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明日も、ダンジョンへ。  作者: 為書結依
第三章 自分たちの歩幅

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第59話 動く前


 曲がり角の奥は暗いままだった。爪が石を掻くような音も、さっきの一度きりで止まっている。ヴェラは丸盾を曲がり角へ向けたまま動かない。エルザも松明を少し下げ、俺の剣とぶつからない位置へ寄せている。


 俺は壁へ触れないように鞘を引き、剣を抜いた。


 右前にはヴェラ。後ろにはエルザ。自分の内側にも一つ。


 ここまで一緒に動いてきた三つの反復は変わらない。その外に、曲がり角の向こうのもう一つが残っている。一度。戻る。


 また一度。姿は見えない。不意に、その反復が強く縮んだ。


「来ます」


 ヴェラの盾が前へ出る。俺も剣先を上げた。


 けれど、何も飛び出してこなかった。カリ、と石へ爪が食い込む音だけが聞こえる。


「……まだですか?」


 エルザの声が後ろから届いた。


「あれ? ……すみません」


 曲がり角の向こうの反復は残っている。さっきより強くなった。


 それだけだ。


「何か変わったので、動くと思いました」


「今は?」


 ヴェラが盾を少し引いた。


「まだ向こうです」


「承知いたしました」


 俺は剣を握り直す。分かったと思った途端に外した。見えない場所にいることは分かる。何かが変わったことも分かる。


 でも、それが何をするための変化なのかまでは分からない。先に決めつけない方がいい。松明が小さく爆ぜた。俺は曲がり角の向こうへ意識を向ける。


 反復が一度、低く沈んだ。続いて、奥からこちらへ寄るような感触が重なる。今度は声を出す前に一瞬待った。また沈む。


「低い位置です。……来ます!」


 次の瞬間、灰褐色の影が曲がり角から滑り出した。狐ほどの大きさ。土色の短い毛。太い前脚の先に、石を削りそうな爪が並んでいる。


 マッドクローだった。


「受けます!」


 ヴェラが盾を前へ出した。マッドクローが低い姿勢のまま突っ込む。ガッ、と爪が盾へ当たった。ヴェラは真正面から押し返さず、盾を外へ傾けた。


 マッドクローの頭が盾の表面を滑る。そのまま壁側へ逸れるはずだった。


 だが、前脚の爪が盾の縁へ引っかかった。


「くっ」


 盾が引かれ、ヴェラの肩が岩壁へ当たる。俺は剣を突き出しかけていた。


 けれど、盾が落ちたせいで、その前へヴェラの腕が入る。止める。剣を引き、柄頭をマッドクローの鼻先へ叩き込んだ。鈍い音が返った。


 マッドクローが鳴き、盾へ掛かっていた爪が外れる。


「大丈夫ですか!?」


「はい!」


 ヴェラが盾を立て直した。


「右側、このまま押さえます!」


「お願いします!」


 ヴェラは短槍を低く出し、マッドクローを壁側へ寄せる。獣が抜けようと頭を振るたび、盾が進路へ入った。俺も剣を大きく引かず、空いたところへ短く差し込む。


 刃が肩口へ入った。マッドクローの前脚が崩れる。その時。頭上で石を擦る音が重なった。


 さっきまで一つだと思っていた反復の横に、もう一つある。


「もう一体! 上!」


 見上げるより早く、影が壁の高いところから飛び出した。俺たちの上を越える。


「エルザさん!」


「見えてます!」


 エルザが松明を壁側へ寄せる。空いた右手には短剣。二体目のマッドクローが着地した勢いのまま、エルザへ爪を振るった。エルザは後ろへ逃げ切ろうとせず、身体だけを横へずらした。


 爪が外套の前を掠める。短剣がマッドクローの前脚の内側へ入った。深くはない。それでも獣の足が一瞬止まる。


「こっちは私が見ます!」


 松明を持ったまま、エルザがマッドクローとの間を保つ。俺は一体目と二体目の位置を確かめた。ヴェラは右側で一体目を壁際から出していない。二体目は後ろ。


 さっきまでの並びはもう崩れている。


「ノワール様、こちらは保持します!」


 ヴェラの声が飛ぶ。


「分かりました!」


 二体目へ向き直る。エルザが横へ動いた。二体目との間が空く。マッドクローが低く唸る。


 俺は剣を身体の近くへ引いた。横には振れない。大きく踏み込めばエルザの松明へ近づきすぎる。


 獣の反復が強まる。さっきと同じなら――。そこで止めた。


 同じ変化でも、同じ動きとは限らない。


 マッドクローは前脚へ力を入れたまま、こちらを見ている。まだ動かない。エルザも短剣を構えたまま待っている。


「まだです」


「はい」


 反復が沈んだ。身体が低くなる。その直後、位置が前へ寄った。


「エルザさん、左へ」


「はい」


 エルザが壁際へ抜ける。


「来ます!」


 マッドクローが地面を蹴った。俺は正面から受けず、身体を横へずらす。すれ違うところへ剣先を短く入れた。刃が胸元へ当たる。


 深く押し込まず、すぐに抜く。マッドクローは止まれず、そのまま壁へ肩をぶつけた。


 エルザが追う。短剣が後ろ脚の付け根へ入った。獣の身体が傾く。


 俺はもう一度、首の下へ剣を差し込んだ。マッドクローが床へ崩れる。


「右、終わります!」


 ヴェラの声。振り向く。一体目が盾と壁の間でもがいていた。ヴェラが盾を少しずらす。


 開いたところへ短槍が入る。首の付け根。マッドクローの身体が大きく震え、それから動かなくなった。俺はすぐには剣を下ろさなかった。


 右前にヴェラ。後ろにエルザ。自分の内側にも一つ。


 三人分は残っている。


 曲がり角の先へ意識を向ける。頭上。後ろ。


 それ以外の反復はない。


「エルザさん、周囲は?」


 エルザが松明を上げる。


「前方と天井、見える範囲にはいません」


「ヴェラさん」


「右側と後方、異常ありません」


 そこでようやく息を吐いた。


◆


「怪我は?」


「ありません」


 エルザが外套の前を確認する。爪は布へ届いていなかった。


「ヴェラさんは?」


「肩を壁へ当てましたが、問題ありません」


 盾の縁には新しい傷が増えている。爪が掛かった場所だ。ヴェラが丸盾を返し、握り革も確かめる。


「固定にも問題ありません」


「よかったです」


 俺も手首を回す。柄頭を叩き込んだ時の痺れが少し残っているだけで、動きに問題はない。エルザが俺の方を見た。


「さっきの反応、違いましたね」


「違いました」


「最初は『来ます』で、来なかった」


「はい」


「そのあと、同じように変わっても、すぐには動かなかった」


 俺は倒れたマッドクローを見る。


「何かが変わったことは分かるみたいです。でも、それが何をするためなのかは分かりません」


「二回目は?」


「低くなる感じのあと、こっちへ位置が寄りました。そこで来ると思いました」


 説明しながら、自分でも曖昧だと思う。


「それと、もう一つ間違えました」


 エルザが待つ。


「最初、一体だと思ってました」


 二人の視線が倒れたマッドクローへ向いた。


「二体いたことですか?」


「はい。上にいた方が動くまで、別だと分かりませんでした」


「近くにいたからでしょうか」


「それも分かりません」


 分かることが増えた分、分からないところも増えた。エルザは手帳を開いた。


「最初の変化では動作なし。その後、低い位置への変化と接近を確認。二体を一体と誤認」


 そこまで書いて、こちらを見る。


「これくらいで良いですか?」


「お願いします」


 ヴェラが盾を見ながら言った。


「あの……聞いても良いでしょうか?」


「どうしました?」


「ノワール様は、魔獣の何かを察知できるスキルがあるんですか?」


 あ。


「そうですよね。そこ、話してませんでしたね」


 剣についた血を布で拭う。


「スキルではないです。たぶん、水魔法の感覚に近いと思います」


「水魔法ですか?」


 エルザが首を傾げる。


「地下に入ってから、ヴェラさんとエルザさんがいる場所も、何となく分かるようになっていて」


 二人が顔を見合わせた。


「私たちも、ですか?」


「はい。ずっとです」


 ヴェラが自分の胸元へ目を落とす。


「何を感じているのでしょう」


「拍動に近い気はします。でも、はっきりとは」


 湿った壁へ目を向ける。


「地下は水気が多いので、地上より水魔法の感覚が広がっているのかもしれません」


 自分で言ってみても、確信はない。《授かり》かもしれない、という考えも消えてはいなかった。


 あるいは両方の効果によるものか。


 そもそも、どれも確かめられたわけではない。


「何かがいることと、動く前に何かが変わることは感じられるみたいです。ただ、今みたいに外します」


 エルザは何やら考え込んでいる。


「分かりました」


 ヴェラはそれ以上聞かなかった。


「それでも、最初に構える時間は取れました」


「外しましたけどね」


「外れたと分かってから、次は待てました」


 俺は返事の代わりに剣を鞘へ戻した。まだ、使えると言えるほど分かってはいない。


「続けられますか?」


 ヴェラが先に頷いた。


「問題ありません」


「私も大丈夫です」


 エルザも答える。


「なら、第二道標まで行きましょう。そこで一度止まります」


「はい」


「承知いたしました」


◆


 二体のマッドクローの死骸を避け、曲がり角の先へ進む。さっきまで姿が見えなかった場所には、爪で削られた跡がいくつも残っていた。壁の一部は、浅い段のように欠けている。


「ここを使って上にいたんですね」


 エルザが松明を向ける。


「さっきの二体目ですね」


「はい」


 俺は上を見た。灯りが届く範囲にも、岩の出っ張りはいくつもある。今度は足元だけでなく、頭上にも目を向けながら歩き出した。エルザが手帳を開き、曲がり角の位置とマッドクロー二体、それから壁の爪痕を書き込んだ。


 先へ進み始めて、しばらくしたところだった。三人分とは別の反復が、前方に触れた。


「待ってください」


 二人が足を止める。反復は一つ。こちらへ近づいている。直後、前方から足音が聞こえた。


 速い。


 一人分。


「誰か来ます」


 ヴェラが丸盾を上げた。俺たちは通路の端へ寄る。松明の光の向こうから、一人の男が走ってきた。肩で息をしている。


 服の袖と片手に、血がついていた。


「すみません、通してください!」


 男が声を上げた。


「怪我ですか?」


「俺じゃない!」


 足を止めた男が、荒い息のまま来た道を振り返る。


「仲間がやられた。第二道標の先だ」


「動けますか?」


「無理だ。脚をやられてる。俺一人じゃ運べない」


 男が血のついた手を握った。


「入口へ助けを呼びに行く」


 ヴェラが道を空けたまま聞く。


「場所は分かりますか?」


「道沿いに白墨を残した。ハルトっていう」


 男は一度こちらを見た。


「……頼む、もし見つけたら」


 そこで言葉を切った。すぐに首を振る。


「いや。俺が入口へ行く。救助を呼んでくる」


「分かりました」


 俺たちはさらに壁際へ寄った。


「俺はミックだ」


 男はそれだけ言うと、来た道を走っていった。三人分とは別の反復も、足音と一緒に遠ざかっていく。俺は暗い通路の先を見る。


「第二道標の先でしたね」


「はい」


 ヴェラも先を見る。


「救助の方が来るまで、一人になる時間は短い方が良いと思います」


「俺もそう思います。まず状態を見に行きましょう」


「はい」


「承知いたしました」


 俺たちは先へ進んだ。歩調が自然と速くなる。それでも足元は飛ばさない。しばらくすると、第二道標が見えた。


 第一道標と同じ鉄杭。脇には打刻具。


「札だけ入れましょう」


 俺たちは順番に木札を差し込んだ。取っ手を押すたび、硬い音が通路へ響く。札の端には二つ目の印が増えた。道標自体は傾いていない。


 ただ、横の白墨印が爪痕で大きく削られていた。


「補修が必要ですね」


 エルザが言う。


「帰りにできる状態ならやりましょう。今は先へ行きます」


「はい」


 エルザは削れた位置だけ手帳へ書き留め、すぐに閉じた。


「行きましょう」


 道標の先へ向き直る。本当なら、もっと急ぎたい。


 ただ、その先に何がいるのかも分からない。


 こっちまで動けなくなれば意味がない。ヴェラが前へ出る。俺はその後ろへ続いた。


 その時。三人分とは別に、弱い反復が触れた。さっきのマッドクローより弱い。一度途切れたように感じて、また返ってくる。


「待ってください」


 二人がすぐに止まった。俺は道標の先を見る。


 松明の光が届くぎりぎりのところ。石畳の端に、細い黒い筋があった。エルザが松明を近づける。


 黒く見えた筋の端には、まだ赤みが残っていた。


「……血です」


 ミックが言っていた負傷者。ヴェラが盾を上げる。


「この先ですね」


「はい」


 弱い反復は、暗がりの向こうでまだ途切れていなかった。


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