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明日も、ダンジョンへ。  作者: 為書結依
第三章 自分たちの歩幅

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第60話 流れを弱める


 三人分とは別の弱い反復が、暗がりの向こうでもう一度返ってきた。


「先を確認します。ヴェラさん、前をお願いします」


「承知いたしました」


 ヴェラが丸盾を上げる。エルザも松明を先へ向け、俺たちの足元と通路の奥を照らした。俺は剣へ手を添えたまま、道標の先へ進む。石畳の端を走っていた血の筋は、少し先で浅い水溜まりへ入っていた。


 黒く見えていたものが、松明の光の下で赤くほどけている。さらに先には、小さな布切れが落ちていた。


「目印でしょうか」


 エルザが足を止めずに言う。


「たぶん」


 布切れの先、壁の低いところに白墨の矢印が一本あった。道標の脇に引かれていた印とは違う。雑で、急いで引いたような線だった。弱い反復が、また返る。


 さっきのマッドクローとは違った。


 近づいたからなのか。


 それとも、相手が違うからなのか。


 一つの弱い反復の中に、速い拍が混じっている。その拍に合わせて、身体の中心から外へ押し出されるような流れがあった。形の分からない魔獣を探っていた時とは違う。これは、知っている身体の形に近い。


「反応があります。……人だと思います」


 二人が同時にこちらを見た。


「分かるのですか?」


 ヴェラが聞く。


「人の身体だと、さっきより分かりやすいです」


 自分で口にしてから、もう一度反復へ意識を向ける。


 速い。


 弱い。


 それだけじゃない。


 流れ方にひどく偏りがある。


「急ぎましょう」


「はい」


 通路は少し先で右へ折れていた。曲がり角の手前にも白墨の矢印。その下に、今度は文字があった。崩れた字で、短く書かれている。


 【ハルト負傷。入口へ救援。ミック。】


 その先に、巡回路から少し引っ込んだ窪みがあった。松明の光が届く。人が倒れていた。茶色い革胸当て。


 泥に汚れた服。右脚の周りだけ、石床の色が違う。


「周囲を見ます」


 ヴェラが窪みの入口で盾を構えた。エルザも松明を高くし、奥と天井へ光を回す。俺は倒れている男へ近づく前に、意識を周囲へ向けた。


 男の弱い反復。エルザ。ヴェラ。俺。


 今のところ、それ以外にさっきのマッドクローのような反復はない。


「ほかには感じません」


「こちらからも見えません」


「後方、異常ありません」


 剣を鞘へ戻し、男の横へ膝をついた。


「ハルトさん! 聞こえますか!」


 大きめの声を掛けながら、肩へ触れる。


「……う……」


 まぶたが少し動いた。


 目は開いたが、俺を見ているのかは分からない。


「助けに来ました。今から傷を押さえます!」


 返事はなかった。呼吸が浅い。回数も多い。顔色が悪く、額には汗が浮いている。


 右大腿の外側から後ろへ、厚い布地が大きく裂けていた。傷の上には布が押し当てられている。もうかなり血を吸っていた。剥がさない方がいい。


 出血は多い。布を巻いて脚ごと締める方法も浮かんだ。でも、専用の止血帯はない。加減の分からない即席の締め方を試すより、今は直接押さえる。


「エルザさん、もう少しこちらへ光をお願いします」


「はい」


 松明が近づく。火が負傷者へ寄りすぎない位置で止まった。俺は荷袋から清潔な布を出し、血を吸った布の上へ重ねた。手のひらを当てる。


 押す。


 その瞬間だった。さっきまで遠くから拾っていたものが、一気に近くなった。速い拍。そこから押し出される流れ。


 右脚へ向かい、途中でいくつかに分かれている。その中の一つだけが、明らかに強い。俺の手の下へ、繰り返し大きく流れ込んでくる。


 マッドクローの時は、力が集まった、沈んだ、前へ寄った――そのくらいだった。


 今は違う。


 人の身体なら、知っている形へ重ねられる。現実で何度も触れ、見てきた身体だ。


「……ノワールさん?」


 エルザの声で手元へ意識を戻す。


「すみません」


 圧迫は緩めない。手の下へ集まる流れをもう一度追う。傷そのものは、血を吸った布の下でよく見えない。


 それでも、一番強く血が向かっている場所は分かる。


「ヴェラさん、治癒魔法は使えますか」


「はい。ただ、この傷を全部治すのは難しいと思います」


「全部じゃなくていいです」


 俺は圧迫している手を動かさないまま、空いた指で位置を示した。


「この辺りです。一番強く出血しているところがあります。ここへ集中してもらえますか」


 ヴェラの視線が、俺の指先を追う。血を吸った布の上からでは、そこだけが特別ひどいとは見えない。ヴェラは一度、俺の指先から顔へ視線を上げた。


「……ここ、ですか?」


「はい。まず一番ひどいところをお願いします」


 短い間があった。


「……承知いたしました」


 ヴェラが盾を脇へ置き、俺が示した位置へ手を添えた。淡い光が、傷全体ではなく狭い範囲へ集まる。手の下で感じていた一番強い流れが揺れた。少しずつ細くなっていく。


「そのままお願いします」


「はい……」


 ヴェラの額に汗が浮く。光は続いている。俺は流れだけを追った。強かったものが、さらに細くなる。


 そして、ほとんど分からなくなった。さっきまで一番強かった流れが、消えている。その周りには、まだ別の流れが残っていた。細い。


 数も一つではない。


 しばらくして、ヴェラの指先の光が弱くなった。


「……これで、どうでしょうか。これ以上は難しいです……」


「十分です。ありがとうございます」


 ヴェラが手を離す。


「ヴェラさん、これを」


 エルザが持っていた砂糖菓子をヴェラに渡す。


「ありがとうございます」


 ヴェラはすぐに口に含み、深く息をついた。額の汗は、まだ引いていない。重ねた布には、新しい赤が滲んでいた。傷全部が治ったわけではない。


 ヴェラが再び盾を取る。


「何か使えそうなものがないか確認します」


「お願いします」


 ヴェラが窪みの奥へ移る。


「鎖の印がある木箱がありました」


 入口でガイルが腕に巻いていたものと似た印だった。蓋を開ける。


「搬送布、木棒、固定用の縄です」


「使えそうですね。中身を出しておいてください」


「承知いたしました」


 俺は圧迫を続ける。ハルトの呼吸は変わらない。顔色も戻らない。さっきまでの勢いはない。


 それでも、手の下の布はゆっくり赤くなっていく。細い出血がいくつも残っている。これ以上、一つずつ治してもらうのは無理だ。


 このままでも救助が来るまで持つのか。


 分からない。


 指先へ意識を集める。流れが分かる。どうしてここまで感じられるのかは、まだ分からない。ただ、人の身体なら、元の世界で覚えた知識へ重ねられる。


 そして、流れているものが血なら話は別だった。血だって、水分を含んでいる。あの川辺で、自分の血流を動かした時と同じように、場所さえ分かれば水魔法で触れられるはずだ。そこで、先日考えたことが戻った。


 トッドの肩口から、俺の手の下へ溢れていた血。もし、血が出る勢いだけでも弱められたら。大きな流れは止まった。なら、残っている細い流れを少し弱めればいい。


 全部止めるんじゃない。


 今より少しだけ。傷へ向かう血を減らす。そう思った。




 残っていた流れが、わずかに弱くなった。


 ――ちりん。


 鈴の音に、意識が一瞬だけ逸れた。


「……え?」


 すぐに手元へ意識を戻す。エルザが一瞬だけ髪際へ目を向けた。俺は圧迫する手を動かさない。残った流れは、さっきより弱いままだった。


 手の下へ押し返していた感触も軽くなっている。布へ広がる赤が、さらに遅くなった。


「ノワールさん」


 エルザの声が低くなる。


「また、減りました」


「はい」


 流れが弱くなった分、圧迫が効いている。


「何をしたんですか?」


「残っていた血の流れを、水魔法で少し弱めました」


 エルザの視線が俺の手へ落ちる。


「……水魔法……ですか?」


「はい。感じる方は、まだ分かりません。《授かり》かもしれない。でも、今やったのは水魔法です」


 エルザは俺の手元を見ながら、少し考えたあと言葉を続けた。


「意図してやったのは初めてですか?」


「他人には、初めてです」


 エルザはそれ以上聞かなかった。


「分かりました。続きは戻ってからにしましょう」


「はい」


 俺はハルトへ視線を戻した。大きな出血は止まり、残りも圧迫で抑えられている。


 それでも、失った血は戻らない。圧迫を外せる状態でもなかった。もう少し弱くできるだろうか、と一瞬考えた。やめた。


 今の変化だって、どこまで安全なのか分かっていない。弱っている人間で続きを試す理由はない。


「ハルトさん! 聞こえますか!」


 俺は身を屈めてハルトの耳元で声をかける。


「……はい……」


 今度はかすかに声が返った。何とか意識は保てている。


「このまま入口へ戻ります。脚は動かさないでください」


 返事の代わりに、まぶたが動いた。エルザが外套を外しかける。


「これ、掛けますか?」


「お願いします。身体を冷やしたくないです」


「はい」


 黒い外套が、傷口を避けてハルトの上半身へ掛けられた。少し前に女将さんに直してもらったばかりだ。そんなことを考えた自分に気づいたが、今は言わない。ヴェラが木箱から搬送布を広げる。


「両端へ木棒を通せます。肩へ掛ける帯も付いています」


「二人で運べますか?」


 ヴェラは足元と搬送布の長さを確かめた。


「平地なら可能です。曲がり角では速度を落とします」


「分かりました。無理が出たらすぐ言ってください」


「はい」


「エルザさん、前をお願いできますか」


「やります」


 松明をどうするか考える前に、エルザが搬送布の前側へ通した木棒に、小さな金具を見つけた。


「ここ、松明を固定できそうです」


「便利ですね」


「管理されている場所で助かりました」


 松明を差し、角度を確かめる。前方を照らしながら、布にもハルトの身体にも火が寄らない位置で固定できた。俺は圧迫を切らさないようにしたまま、ハルトの身体を少しずつ搬送布へ移す。大腿はなるべく曲げない。


 エルザとヴェラが肩と腰を支え、俺が傷側を見ながら位置を直す。最後に縄で身体を留めた。


「巡回はここで終わりにします」


「はい」


「異議ありません」


 第二道標の白墨も、第三道標も、灰苔も残っている。依頼は終わっていない。でも今は関係ない。


「戻りましょう」


◆


 帰り道は、来た時より狭く感じた。エルザが前。ヴェラが後ろ。


 二人の肩に搬送布の帯が掛かっている。俺はハルトの右側を歩き、重ねた布を押さえ続けた。松明の光が揺れるたび、岩壁の影が伸び縮みする。


「段差です」


 エルザが言う。ヴェラが足元を見てから答えた。


「見えています」


 二人が同時に速度を落とす。搬送布が傾かない。俺も歩幅を合わせる。さっき戦った場所が近づいた。


 マッドクロー二体の死体が、壁際に残っている。


「少し左へ寄れますか」


「はい」


 エルザが進路を変える。ヴェラも追う。担架が爪へ触れない幅を確かめて通り抜けた。ハルトの反復は弱いままだった。


 けれど、さっきより弱くなってはいない。俺は流れをもう一度変えようとはしなかった。圧迫を続ける。呼吸を見る。


 時々、名前を呼ぶ。


「ハルトさん! 聞こえますか!」


「……聞こえ……ます」


「もう少しです! 返事だけ続けてください!」


 言葉が届く。返事がある。今はそれでいい。さらに進む。


 やがて、前方に俺たち以外の灯りが見えた。一つではない。


「誰か来ます」


 ヴェラが盾へ手を伸ばす。俺も顔を上げた。灯りの向こうから声が飛ぶ。


「〈コンパス〉か!」


 聞き覚えがある。


「ガイルさんです」


 エルザが言う。


「はい!」


 俺が返す。灯りが近づいてくる。先頭はガイルだった。左腕の短い鎖が、松明の光を返している。


 その後ろに救助用の担架を持った男が二人。さらに、さっきすれ違ったミックがいた。


「ハルト!」


 ミックが前へ出かける。


「ミック、止まれ」


 ガイルが腕を出した。ミックは、その場で足を止めた。ガイルは俺たちの担架の脇へ来る。


「状態は」


「呼びかけには反応があります。呼吸は浅く速いです。右大腿に深い傷があります。出血の強かった箇所は、ヴェラさんが治癒魔法で塞いでいます」


 ガイルの目がハルトの右脚へ落ちる。


「出血は」


「ほかの場所からは残っています。ただ、量は減っています。布を重ねて直接圧迫を続けています」


「分かった。圧迫は切らすな。交代する」


 救助員の一人が俺の横へ入った。


「この上からでいいか」


「はい。今の位置をそのままお願いします」


 救助員の手が、俺の手のすぐ横へ重なる。圧が移るのを待つ。


「もう少し身体側です。そこです」


「分かった」


「離します」


 指を一本ずつ外した。布への赤い滲みは急には増えない。圧迫は、そのまま効いている。さっき弱めた流れがどこまで残っているのかは分からない。


 救助員たちが正式な担架を横へ並べた。ガイルが短く指示を出す。


「頭側から。脚を曲げるな」


 エルザとヴェラも位置を空ける。ハルトの身体が、圧迫を続けたまま救助用担架へ移された。ミックが近づいてきた。


「ハルト……」


 ハルトの顔を見てから、俺たちへ向き直る。


「すみません。俺、一人じゃ運べなくて。置いて戻るしか……」


「それで良かったと思います」


 ミックが顔を上げた。


「俺たちと一緒に戻っていたら、入口へ知らせるのも、その分遅れていました」


 俺は先を行く救助班を見る。


「ミックさんが先に戻ったから、救助の人たちがこっちまで来られたし、治療所にも先に連絡できたんですよね」


「……でも、ハルトを一人に」


「止血材も残ってましたし、白墨の印もありました。俺たちが見つけた時も、まだ意識はありました」


 少しだけ間を置く。


「一緒に運ぶより、先に助けを呼んだ方が、ハルトさんが治療を受けるまでの時間は短くなったと思います」


 ミックはハルトの方を見た。それから、何度か頷いた。


「……ありがとうございます」


「話は上で聞く」


 ガイルが救助員へ向き直る。


「先に運べ。入口へ知らせろ。治療所を空けてもらえ」


「了解」


 担架が動き出す。ミックもその横へつく。ガイルは俺たちを見た。


「巡回は中止でいい。引き継ぐ。お前たちも戻れ」


「はい」


 救助班が先へ進む。少し距離が開いたところで、ヴェラが声を落とした。


「ノワール様」


「はい」


「先ほどのことは、外では話さない方がよろしいでしょうか」


「……そうですね」


 少し考える。


「血流を感じることは、前にセイさんという方にだけ話しています」


 自分の手を見る。


「でも、他人の血流を動かしたのは今回が初めてです。今は、それ以上広げたくないです」


「承知いたしました。私は話しません」


「私も」


 エルザが短く答えた。


「ありがとうございます」


 それだけで話を切った。エルザとヴェラが、自分たちの木製入場札を確かめる。第二道標まで。そこから先の印はない。


 今日の依頼は途中だ。俺も札をしまった。救助班の灯りを追って歩き出す。


 しばらくすると、通路の先に石段が見えた。その上から、地下の松明とは違う明るさが落ちてくる。


 昼の光だ。


 ヴェラが前を行く救助班の灯りへ視線を向けた。


「ハルト様は、助かるでしょうか」


「……分かりません。かなり血を失っていますから」


「そうですか」


 ヴェラは石段の先へ視線を戻した。


「助かると、よいですね」


「……そうですね」


 俺も前を行く担架へ意識を向ける。弱い反復が返る。一度。少し間が空いて、また一度。


 まだ途切れてはいなかった。


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