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明日も、ダンジョンへ。  作者: 為書結依
第三章 自分たちの歩幅

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第58話 最初の灯り


 翌朝。


 冒険者ギルドへ向かう途中で、念のため二人にも確認した。


「二人とも、ダンジョンは今日が初めてで合ってますよね?」


「はい。初めてです」


「私も初めてです」


 俺もない。三人揃って、今日が初めてだった。


◆


 冒険者ギルドへ入ると、朝の受付にはまだ数人並んでいた。俺たちは列の最後へつき、順番が来るとミラが昨日見せてくれた依頼簿を開いた。


「浅い区画の確認依頼でしたね」


「はい。三人ともダンジョンは初めてなので、深く入らないものをお願いします」


「でしたら、これが一番合うと思います」


 差し出された紙には、〈灰石の口〉第一層・浅層巡回路確認、と書かれていた。依頼内容は、三か所の道標を確認し、薄くなった白墨印があれば引き直すこと。指定された灰苔を少量だけ採取し、新しい崩落や魔物の痕跡があれば記録して帰ることだった。


「どうしますか?」


 俺は二人を見る。エルザは依頼票をもう一度読んでから頷いた。


「初めてなら、これくらいが良いと思います。私も賛成です」


 ヴェラも紙へ目を落とす。


「私も、この依頼を受けたいです」


「俺も賛成です」


 ミラへ向き直る。


「では、これをお願いします」


「分かりました。では条件を確認しますね」


 ミラが紙の下を指す。


「討伐依頼ではありません。魔物に遭遇する可能性はありますが、見つけたからといって追う必要はありません。巡回路から外れないこと。第二層へ下りないこと。予定時刻までに入口へ戻ること。この三つが条件です」


「分かりました」


「灰苔も必要量だけで構いません。多く持ち帰っても報酬は増えません」


 エルザが手帳を開いた。


「道標は三か所。白墨の補修。灰苔は指定量。異常痕跡は記録のみ」


「はい」


 ミラは一度、俺たち三人を見た。


「三か所とも回れなくても、無理はしないでください。確認できなかった場所は、そのまま報告してください。三人揃って時間内に戻ることを優先してください」


「分かりました」


 受諾票へ署名すると、ヴェラが横から紙を確認した。


「帰還予定は、どの程度に設定いたしますか?」


「余裕を見て、夕前の鐘が鳴る前には入口へ戻る予定にしましょう」


「賛成です。右脚についても、その方が余裕があります」


 エルザが手帳へ時刻を書き込む。


「誰か一人でも継続が難しいと判断した場合は、その時点で戻る、でよろしいですか?」


「そうしましょう」


「承知いたしました」


 ヴェラも頷いた。


「長く走る必要が生じた場合、方向転換が続く地形に入る場合、それから足場が想定より悪い場合は、早めに申告いたします」


「お願いします」


 俺にも、戻る理由はいくらでもある。身体の調子に違和感が出る。剣を安全に使えない。暗さに慣れない。


 何か一つでも、続ける理由より大きければ戻る。初めての場所なら、分からないことはいくらでも出てくる。全部を一日で確かめる必要はない。


◆


 ギルドを出たあと、道具屋へ寄った。松明と予備油、火口箱、麻縄、白墨、簡易包帯。先日補充した予備布に小型の掛け鉤、灰苔用の採取袋、それからギルドでもらった第一層巡回路の簡略地図。一つずつ卓へ並べ、三人で持つ物を分けていく。


「主灯りは私が持ちます」


 エルザが松明を一本取った。


「予備を一つ。油も持ちます」


「一人で全部は持たないでくださいね」


「分かっています」


 エルザが油の小瓶を一つ俺の方へ押した。俺は水筒、簡易包帯、白墨、予備の火口箱、地図の写しに加え、予備の松明一本と油を持つ。ヴェラには予備の松明と縄、小型の掛け鉤。三人分の保存食も、それぞれの荷袋へ分けた。


「重くないですか?」


「この程度であれば問題ありません」


 ヴェラが荷袋を肩へかけ、一度歩いた。それから右脚の革帯を締め直す。


「ただ、縄をもう少し短くまとめていただけますか。歩く時に盾の後ろへ触れます」


「分かりました」


 俺が結び直した。水筒は三人とも持つ。火を起こす道具も一つだけにはしない。灯りが一本消えただけで帰れなくなるような持ち方は避ける。


 準備が終わる頃には、卓の上に残っていた物もなくなっていた。


「これで大丈夫そうですね」


 エルザが荷袋の紐を引く。


「行きましょうか」


 俺たちは北東門へ向かった。


◆


 王都の外へ出て街道を進むにつれ、建物が減り、左右へ草地と低い岩場が広がっていった。背負い袋の中では、火口箱が歩調に合わせて小さく鳴る。油の匂いも、今日はいつもより近く感じた。剣帯の重さは変わらないはずなのに、妙に意識へ引っかかる。


 しばらく歩くと、前方に灰色の岩盤が見えてきた。山肌が縦に割れたような裂け目の中央に、人工的に整えられた石段と古い鉄枠がある。


「あれですか」


 俺は地図の写しを開いた。位置は合っている。ダンジョン。冒険者になるなら、いつか入る場所。


 この世界に来た頃は、一人で入るものだと思っていた。その場所が、ようやく目の前にある。横にはエルザがいて、その隣にはヴェラがいる。一人で来る場所とは、もう思っていなかった。


 三人で入り、三人で出る場所。もっと高揚するかと思っていた。実際に近づくと、先に気になったのは入口から吹き出す冷たい風だった。湿った石と古い煤の匂いが混じり、帰ってきたばかりらしい冒険者の靴には灰色の泥が厚くついている。


 入口脇には木造の小屋があり、厚い台帳を広げた男が座っていた。四十代くらいだろうか。左腕には短い鎖を巻いている。俺たちが近づくと、男は受諾票を見てから顔を上げた。


「〈コンパス〉か」


「はい」


「《鉄鎖の盟約》のガイルだ。ここの出入りを見てる」


 受諾票を渡す。ガイルは依頼名と人数を確認した。


「三人。第一層巡回路。初回か?」


「はい」


「灯り」


 エルザが答える。


「主松明一本、予備三本。油は二つに分けています。火口箱も二つです」


「縄」


「一束です。私が所持しております」


 今度はヴェラが答えた。


「水は?」


「各自一つずつです」


 ガイルの視線が、ヴェラの右脚の革帯へ落ちる。


「その脚は?」


「古い障害があります。現在は装具を使用しています」


「分かった」


 それだけだった。


 それ以上は聞かなかった。


「帰還予定」


「夕前の鐘が鳴る前には、入口へ戻る予定です」


 ガイルが台帳へ書き込む。


「予定を越えて戻らなければ捜索を出す。助けには入るが、費用はかかる」


「承知しました」


「第一層でも魔物は出る。道標が消えてたら、その先へ行くな。崩れてたら戻れ。初回なら、巡回路を一周できなくても構わん」


 ガイルは入口の方を顎で示した。


「第一道標の手前に退避所がある。予備の油と火種を置いてある。使ったら帰りに言え」


「分かりました」


 ガイルは木製の札を三枚取り出した。


「これを持っていけ。戻ったら返せ」


 俺たちは一枚ずつ受け取る。札には番号と、入口の印が焼きつけられていた。


「道標には打刻具が付いてる。着いたら札を差して、印を入れてこい」


「三か所ともですか?」


「ああ。帰ってきたら俺が見る。どこまで行ったかは、それで分かる」


 ガイルが自分の指で札の端を叩いた。


「灰苔は現物。白墨と崩れ、魔物の跡は記録と報告だ。全部を口だけで済ませる依頼じゃない」


「分かりました」


 腰帯へ札を結ぶ。石段の先から、冷たい風がまた吹いた。


◆


 入口の前で、最後に荷物を確かめた。エルザの懐中時計で時刻を確認する。


「深部へ行かない。道標が切れていたら戻る。時間を守る」


「はい」


「誰か一人でも続けるのが難しいと判断したら、そこで終わりです」


「承知いたしました」


 エルザが主松明を持ち上げる。


「火をつけます」


 火口箱から火花が飛ぶ。二度目で油を含んだ布へ火が移り、橙色の炎と細い煙が立った。リンがエルザの髪際から少し離れ、炎の方へ移動する。


「熱いですから、近づかないでくださいね」


 ちりん。


「何て?」


「『しってる』」


「なら安心です」


 ちりん。


 エルザが微妙な顔をしたが、何も言わなかった。


「行きましょう」


 石段へ足をかける。最初の数段には、まだ外の光が届いていた。一段、また一段と下りるほど空気が冷え、壁の湿りが松明の光を鈍く返す。靴音が石へ当たり、少し遅れて戻ってきた。


 背後から聞こえていた外の風も、人の声も、数段ごとに遠くなる。


 いつもより、周りが気になった。暗い。音は壁から返る。


 曲がり角の先も、松明が届かなければ見えない。何がいるか分からない場所を歩いているせいか、自然と前後へ意識が向いていた。しばらく下りたところで、足元から日光が消えた。一度、振り返る。


 入口はまだ見える。灰色の岩の間に、明るい四角が浮かんでいた。


 けれど、その光はもう俺たちの足元へ届いていない。前を向いた時、妙な感覚があった。右前。一定の間隔で、押して戻るような感触。


 ヴェラがいる場所だった。何だ?少し意識を後ろへ向ける。もう一つある。


 エルザ。自分の内側にも、似たような反復がある。ヴェラが一歩進む。右前の感覚も一緒に動いた。


 後ろでエルザの靴音が止まると、もう一つもその場所で止まった。前にも似たものはあった。ドランへ触れる前に拍動が分かった時。自分の身体の流れを、水魔法の感覚だと思った時。


 壁へ目を向ける。湿っている。足元にも細い水の筋が流れていた。地下では、水魔法の感覚が地上より広がるのかもしれない。


「ノワールさん?」


 エルザの声が後ろからした。


「すみません。少し気になることがあって」


「何かありましたか?」


「まだ分かりません。歩きながら確かめます」


「分かりました」


 今見えるのは、エルザの松明が照らしている範囲だけだった。濡れた石壁と、天井から落ちる水滴。足元には緑黒い苔が付き、古い靴跡が奥へ続いている。その先は黒い。


「思っていたより、音が近いですね」


 ヴェラが短槍の位置を直した。小さな声でも壁から返ってくる。


「後ろから聞こえるようにも感じます」


 エルザが松明を少し動かすと、壁に伸びた影も一緒に揺れた。


「急がず進んで、まずは慣れましょう」


 俺は剣の柄へ手を置いたまま歩き出した。夜勤中、消灯後の病棟を歩いた時にも暗さはあった。でも、あそこでは扉の向こうに誰がいるか分かっていた。


 ここでは、何がいるかも分からない。


 同じ暗さではなかった。


 それでも、右前と後ろの反復は消えなかった。


◆


 最初のうちは、地図と実際の道を合わせるだけで時間がかかった。地図の写しを開く。


「次は右へ緩く曲がるはずです」


 実際の通路も、少し先で右へ曲がっていた。壁には薄い白墨線が残り、足元には浅い水溜まりがある。岩壁には古い爪痕のような傷も一本あったが、何の跡かまでは分からない。近づかず、その位置だけエルザが記録した。


 右前にはヴェラ。後ろにはエルザ。二つの反復も、俺たちの移動に合わせて位置を変えている。他には感じない。


 だからといって、何もないとは限らない。


 さっき見つけた爪痕も、水溜まりも、この感覚では何も分からなかった。さらに進むと、通路の幅が急に狭くなった。ヴェラが地上と同じように右へ位置を開いた瞬間、丸盾の縁が岩壁へ触れた。


 カン、と乾いた音が大きく返る。


 三人とも止まった。


「申し訳ありません」


 ヴェラが盾を少し内側へ寄せる。


「この幅では、地上と同じ位置を取れません」


「俺もですね」


 左へ出ようとすると、肩が壁へ近すぎる。エルザも松明を持ち上げた。


「高くすると天井へ近づきます。低くすると、ノワールさんが剣を抜いた時に邪魔になりそうです」


「一度合わせましょう」


 ヴェラが前の右側へ出て、盾を壁へ平行にせず少し斜めに構えた。俺はその後ろから左へずれ、エルザはさらに後ろで松明を左側へ寄せる。剣を半分だけ抜いてみる。刃が松明の影を横切った。


 横へ大きく振れば壁へ当たるし、上から振り下ろすにも天井が近い。


「ここでは横薙ぎは無理ですね」


「盾の左側なら、突きは通せると思います」


 ヴェラが盾を少し動かした。その横へ剣先を出してみる。壁には当たらない。


「短く使うしかないですね」


「私も、盾を開きすぎないようにします」


 エルザが松明の位置を少し下げる。


「この辺りなら、剣先と重なりません」


 そのまま狭い通路を進んだ。ヴェラの盾が少し開けば俺の肩へ近づき、俺が左へ避ければ壁が近い。後ろのエルザも、歩きながら松明の位置を直していく。地上で合わせた位置が、そのまま使えるわけではなかった。


 通路が少し広がった先で、壁際を板戸で仕切った小さな場所が見えた。


「ガイルさんが言っていた退避所ですね」


 エルザが松明を向ける。戸口の脇には、予備の油と火種が置かれていることを示す札が掛かっていた。


「場所だけ覚えておきましょう」


「はい」


 今のところ使う必要はない。


 入口からここまでの道を一度振り返り、俺たちは先へ進んだ。


◆


 第一道標は、鉄杭と木札の組み合わせだった。木札には入口へ戻る方向と、次の道標までの目印が刻まれている。鉄杭の脇には、手のひらほどの鉄製の打刻具が取りつけられていた。ガイルから受け取った札を差し込む。


 取っ手を押し下げると、硬い音が通路へ響いた。札を抜くと、端に入口のものとは違う小さな印が一つ増えている。エルザとヴェラも順番に打刻した。


「これで、ここまでは来た証明になるんですね」


「そのようです」


 鉄杭は動いていない。ただ、壁の白墨印は半分ほど薄れていた。


「記録します」


 エルザが手帳を開く。ヴェラは前方を向いたまま、短槍の石突きを少し下げた。俺は白墨を取り出し、古い線の上から引き直す。ざらついた岩肌に白い粉が残った。


 それだけの作業なのに、地上で印をつける時より音が大きく聞こえる。


「終わりました」


「こちらも記録しました」


 白墨をしまう。右前と後ろの感覚は、まだある。ここまで歩いても消えていない。湿った場所を離れていないからだろうか。


 もう少し分かるかもしれない。


 道の先へ意識を向ける。右前にはヴェラ。後ろにはエルザ。自分の内側にも一つ。


 さらにその先へ――


「ノワール様」


 短槍の柄が俺の前へ横に入った。


 足を止める。


 つま先のすぐ前で、石畳が一段落ちていた。浅い窪みに水が溜まっている。


「……すみません」


「足元です。ドラン様に叱られてしまいます」


「はい。考え事に気を取られていました」


 ヴェラはそれ以上何も言わず、短槍を戻した。俺は窪みを跨ぐ。後ろのエルザにも位置を伝えた。


「一段あります」


「確認しました」


 三人で越える。感覚は消えていない。


 けれど、足元の段差は何も教えてくれなかった。今度は先を探すより、普通に前を見ることにした。


◆


 第二道標へ向かう途中で、通路が大きく右へ曲がった。曲がり角の先へ松明の光は届かない。白墨線は手前の壁まで続いている。俺たちは速度を落とした。


 ヴェラが盾を少し前へ出し、俺はその後ろへ入る。エルザの松明が左上から角の手前を照らした。


 右前にはヴェラ。後ろにはエルザ。自分の内側にも一つ。


 ここまでずっと一緒に動いてきた三つの反復。


 その時、もう一つに気づいた。俺の足が止まる。後ろでエルザの靴音も止まった。前を歩いていたヴェラがこちらを見る。


 一度、膨らむ。戻る。少し間を置いて、もう一度。俺たち三人とは別だった。


 曲がり角の向こうに、もう一つ残っている。


「少しだけ進みます」


 二人が頷いた。俺たちは、ゆっくり前へ進んだ。右前の反復も、後ろの反復も一緒に動く。


 それでも、もう一つだけは同じ場所に残った。


「待ってください」


 ヴェラは何も聞かず、丸盾を曲がり角へ向けた。エルザも松明を少し低くする。壁際の影が縮んだ。俺は剣の柄を握る。


 角の先には何も見えない。音もない。


 それでも、そこに何かいる。


「この先に、何かいます」


 シャッ。曲がり角の奥で、爪が濡れた石を掻くような音がした。


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