。その向こうには、屋根だけを張った簡素な救護場所がある。長椅子と水桶、包帯や布を置いた棚。奥には荷車が一台、横付けされていた。
救助員たちがハルトの担架を運び込む。俺たちは邪魔にならないところで足を止めた。中から治癒師らしい女性が出てきた。
「圧迫は継続してる?」
「継続中。右の大腿、深い裂傷。意識はあるが反応は鈍い」
救助員が答える。
「出血は?」
「完全には止まってない」
「分かった。そのまま」
女性は担架の横へ入り、布を剥がさず周囲を確認した。すぐに別の者へ声を飛ばす。
「西へ回す。馬車を出して」
「はい」
ここで終わりではない。でも、俺の手を離れた。治療を続けられる人間へ引き継げた。ミックは担架のそばを離れなかった。
邪魔にならないよう何度か位置を変えながら、それでもハルトの顔が見えるところにいる。治癒師が俺たちの方を見た。
「最初に押さえていたのは?」
「俺です」
「布を重ねた?」
「はい。元の布は剥がしてません」
「ほかに処置は?」
「一番出血が強いと思った場所へ、ヴェラさんが治癒魔法を使っています。その後も出血が残ったので、圧迫は続けました」
女性の目がヴェラへ向く。
「どの辺り?」
ヴェラが俺を見る。俺が右大腿の位置を示した。
「この辺りです」
「分かった。圧迫していた時間は?」
地下での時間を思い返す。
「正確には分かりません。発見してから、救助班へ交代するまでずっとです」
「止血帯は?」
「使ってません。途中から血の染み出しは遅くなりましたが、圧迫は外してません」
「分かった」
それ以上は聞かれなかった。身体の中の流れを感じたことまでは言わない。今必要なのは、外から確認できた経過だ。担架が荷車へ移される。
ミックも一緒に乗り込んだ。
「ハルト!」
呼ばれて、ハルトのまぶたがわずかに動いた。それを見てから、ミックが俺たちへ頭を下げる。
「本当に、ありがとうございました」
「いえ」
俺は首を振った。
「白墨の印と書き置きがなかったら、見つけるのにもっと時間がかかってました」
ミックは一度だけ目を閉じた。
「……あれに気づいてくれたんですね」
「はい」
少なくとも、俺たちはあれで辿り着けた。荷車が動き出す。車輪が土を噛み、門の外へ向かっていった。
西の大聖堂の治療所へ運ぶらしい。
姿が小さくなるまで見送っていると、横からガイルの声がした。
「三人とも、札」
「あ、はい」
エルザが先に木札を出した。ヴェラも続く。俺も荷袋から取り出す。ガイルは三枚を順番に受け取り、入口脇の台帳を開いた。
「第二道標までだな」
「はい」
「第三道標には行ってません」
エルザが答える。
「灰苔も未採取です」
「分かってる」
ガイルは札の二つの打刻を見て、台帳へ何か書き込んだ。
「救助で中断。依頼は未完了扱いだ」
「はい」
「罰則はなし。第三道標以降は別の組へ回す」
淡々とした声だった。
「第二道標の白墨も直せていません。途中でマッドクロー二体と遭遇しています」
「場所は?」
エルザが手帳を開く。
「第一道標から第二道標へ向かう途中の曲がり角です。一体は低い位置から、もう一体は壁の高いところから来ました」
ガイルが地図を広げ、指で道を辿る。
「ここら辺だな。死体は?」
「二体ともその場です」
「あとで回収する」
ガイルが記録する。
「ほかは」
「第二道標の先で血痕を見つけて、その先でハルトさんを発見しました」
「よし」
筆が止まる。
「今日は終わりだ。装備を見てから帰れ」
「ありがとうございます」
木札は返ってこなかった。入口の箱へまとめて入れられた。初めてのダンジョンは、第三道標まで届かなかった。灰苔も持って帰っていない。
代わりに、剣の汚れと盾の傷、それからエルザの手帳の記録が増えていた。救護場所の水桶を借り、手についた血を洗い流した。
◆
入口から少し離れた休憩場所で、俺たちは装備を下ろした。丸太を削っただけの長椅子が二つある。屋根はあるが壁はなく、風が抜けるたび地下で湿った服が冷えた。エルザは最初に外套を外した。
「……また汚しました」
黒い布の裾に、ハルトを運んだ時についた泥が残っている。
「でも、おかげでハルトさんの身体を冷やさずに済みました」
「……そうですね。汚した甲斐がありました」
エルザが布を広げて確認する。リンが髪の近くから浮かび、外套の端へ降りた。
ちりん。
「『よごれた』だそうです」
「リンが綺麗にしてくれますか?」
ちりん。
「『できない』」
「でしょうね」
俺が返答した直後から、リンが俺の周りを飛び回り、ちりんちりんと鳴り続ける。うるさい。無視だ。エルザが俯き、肩を震わせながら外套を軽く払った。
少し離れたところで、ヴェラは不思議そうにこちらを見ながら、盾の縁を指でなぞっている。マッドクローの爪が掛かったところに、細い傷が残っていた。
「ヴェラさん、肩と右脚はどうですか?」
「どちらも問題ありません」
ヴェラは一度、自分の右手を見た。
「魔力はかなり使いましたが、歩くのに問題はありません。帰る前に脚具も締め直します」
「分かりました。無理があったら言ってください」
「はい」
俺も剣を抜かずに鞘の外側を確認した。血はついていない。柄頭には、マッドクローを殴った時の汚れが残っている。あとで落としておこう。
「ノワールさんは?」
エルザが言った。
「俺?」
「はい」
手帳を膝へ置く。
「具合は悪くないですか?」
言われて、自分の身体を確認する。
「はい。特には」
「魔力を使いすぎた感じは?」
ああ。そういうことか。息苦しさはない。頭痛もない。
手の震えもない。
「それもないですね」
操作した血液量は少ない。そのせいか、川で何度も水を動かした時のような消耗感はなかった。
それでも、血の染み出しが遅くなったのは確かだ。俺にも、流れが弱くなった感触があった。
「記録します」
エルザが手帳へ書き込む。
「本人の自覚症状なし。強い魔力消耗感もなし」
「そんなに細かく書くんですか?」
「分からないからです」
即答だった。
「曖昧なことを残すより、起きたことを残した方がいいです」
「確かにその方が良いですね」
エルザは一行書いてから、顔を上げた。
「さっきのことも、書いていいですか?」
俺は周囲を見る。近くにいるのは俺たちだけだ。少し離れた入口では、ガイルたちが次の組と話している。
「手帳を誰かに見られることは?」
「そのまま人に見せることはありません。必要なら、その部分だけ別にします」
「じゃあ、お願いします」
エルザが頷いた。
「見えたことだけにします」
筆先が紙へ触れる。
「ヴェラさんが治癒魔法を使ったあとにも出血が残っていたこと。そのあと、ノワールさんが何かしたと話したこと。血の染み出しがさらに遅くなったこと」
「それでお願いします」
エルザが数行を書き足した。少しして、筆が止まる。
「……本当に、水魔法なんでしょうか」
「疑ってます?」
「少しだけです」
「俺は水魔法だと思ってます」
「分かりました。そこはノワールさんの認識として書きます」
エルザがもう一行だけ書き足した。
「それにしても」
「はい?」
「血の流れには触れられるのに、氷はまだ上手く作れないんですね」
「……そこ比べます?」
「同じ水魔法なのでしょう?」
「そうですけど」
「なら、不思議だなと思っただけです」
エルザは何事もなかったように手帳へ視線を戻した。なんとなく話を逸らされた気もするが、氷が上手く扱えていないのは事実だった。
「そういえば、ヴェラさんにはちゃんと話してませんでした」
ヴェラが盾から顔を上げる。
「何でしょうか」
「魔獣がいるのを感じたり、身体の中の流れを感じたりする方は、《授かり》かもしれないと思ってます」
ヴェラの目が少し大きくなる。
「《授かり》……ですか?」
「まだ確定じゃないですけど」
「本当にあるのですね……」
ヴェラは小さく呟いた。確定じゃないんだってば。エルザは手帳を見たまま、少し間を置いてから口を開く。
「そういえば、セイさんが言っていた、私に話していないことって、この感覚のことですか?」
「ああ、はい。これです」
「そうでしたか」
エルザはそれ以上尋ねなかった。ヴェラが俺とエルザを見比べる。
「セイさんという方は、以前お話に出ていた方ですね」
「はい。俺と同じ落人です。前に、この感覚について相談しました」
ヴェラは頷いた。
「では、感じる方と、先ほど弱めた方は別なのですね」
「今は、そう考えてます」
「分かりました」
ヴェラは盾を脇へ置いた。
「一つ、決めておいた方がよろしいことがあります」
「何でしょう」
「次に同じことが起きた場合です」
ヴェラは俺の手を見る。
「今回のように、誰かの身体の流れへ触れることを、どこまで行うのか」
返事をする前に、ハルトの脚を思い出した。
布へ広がっていく赤。手の下にあった流れ。少し弱く、と考えた時の感触。流れは変わった。外から見ても、出血は減った。
だからといって、次もやっていいとは言えない。
「人で試すのは、やめておきます」
エルザが手帳から目を上げる。
「確認のためでもですか?」
「はい、危険です」
「自分で試すのは?」
少し考える。
「自分になら、今まで通り無理のない範囲で。ただ、他人には試したくないです」
水桶で洗った手を見る。確かめるためだけに、別の誰かの身体へ触れる気にはなれなかった。一呼吸置いて言葉を続ける。
「そもそも使えるからといって、積極的に使う気もありません。今は剣術と氷を作るので精一杯です」
エルザの筆が一瞬止まった。
「……氷は頑張ってください」
「さっきからそこだけ厳しくないですか?」
「事実ですよね?」
「はい」
ヴェラが小さく笑った。そのあとで、ヴェラが頷く。
「では、他者へ行うのは救命が必要な場合だけ、というのはいかがでしょうか」
「それがいいと思います」
俺も頷く。
「普通の処置で間に合うなら、そっちを先にします。今日みたいに圧迫や治癒をして、それでも危ない時だけ」
エルザの筆が動く。
「救命が必要な時だけ。他人での検証はしない」
「はい」
「人と戦う時には?」
今度はすぐに答えられた。
「使いません」
ヴェラがこちらを見る。
「危険な相手でも?」
「少なくとも、今は――」
人の血の流れが分かる。少し弱められる。もし逆に強くできたら。もし止められたら。
考え方次第で、救命とは反対のこともできる。そこまで試す気はなかった。
「人を傷つけるためには使わないです」
「承知いたしました」
ヴェラはそれだけ答えた。エルザの筆が紙を走る。
「救命が必要な時だけ。他人での検証はしない。人を傷つける目的では使わない」
「あと」
俺はエルザの手帳を見る。
「もし使うことがあったら、俺だけで判断しない方がいいかもしれません」
俺には、流れが変わった感触があった。
でも、それだけなら俺の感覚だけだ。
実際に外から見て血の染み出しが減ったと教えてくれたのは、エルザだった。
「使った時は、二人にも外から見てほしいです。相手と、俺の両方を」
「分かりました」
エルザが新しい行を足す。
「同行者が対象とノワールさん、両方を確認」
ヴェラも頷いた。
「なんだか規則が増えてきましたね」
「増やした方がいいものだと思います」
エルザが言った。リンが手帳の端へ移った。
ちりん。
エルザが耳を傾ける。
「『なに?』って聞いてます」
「説明が難しいですね」
「私もまだ分かってません」
エルザはリンへそう答えてから、手帳を閉じかけた手を途中で止める。
「あと一つ。このことは誰まで話しますか?」
ヴェラが先に俺を見た。外へ広げないことは、戻る途中で決めた。でも、誰にも話さないままにするのも違う。
「前に話したセイさんには伝えたいです」
俺は答えた。
「血の流れを感じることについて相談した相手ですし、《授かり》の可能性を教えてくれたのもその人です」
ヴェラが頷く。
「その方以外には?」
「今は二人と、その人までで」
「承知いたしました」
「私もそれでいいと思います」
エルザが答える。
「ただ、セイさんへ話す時も、分かったことと分からないことは分けましょう」
「はい」
俺は自分の手を見る。血はもう洗い流してある。何も残っていない。
それでも、ハルトの身体の中を通っていたあの流れは思い出せた。
「これ、何て書いておきます?」
エルザがもう一度手帳を開いた。
「血流操作?」
「それだと、できることが決まったみたいじゃないですか」
「確かに」
「水魔法の応用?」
「エルザさん、さっき疑ってましたよね」
「ちょっと現実的ではない気がして」
今更何を言っているんだ。少し笑ってしまった。
「じゃあ、まだ名前はいらないんじゃないですか」
エルザはしばらく紙を見ていた。それから、見出しを書こうとしていた場所を一行だけ空けた。その下へ、今日起きたことを短く書き足していく。俺は濡れた鞘を布で拭いた。
ヴェラは固定帯の留め具を締め直す。入口では、次の冒険者たちへガイルが木札を配っていた。少しして、エルザが手帳を閉じた。
「帰りましょうか」
「そうですね」
「承知いたしました」
俺たちは装備を持ち上げた。




