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明日も、ダンジョンへ。  作者: 為書結依
第三章 自分たちの歩幅

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第57話 何の精霊


 翌日。冒険者ギルドへ入ると、朝の依頼受け付けはひと段落していた。掲示板の前にはまだ数人残っているが、受付へ並ぶ列は短い。入口が開くたびに朝の光が床へ差し込み、人の出入りに合わせて話し声の位置が変わる。


 俺たちは次に入るダンジョンを決めるため、浅い区画の依頼が出ていないか確認しに来ていた。


「浅い場所の確認依頼なら、何件かあります」


 受付でミラが依頼簿をめくる。厚い紙が一枚ずつ擦れた。


「ただ、今すぐ決めなくても大丈夫ですよ。初めて入る場所なら、入口の管理状況も一緒に確認した方がいいと思います」


「そうします」


 俺が答えると、ミラが依頼簿を閉じかけて手を止めた。


「あ。そういえば」


 視線がエルザの髪際へ向く。白い雫のようなリンが、いつもの場所で揺れていた。


「以前お話ししていた精霊の件なんですが」


 エルザが顔を上げる。


「精霊と一緒に活動している方ですか?」


「はい。今日ちょうど戻ってきています。向こうも、リンさんを一度見てみたいそうです」


 ちりん。


 リンが鳴いた。


「今、会えますか?」


「大丈夫です。少し待っていてください」


 ミラは席を立ち、奥の通路へ入っていった。俺たちは受付の脇へ寄る。近くの窓口では、別の冒険者が依頼票を畳んで腰袋へしまっていた。


「リン、他の精霊に会うのは初めてですよね」


 エルザが髪際へ声をかける。


 ちりん。


 エルザが少し首を傾げた。


「今のは、ただ鳴いただけみたいです」


「本人も覚えてないんですかね」


 ちりん。


 今度はエルザが少しだけ口元を緩める。


「『しらない』だそうです」


「それなら仕方ないですね」


 ヴェラはリンを見上げてから、受付奥の通路へ目を向けた。ほどなくして、ミラが一人の男を連れて戻ってきた。


 三十代くらいだろうか。日に焼けた顔に短い茶髪で、革鎧の上へ濃い灰色の外套を羽織っている。腰には短い杖を差していた。


「こちら、ハインさんです。精霊と一緒に依頼を受けている冒険者の方です」


「ハインだ。よろしく」


「ノワールです。こちらがエルザさんとヴェラさんです」


「よろしくお願いします」


「よろしくお願いいたします」


 挨拶を交わしたところで、ハインの外套の襟元が動いた。


 赤橙色の小さな頭が覗く。次に前脚。最後に、細い尾。


 狐に似ていた。ただし毛ではない。身体の輪郭そのものが、弱い炎のように揺れている。


 大きさは猫より少し小さいくらいだろう。四本の脚と尖った耳があり、金色に近い二つの目がこちらを見ていた。揺れる赤橙色が、ハインの濃い外套の上でよく目立つ。精霊と聞いて想像するなら、むしろこちらの方がしっくりくる。


「こいつはラウ」


 ハインが肩を示した。


「俺と契約してる精霊だ」


 ラウが短く鳴く。ぱち、と小枝が弾けるような音だった。


 俺にはそれ以上の意味は分からない。


 ちりん。


 今度は澄んだ鈴の音が返る。エルザがリンを見る。


「『ひのせいれい』だそうです」


 ハインの眉が少し上がった。


「分かるのか?」


 ちりん。


 エルザが頷く。


「分かるみたいです」


「その通りだ。ラウは火の精霊だ」


 その音を聞いたリンが、エルザの髪から浮かんだ。ラウの耳がぴんと立つ。次の瞬間、ハインの肩から飛び降りた。


 床へ着地する。炎のような身体なのに、床板が焦げることはなかった。足音らしい音もほとんどしない。


 ラウはリンの真下まで歩き、見上げる。リンも少し高度を下げた。しばらく向かい合う。受付を行き交う人の声が、その横を普通に通り過ぎていく。


 ラウが一歩右へ動き、リンの周りを半分ほど回った。鼻先を近づけても、リンは逃げない。ぱち。


「変なやつだと思ってるみたいだな」


 ハインが言った。


 ちりん。


 エルザが瞬きをする。


「……『そっちも』だそうです」


「会ってすぐ喧嘩してません?」


「挨拶だろ」


「そうなんですか?」


「知らん」


「……適当に言ったんですね」


 ハインが笑った。ラウはもう一度リンの周りを回り、今度は少し離れて座った。前脚を揃え、尾を身体の横へ巻いている。リンには座る脚がない。


 白い雫の輪郭が、ラウの前でふわふわ揺れていた。


「本当に変わった姿だな」


 ハインが言う。


「契約はしてないって聞いたけど」


「はい」


 エルザが答える。


「召喚したわけでもありません。王都の外で会って、そのままついてきました」


「名前は?」


「最初はありませんでした。王都までついてきたので、そのあと私がつけました」


「リン、と」


「はい」


 ハインがラウを見る。


「俺とこいつは契約した時に名前を決めた。まあ、俺とこいつの場合はだけどな」


 ぱちぱち。ラウが二度鳴く。


「何て?」


「苦情だな。名前を決めるのが遅かったって、まだ思ってるみたいだ」


「やっぱり精霊の言葉が分かるんですか?」


「言葉が聞こえるわけじゃない。契約してると、何となく何を考えてるか伝わってくるんだ」


「名前を決めるまで俺が悩みすぎた」


「精霊にもそういう不満があるんですね」


「ある。普通に文句言うぞ」


 ラウがまた鳴く。赤橙色の尾先が一度だけ揺れた。


「今のも何か分かるんですか?」


「何となくな」


「悪口です?」


「そこまでは言ってない」


 エルザがリンを見る。


「リンも何かありますか?」


 ちりん。


 エルザの口元が止まった。


「……『うるさい』」


「俺ですか?」


 ちりん。


「俺なんですね。俺も悪口だけは何となくわかります」


 ハインが声を上げて笑った。近くにいた冒険者が一度こちらを見る。ヴェラも口元をわずかに緩めていた。


◆


 俺たちはギルドの隅にある空いた卓へ移った。朝の受付から少し離れただけで、周囲の声が遠くなる。使い込まれた木の卓には、細かな傷がいくつも残っていた。ハインの横にはラウ。


 エルザの髪際にはリン。最初は二体とも相手を見ていたが、少しするとラウは卓の上へ前脚を乗せ、リンはその頭上をゆっくり回り始めた。ラウの赤橙色とリンの白が、卓の上で何度か交差する。


「ところで」


 ハインがリンを見ながら言う。


「契約してないなら、魔力はどうしてる?」


「魔力ですか?」


 エルザが聞き返す。


「俺とラウの場合、こいつが長く出てると少しずつ持っていかれるんだ」


 ハインが自分の胸元を軽く叩く。


「朝から晩まで付き合わせれば、結構疲れる。依頼の途中で一度引っ込んでもらうこともある」


「引っ込む?」


「姿を引っ込めて休ませる。俺とラウはそうしてる」


 エルザはリンへ目を向けた。リンはラウの尾先へ近づき、揺れる赤橙色の光を見ている。ラウが尾を動かすと、それに合わせて少し位置を変えた。


「私は、リンが一緒にいて疲れたと感じたことはありません」


「ずっと出てるんだよな?」


「はい。寝ている時は髪の近くで休んでいますが」


「じゃあ、どこから取ってるんだ」


「それなんですが」


 俺が口を挟む。


「女神像の近くへ行くと、食事みたいなことをするんです」


 ハインが俺を見る。


「女神像?」


「円卓の案内所と、大聖堂で確認しました」


 エルザが続ける。


「女神像へ近づくと、リンの輪郭が少し明るくなります。しばらくすると戻ってきて、『おなかいっぱい』とか『もういい』と言います」


 ハインの眉が上がった。


「……女神像を食うのか?」


 ヴェラが力強く頷く。違うぞ。


「食べてはいないと思います」


「像は残っていますので」


 俺とエルザの返事が重なった。ハインが一度口を閉じる。ラウが顔を上げて、ぱち、と鳴いた。


「変な奴だとさ」


 ちりん。


 エルザはリンを見たが、何も言わなかった。リンは気にした様子もなく、ラウの尾先を見ていた。受付の方から、依頼成立を告げる声が聞こえた。誰かが椅子を引き、床を擦る。


 ハインは顎へ手をやった。


「少なくとも、俺はそんな補給の仕方は聞いたことないな」


「精霊なら普通にある、というわけではないんですね」


「俺は学者じゃない。地方が違えば知らない精霊もいるだろうし、変わった契約の仕方もあるかもしれない」


 ラウの背を指で軽く撫でる。触れられた部分の輪郭が少し揺れた。


「ただ、俺とラウは違う。それだけは言える」


「十分です」


 聞きたかったのは、精霊全部の答えではない。リン以外の精霊が、実際にどう暮らしているのかだった。ラウが卓へ上がり、そのまま縁まで歩いた。ハインが指で反対側を示す。


「ラウ。ちょっとそっちへ寄ってくれ」


 ぱち。ラウはすぐに向きを変え、示された場所へ移った。


「こういうのは通じるんですね」


「長いからな。契約してるからって何でも言うことを聞くわけじゃないぞ」


「嫌がる時もありますか?」


「あるある。雨の日に外へ出たがらないし、火を使わなくていい依頼だと寝てる時もある」


 ぱちぱち。


「今のは?」


「うるさいって感じだな」


「仲良いですね」


「そう見えるか?」


 俺はエルザを見る。エルザもこちらを見た。


「試します?」


「何をですか」


「リンにも試しに何か頼んでみます?」


 エルザが髪際へ声をかけた。


「リン。ノワールさんのところへ行ってもらえますか?」


 ちりん。


 リンは動かない。エルザが一度瞬きをした。


「……『いや』」


 知ってた。


「やっぱりですか」


「まだ一回しか頼んでいません」


「まあ、結果は知ってましたから」


 ヴェラがリンを見る。


「では、私のところへ来てもらえますか?」


 ちりん。


 リンがふわりと浮かび、ヴェラの肩のあたりまで移動した。白い光が、ヴェラの髪の横で止まる。ハインが目を瞬いた。


「そっちには行くのか」


「ヴェラさんには行くんですね。差別は良くないです」


「契約してる相手でもないんだろ?」


「はい」


 ハインはヴェラの肩元にいるリンを見た。


「エルザ以外の言葉も普通に聞くんだな」


「聞くかどうかは、リン次第みたいです」


「なるほど。余計に分からんな」


「来てくださいました」


 ヴェラが微笑みながら少しだけ顔をリンへ向ける。


 ちりん。


 エルザが口元を押さえた。


「何て?」


「……『こっちがいい』」


「理由まで付くんですか」


 リンはヴェラの肩の横で、ゆっくり揺れていた。


◆


「精霊同士なら、もう少し分かるかもしれないな」


 ハインがラウへ声をかける。


「ラウ。こいつが何なのか分かるか?」


 ぱち。ラウが立ち上がった。卓の上を歩き、リンへ近づく。右から一周。左から半周。鼻先を近づける。


 耳が何度か動く。リンは相変わらず逃げない。二体の間は、指一本ほどしか空いていない。最後にラウは少し離れ、首を傾げた。


 ぱち。ハインが黙った。


「どうです?」


 ハインが少し待ってから首を振った。


「分からない、って感じだな」


「精霊なのに?」


「仕方ないだろう。俺に聞かれても困るぞ」


 ラウが前脚で卓を一度掻いた。爪らしい音はしなかった。リンがその動きを追うように少し下がる。


「何かもっと言っていますか?」


 エルザが聞く。


「いや。分からないだけらしい」


 ハインはリンを見上げた。


「逆に聞けばいいんじゃないか」


「リンにですか?」


「自分が何の精霊かくらい、本人なら分かるだろ」


「なるほど」


 エルザがリンへ向き直る。


「リン」


 ちりん。


「あなたは、何の精霊なんですか?」


 ちりん。


 エルザが黙った。周囲では誰かが紙束を卓へ置いた音がした。こちらだけ少し間が空く。


「何て?」


「……『リン』」


「名前ではなく種類を聞いているんですが」


 ちりん。


 エルザがもう一度聞く。


「火とか、水とか、そういうことです」


 少し間があった。


 ちりん。


「……『リン』だそうです」


 ハインが鼻から息を漏らした。


「強いな」


「何がです?」


「答えが一切ぶれない」


「確かに」


◆


 しばらくして、ハインが立ち上がった。椅子の脚が床を短く擦る。朝よりギルドの中の人は減っていた。


「そろそろ行く。午後の依頼があるんでな」


「今日はありがとうございました」


「いや。俺も面白かった」


 ラウが床へ飛び降りる。リンもヴェラの肩元から離れ、少し低い位置まで降りた。二体が向かい合う。ぱち。


 ハインがラウを見る。


「また会いたいみたいだ」


 ちりん。


 エルザがリンを見た。


「リンも『また』と」


「最初はお互い変だと言ってませんでした?」


「それとこれとは別なんだろ」


 ハインが肩をすくめる。ラウは男の外套を駆け上がり、肩へ戻った。赤橙色の尾が襟元へ収まる。リンもふわりと上がり、エルザの髪際へ戻る。


 ちりん。


 ぱち。最後に二つの音が重なった。少し離れた受付では、次の依頼票が一枚めくられていた。


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