第59話 動く前
曲がり角の奥は暗いままだった。爪が石を掻くような音も、さっきの一度きりで止まっている。ヴェラは丸盾を曲がり角へ向けたまま動かない。エルザも松明を少し下げ、俺の剣とぶつからない位置へ寄せている。
俺は壁へ触れないように鞘を引き、剣を抜いた。
右前にはヴェラ。後ろにはエルザ。自分の内側にも一つ。
ここまで一緒に動いてきた三つの反復は変わらない。その外に、曲がり角の向こうのもう一つが残っている。一度。戻る。
また一度。姿は見えない。不意に、その反復が強く縮んだ。
「来ます」
ヴェラの盾が前へ出る。俺も剣先を上げた。
けれど、何も飛び出してこなかった。カリ、と石へ爪が食い込む音だけが聞こえる。
「……まだですか?」
エルザの声が後ろから届いた。
「あれ? ……すみません」
曲がり角の向こうの反復は残っている。さっきより強くなった。
それだけだ。
「何か変わったので、動くと思いました」
「今は?」
ヴェラが盾を少し引いた。
「まだ向こうです」
「承知いたしました」
俺は剣を握り直す。分かったと思った途端に外した。見えない場所にいることは分かる。何かが変わったことも分かる。
でも、それが何をするための変化なのかまでは分からない。先に決めつけない方がいい。松明が小さく爆ぜた。俺は曲がり角の向こうへ意識を向ける。
反復が一度、低く沈んだ。続いて、奥からこちらへ寄るような感触が重なる。今度は声を出す前に一瞬待った。また沈む。
「低い位置です。……来ます!」
次の瞬間、灰褐色の影が曲がり角から滑り出した。狐ほどの大きさ。土色の短い毛。太い前脚の先に、石を削りそうな爪が並んでいる。
マッドクローだった。
「受けます!」
ヴェラが盾を前へ出した。マッドクローが低い姿勢のまま突っ込む。ガッ、と爪が盾へ当たった。ヴェラは真正面から押し返さず、盾を外へ傾けた。
マッドクローの頭が盾の表面を滑る。そのまま壁側へ逸れるはずだった。
だが、前脚の爪が盾の縁へ引っかかった。
「くっ」
盾が引かれ、ヴェラの肩が岩壁へ当たる。俺は剣を突き出しかけていた。
けれど、盾が落ちたせいで、その前へヴェラの腕が入る。止める。剣を引き、柄頭をマッドクローの鼻先へ叩き込んだ。鈍い音が返った。
マッドクローが鳴き、盾へ掛かっていた爪が外れる。
「大丈夫ですか!?」
「はい!」
ヴェラが盾を立て直した。
「右側、このまま押さえます!」
「お願いします!」
ヴェラは短槍を低く出し、マッドクローを壁側へ寄せる。獣が抜けようと頭を振るたび、盾が進路へ入った。俺も剣を大きく引かず、空いたところへ短く差し込む。
刃が肩口へ入った。マッドクローの前脚が崩れる。その時。頭上で石を擦る音が重なった。
さっきまで一つだと思っていた反復の横に、もう一つある。
「もう一体! 上!」
見上げるより早く、影が壁の高いところから飛び出した。俺たちの上を越える。
「エルザさん!」
「見えてます!」
エルザが松明を壁側へ寄せる。空いた右手には短剣。二体目のマッドクローが着地した勢いのまま、エルザへ爪を振るった。エルザは後ろへ逃げ切ろうとせず、身体だけを横へずらした。
爪が外套の前を掠める。短剣がマッドクローの前脚の内側へ入った。深くはない。それでも獣の足が一瞬止まる。
「こっちは私が見ます!」
松明を持ったまま、エルザがマッドクローとの間を保つ。俺は一体目と二体目の位置を確かめた。ヴェラは右側で一体目を壁際から出していない。二体目は後ろ。
さっきまでの並びはもう崩れている。
「ノワール様、こちらは保持します!」
ヴェラの声が飛ぶ。
「分かりました!」
二体目へ向き直る。エルザが横へ動いた。二体目との間が空く。マッドクローが低く唸る。
俺は剣を身体の近くへ引いた。横には振れない。大きく踏み込めばエルザの松明へ近づきすぎる。
獣の反復が強まる。さっきと同じなら――。そこで止めた。
同じ変化でも、同じ動きとは限らない。
マッドクローは前脚へ力を入れたまま、こちらを見ている。まだ動かない。エルザも短剣を構えたまま待っている。
「まだです」
「はい」
反復が沈んだ。身体が低くなる。その直後、位置が前へ寄った。
「エルザさん、左へ」
「はい」
エルザが壁際へ抜ける。
「来ます!」
マッドクローが地面を蹴った。俺は正面から受けず、身体を横へずらす。すれ違うところへ剣先を短く入れた。刃が胸元へ当たる。
深く押し込まず、すぐに抜く。マッドクローは止まれず、そのまま壁へ肩をぶつけた。
エルザが追う。短剣が後ろ脚の付け根へ入った。獣の身体が傾く。
俺はもう一度、首の下へ剣を差し込んだ。マッドクローが床へ崩れる。
「右、終わります!」
ヴェラの声。振り向く。一体目が盾と壁の間でもがいていた。ヴェラが盾を少しずらす。
開いたところへ短槍が入る。首の付け根。マッドクローの身体が大きく震え、それから動かなくなった。俺はすぐには剣を下ろさなかった。
右前にヴェラ。後ろにエルザ。自分の内側にも一つ。
三人分は残っている。
曲がり角の先へ意識を向ける。頭上。後ろ。
それ以外の反復はない。
「エルザさん、周囲は?」
エルザが松明を上げる。
「前方と天井、見える範囲にはいません」
「ヴェラさん」
「右側と後方、異常ありません」
そこでようやく息を吐いた。
◆
「怪我は?」
「ありません」
エルザが外套の前を確認する。爪は布へ届いていなかった。
「ヴェラさんは?」
「肩を壁へ当てましたが、問題ありません」
盾の縁には新しい傷が増えている。爪が掛かった場所だ。ヴェラが丸盾を返し、握り革も確かめる。
「固定にも問題ありません」
「よかったです」
俺も手首を回す。柄頭を叩き込んだ時の痺れが少し残っているだけで、動きに問題はない。エルザが俺の方を見た。
「さっきの反応、違いましたね」
「違いました」
「最初は『来ます』で、来なかった」
「はい」
「そのあと、同じように変わっても、すぐには動かなかった」
俺は倒れたマッドクローを見る。
「何かが変わったことは分かるみたいです。でも、それが何をするためなのかは分かりません」
「二回目は?」
「低くなる感じのあと、こっちへ位置が寄りました。そこで来ると思いました」
説明しながら、自分でも曖昧だと思う。
「それと、もう一つ間違えました」
エルザが待つ。
「最初、一体だと思ってました」
二人の視線が倒れたマッドクローへ向いた。
「二体いたことですか?」
「はい。上にいた方が動くまで、別だと分かりませんでした」
「近くにいたからでしょうか」
「それも分かりません」
分かることが増えた分、分からないところも増えた。エルザは手帳を開いた。
「最初の変化では動作なし。その後、低い位置への変化と接近を確認。二体を一体と誤認」
そこまで書いて、こちらを見る。
「これくらいで良いですか?」
「お願いします」
ヴェラが盾を見ながら言った。
「あの……聞いても良いでしょうか?」
「どうしました?」
「ノワール様は、魔獣の何かを察知できるスキルがあるんですか?」
あ。
「そうですよね。そこ、話してませんでしたね」
剣についた血を布で拭う。
「スキルではないです。たぶん、水魔法の感覚に近いと思います」
「水魔法ですか?」
エルザが首を傾げる。
「地下に入ってから、ヴェラさんとエルザさんがいる場所も、何となく分かるようになっていて」
二人が顔を見合わせた。
「私たちも、ですか?」
「はい。ずっとです」
ヴェラが自分の胸元へ目を落とす。
「何を感じているのでしょう」
「拍動に近い気はします。でも、はっきりとは」
湿った壁へ目を向ける。
「地下は水気が多いので、地上より水魔法の感覚が広がっているのかもしれません」
自分で言ってみても、確信はない。《授かり》かもしれない、という考えも消えてはいなかった。
あるいは両方の効果によるものか。
そもそも、どれも確かめられたわけではない。
「何かがいることと、動く前に何かが変わることは感じられるみたいです。ただ、今みたいに外します」
エルザは何やら考え込んでいる。
「分かりました」
ヴェラはそれ以上聞かなかった。
「それでも、最初に構える時間は取れました」
「外しましたけどね」
「外れたと分かってから、次は待てました」
俺は返事の代わりに剣を鞘へ戻した。まだ、使えると言えるほど分かってはいない。
「続けられますか?」
ヴェラが先に頷いた。
「問題ありません」
「私も大丈夫です」
エルザも答える。
「なら、第二道標まで行きましょう。そこで一度止まります」
「はい」
「承知いたしました」
◆
二体のマッドクローの死骸を避け、曲がり角の先へ進む。さっきまで姿が見えなかった場所には、爪で削られた跡がいくつも残っていた。壁の一部は、浅い段のように欠けている。
「ここを使って上にいたんですね」
エルザが松明を向ける。
「さっきの二体目ですね」
「はい」
俺は上を見た。灯りが届く範囲にも、岩の出っ張りはいくつもある。今度は足元だけでなく、頭上にも目を向けながら歩き出した。エルザが手帳を開き、曲がり角の位置とマッドクロー二体、それから壁の爪痕を書き込んだ。
先へ進み始めて、しばらくしたところだった。三人分とは別の反復が、前方に触れた。
「待ってください」
二人が足を止める。反復は一つ。こちらへ近づいている。直後、前方から足音が聞こえた。
速い。
一人分。
「誰か来ます」
ヴェラが丸盾を上げた。俺たちは通路の端へ寄る。松明の光の向こうから、一人の男が走ってきた。肩で息をしている。
服の袖と片手に、血がついていた。
「すみません、通してください!」
男が声を上げた。
「怪我ですか?」
「俺じゃない!」
足を止めた男が、荒い息のまま来た道を振り返る。
「仲間がやられた。第二道標の先だ」
「動けますか?」
「無理だ。脚をやられてる。俺一人じゃ運べない」
男が血のついた手を握った。
「入口へ助けを呼びに行く」
ヴェラが道を空けたまま聞く。
「場所は分かりますか?」
「道沿いに白墨を残した。ハルトっていう」
男は一度こちらを見た。
「……頼む、もし見つけたら」
そこで言葉を切った。すぐに首を振る。
「いや。俺が入口へ行く。救助を呼んでくる」
「分かりました」
俺たちはさらに壁際へ寄った。
「俺はミックだ」
男はそれだけ言うと、来た道を走っていった。三人分とは別の反復も、足音と一緒に遠ざかっていく。俺は暗い通路の先を見る。
「第二道標の先でしたね」
「はい」
ヴェラも先を見る。
「救助の方が来るまで、一人になる時間は短い方が良いと思います」
「俺もそう思います。まず状態を見に行きましょう」
「はい」
「承知いたしました」
俺たちは先へ進んだ。歩調が自然と速くなる。それでも足元は飛ばさない。しばらくすると、第二道標が見えた。
第一道標と同じ鉄杭。脇には打刻具。
「札だけ入れましょう」
俺たちは順番に木札を差し込んだ。取っ手を押すたび、硬い音が通路へ響く。札の端には二つ目の印が増えた。道標自体は傾いていない。
ただ、横の白墨印が爪痕で大きく削られていた。
「補修が必要ですね」
エルザが言う。
「帰りにできる状態ならやりましょう。今は先へ行きます」
「はい」
エルザは削れた位置だけ手帳へ書き留め、すぐに閉じた。
「行きましょう」
道標の先へ向き直る。本当なら、もっと急ぎたい。
ただ、その先に何がいるのかも分からない。
こっちまで動けなくなれば意味がない。ヴェラが前へ出る。俺はその後ろへ続いた。
その時。三人分とは別に、弱い反復が触れた。さっきのマッドクローより弱い。一度途切れたように感じて、また返ってくる。
「待ってください」
二人がすぐに止まった。俺は道標の先を見る。
松明の光が届くぎりぎりのところ。石畳の端に、細い黒い筋があった。エルザが松明を近づける。
黒く見えた筋の端には、まだ赤みが残っていた。
「……血です」
ミックが言っていた負傷者。ヴェラが盾を上げる。
「この先ですね」
「はい」
弱い反復は、暗がりの向こうでまだ途切れていなかった。




