第57話 何の精霊
翌日。冒険者ギルドへ入ると、朝の依頼受け付けはひと段落していた。掲示板の前にはまだ数人残っているが、受付へ並ぶ列は短い。入口が開くたびに朝の光が床へ差し込み、人の出入りに合わせて話し声の位置が変わる。
俺たちは次に入るダンジョンを決めるため、浅い区画の依頼が出ていないか確認しに来ていた。
「浅い場所の確認依頼なら、何件かあります」
受付でミラが依頼簿をめくる。厚い紙が一枚ずつ擦れた。
「ただ、今すぐ決めなくても大丈夫ですよ。初めて入る場所なら、入口の管理状況も一緒に確認した方がいいと思います」
「そうします」
俺が答えると、ミラが依頼簿を閉じかけて手を止めた。
「あ。そういえば」
視線がエルザの髪際へ向く。白い雫のようなリンが、いつもの場所で揺れていた。
「以前お話ししていた精霊の件なんですが」
エルザが顔を上げる。
「精霊と一緒に活動している方ですか?」
「はい。今日ちょうど戻ってきています。向こうも、リンさんを一度見てみたいそうです」
ちりん。
リンが鳴いた。
「今、会えますか?」
「大丈夫です。少し待っていてください」
ミラは席を立ち、奥の通路へ入っていった。俺たちは受付の脇へ寄る。近くの窓口では、別の冒険者が依頼票を畳んで腰袋へしまっていた。
「リン、他の精霊に会うのは初めてですよね」
エルザが髪際へ声をかける。
ちりん。
エルザが少し首を傾げた。
「今のは、ただ鳴いただけみたいです」
「本人も覚えてないんですかね」
ちりん。
今度はエルザが少しだけ口元を緩める。
「『しらない』だそうです」
「それなら仕方ないですね」
ヴェラはリンを見上げてから、受付奥の通路へ目を向けた。ほどなくして、ミラが一人の男を連れて戻ってきた。
三十代くらいだろうか。日に焼けた顔に短い茶髪で、革鎧の上へ濃い灰色の外套を羽織っている。腰には短い杖を差していた。
「こちら、ハインさんです。精霊と一緒に依頼を受けている冒険者の方です」
「ハインだ。よろしく」
「ノワールです。こちらがエルザさんとヴェラさんです」
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いいたします」
挨拶を交わしたところで、ハインの外套の襟元が動いた。
赤橙色の小さな頭が覗く。次に前脚。最後に、細い尾。
狐に似ていた。ただし毛ではない。身体の輪郭そのものが、弱い炎のように揺れている。
大きさは猫より少し小さいくらいだろう。四本の脚と尖った耳があり、金色に近い二つの目がこちらを見ていた。揺れる赤橙色が、ハインの濃い外套の上でよく目立つ。精霊と聞いて想像するなら、むしろこちらの方がしっくりくる。
「こいつはラウ」
ハインが肩を示した。
「俺と契約してる精霊だ」
ラウが短く鳴く。ぱち、と小枝が弾けるような音だった。
俺にはそれ以上の意味は分からない。
ちりん。
今度は澄んだ鈴の音が返る。エルザがリンを見る。
「『ひのせいれい』だそうです」
ハインの眉が少し上がった。
「分かるのか?」
ちりん。
エルザが頷く。
「分かるみたいです」
「その通りだ。ラウは火の精霊だ」
その音を聞いたリンが、エルザの髪から浮かんだ。ラウの耳がぴんと立つ。次の瞬間、ハインの肩から飛び降りた。
床へ着地する。炎のような身体なのに、床板が焦げることはなかった。足音らしい音もほとんどしない。
ラウはリンの真下まで歩き、見上げる。リンも少し高度を下げた。しばらく向かい合う。受付を行き交う人の声が、その横を普通に通り過ぎていく。
ラウが一歩右へ動き、リンの周りを半分ほど回った。鼻先を近づけても、リンは逃げない。ぱち。
「変なやつだと思ってるみたいだな」
ハインが言った。
ちりん。
エルザが瞬きをする。
「……『そっちも』だそうです」
「会ってすぐ喧嘩してません?」
「挨拶だろ」
「そうなんですか?」
「知らん」
「……適当に言ったんですね」
ハインが笑った。ラウはもう一度リンの周りを回り、今度は少し離れて座った。前脚を揃え、尾を身体の横へ巻いている。リンには座る脚がない。
白い雫の輪郭が、ラウの前でふわふわ揺れていた。
「本当に変わった姿だな」
ハインが言う。
「契約はしてないって聞いたけど」
「はい」
エルザが答える。
「召喚したわけでもありません。王都の外で会って、そのままついてきました」
「名前は?」
「最初はありませんでした。王都までついてきたので、そのあと私がつけました」
「リン、と」
「はい」
ハインがラウを見る。
「俺とこいつは契約した時に名前を決めた。まあ、俺とこいつの場合はだけどな」
ぱちぱち。ラウが二度鳴く。
「何て?」
「苦情だな。名前を決めるのが遅かったって、まだ思ってるみたいだ」
「やっぱり精霊の言葉が分かるんですか?」
「言葉が聞こえるわけじゃない。契約してると、何となく何を考えてるか伝わってくるんだ」
「名前を決めるまで俺が悩みすぎた」
「精霊にもそういう不満があるんですね」
「ある。普通に文句言うぞ」
ラウがまた鳴く。赤橙色の尾先が一度だけ揺れた。
「今のも何か分かるんですか?」
「何となくな」
「悪口です?」
「そこまでは言ってない」
エルザがリンを見る。
「リンも何かありますか?」
ちりん。
エルザの口元が止まった。
「……『うるさい』」
「俺ですか?」
ちりん。
「俺なんですね。俺も悪口だけは何となくわかります」
ハインが声を上げて笑った。近くにいた冒険者が一度こちらを見る。ヴェラも口元をわずかに緩めていた。
◆
俺たちはギルドの隅にある空いた卓へ移った。朝の受付から少し離れただけで、周囲の声が遠くなる。使い込まれた木の卓には、細かな傷がいくつも残っていた。ハインの横にはラウ。
エルザの髪際にはリン。最初は二体とも相手を見ていたが、少しするとラウは卓の上へ前脚を乗せ、リンはその頭上をゆっくり回り始めた。ラウの赤橙色とリンの白が、卓の上で何度か交差する。
「ところで」
ハインがリンを見ながら言う。
「契約してないなら、魔力はどうしてる?」
「魔力ですか?」
エルザが聞き返す。
「俺とラウの場合、こいつが長く出てると少しずつ持っていかれるんだ」
ハインが自分の胸元を軽く叩く。
「朝から晩まで付き合わせれば、結構疲れる。依頼の途中で一度引っ込んでもらうこともある」
「引っ込む?」
「姿を引っ込めて休ませる。俺とラウはそうしてる」
エルザはリンへ目を向けた。リンはラウの尾先へ近づき、揺れる赤橙色の光を見ている。ラウが尾を動かすと、それに合わせて少し位置を変えた。
「私は、リンが一緒にいて疲れたと感じたことはありません」
「ずっと出てるんだよな?」
「はい。寝ている時は髪の近くで休んでいますが」
「じゃあ、どこから取ってるんだ」
「それなんですが」
俺が口を挟む。
「女神像の近くへ行くと、食事みたいなことをするんです」
ハインが俺を見る。
「女神像?」
「円卓の案内所と、大聖堂で確認しました」
エルザが続ける。
「女神像へ近づくと、リンの輪郭が少し明るくなります。しばらくすると戻ってきて、『おなかいっぱい』とか『もういい』と言います」
ハインの眉が上がった。
「……女神像を食うのか?」
ヴェラが力強く頷く。違うぞ。
「食べてはいないと思います」
「像は残っていますので」
俺とエルザの返事が重なった。ハインが一度口を閉じる。ラウが顔を上げて、ぱち、と鳴いた。
「変な奴だとさ」
ちりん。
エルザはリンを見たが、何も言わなかった。リンは気にした様子もなく、ラウの尾先を見ていた。受付の方から、依頼成立を告げる声が聞こえた。誰かが椅子を引き、床を擦る。
ハインは顎へ手をやった。
「少なくとも、俺はそんな補給の仕方は聞いたことないな」
「精霊なら普通にある、というわけではないんですね」
「俺は学者じゃない。地方が違えば知らない精霊もいるだろうし、変わった契約の仕方もあるかもしれない」
ラウの背を指で軽く撫でる。触れられた部分の輪郭が少し揺れた。
「ただ、俺とラウは違う。それだけは言える」
「十分です」
聞きたかったのは、精霊全部の答えではない。リン以外の精霊が、実際にどう暮らしているのかだった。ラウが卓へ上がり、そのまま縁まで歩いた。ハインが指で反対側を示す。
「ラウ。ちょっとそっちへ寄ってくれ」
ぱち。ラウはすぐに向きを変え、示された場所へ移った。
「こういうのは通じるんですね」
「長いからな。契約してるからって何でも言うことを聞くわけじゃないぞ」
「嫌がる時もありますか?」
「あるある。雨の日に外へ出たがらないし、火を使わなくていい依頼だと寝てる時もある」
ぱちぱち。
「今のは?」
「うるさいって感じだな」
「仲良いですね」
「そう見えるか?」
俺はエルザを見る。エルザもこちらを見た。
「試します?」
「何をですか」
「リンにも試しに何か頼んでみます?」
エルザが髪際へ声をかけた。
「リン。ノワールさんのところへ行ってもらえますか?」
ちりん。
リンは動かない。エルザが一度瞬きをした。
「……『いや』」
知ってた。
「やっぱりですか」
「まだ一回しか頼んでいません」
「まあ、結果は知ってましたから」
ヴェラがリンを見る。
「では、私のところへ来てもらえますか?」
ちりん。
リンがふわりと浮かび、ヴェラの肩のあたりまで移動した。白い光が、ヴェラの髪の横で止まる。ハインが目を瞬いた。
「そっちには行くのか」
「ヴェラさんには行くんですね。差別は良くないです」
「契約してる相手でもないんだろ?」
「はい」
ハインはヴェラの肩元にいるリンを見た。
「エルザ以外の言葉も普通に聞くんだな」
「聞くかどうかは、リン次第みたいです」
「なるほど。余計に分からんな」
「来てくださいました」
ヴェラが微笑みながら少しだけ顔をリンへ向ける。
ちりん。
エルザが口元を押さえた。
「何て?」
「……『こっちがいい』」
「理由まで付くんですか」
リンはヴェラの肩の横で、ゆっくり揺れていた。
◆
「精霊同士なら、もう少し分かるかもしれないな」
ハインがラウへ声をかける。
「ラウ。こいつが何なのか分かるか?」
ぱち。ラウが立ち上がった。卓の上を歩き、リンへ近づく。右から一周。左から半周。鼻先を近づける。
耳が何度か動く。リンは相変わらず逃げない。二体の間は、指一本ほどしか空いていない。最後にラウは少し離れ、首を傾げた。
ぱち。ハインが黙った。
「どうです?」
ハインが少し待ってから首を振った。
「分からない、って感じだな」
「精霊なのに?」
「仕方ないだろう。俺に聞かれても困るぞ」
ラウが前脚で卓を一度掻いた。爪らしい音はしなかった。リンがその動きを追うように少し下がる。
「何かもっと言っていますか?」
エルザが聞く。
「いや。分からないだけらしい」
ハインはリンを見上げた。
「逆に聞けばいいんじゃないか」
「リンにですか?」
「自分が何の精霊かくらい、本人なら分かるだろ」
「なるほど」
エルザがリンへ向き直る。
「リン」
ちりん。
「あなたは、何の精霊なんですか?」
ちりん。
エルザが黙った。周囲では誰かが紙束を卓へ置いた音がした。こちらだけ少し間が空く。
「何て?」
「……『リン』」
「名前ではなく種類を聞いているんですが」
ちりん。
エルザがもう一度聞く。
「火とか、水とか、そういうことです」
少し間があった。
ちりん。
「……『リン』だそうです」
ハインが鼻から息を漏らした。
「強いな」
「何がです?」
「答えが一切ぶれない」
「確かに」
◆
しばらくして、ハインが立ち上がった。椅子の脚が床を短く擦る。朝よりギルドの中の人は減っていた。
「そろそろ行く。午後の依頼があるんでな」
「今日はありがとうございました」
「いや。俺も面白かった」
ラウが床へ飛び降りる。リンもヴェラの肩元から離れ、少し低い位置まで降りた。二体が向かい合う。ぱち。
ハインがラウを見る。
「また会いたいみたいだ」
ちりん。
エルザがリンを見た。
「リンも『また』と」
「最初はお互い変だと言ってませんでした?」
「それとこれとは別なんだろ」
ハインが肩をすくめる。ラウは男の外套を駆け上がり、肩へ戻った。赤橙色の尾が襟元へ収まる。リンもふわりと上がり、エルザの髪際へ戻る。
ちりん。
ぱち。最後に二つの音が重なった。少し離れた受付では、次の依頼票が一枚めくられていた。




