第56話 預ける範囲
翌朝。
朝食を終えた卓の上へ、俺は二つ折りにしていた紙を二枚広げた。円卓から前にもらった支援制度の案内と、昨日の移送依頼の控えだ。エルザの髪の横では、リンが紙の端へ降りようとして、エルザの指にそっと押し戻されている。
「少しだけいいですか」
「はい」
ヴェラも湯呑みを置いた。俺は支援制度の案内を指で押さえる。
「昨日、イオさんの移送で札や引き渡しの手続きを見ていて思ったんですけど、俺たちに何かあった時の連絡先って、まだ決めていませんよね」
エルザが紙へ視線を落とした。
「円卓の緊急連絡制度ですね」
「ええ。所属や協力登録までは考えていません。ただ、俺たちが自分で連絡できない時に、知らせてもらう場所くらいは決めておいてもいいのかなと」
ヴェラは少し間を置いてから頷いた。
「必要性は理解できます」
エルザは手帳を開きかけ、やめた。登録しただけで普段の依頼や移動まで知らせる必要があるなら話は別だ。その範囲は、円卓で確認してから決めればいい。厨房から皿を重ねる音がした。
女将が空いた器を回収しに来る。器を重ねたところで、俺は声をかけた。
「女将さん。聞いてもいいですか?」
「今度は何だい」
「俺やヴェラさんに何かあった時、ギルドや治療所から連絡が来る場所として、この宿を指定してもいいですか?」
女将は俺とヴェラを順に見た。
「知らせが来るくらいなら構わないよ」
「ありがとうございます」
「ただし、治療代の請求まで宿へ持ってくるんじゃないよ」
「そこは大丈夫だと思います」
「思います、じゃ困るんだけどね」
女将は器を抱えたまま厨房へ戻っていった。ヴェラがその背中へ小さく頭を下げる。
「では、〈鈍色亭〉を連絡先として指定すること自体は可能なのですね」
「みたいですね。あとは制度の方を確認してから決めましょう」
二枚の紙を畳む。リンが空いた場所へ降りた。
ちりん。
「『おわり?』」
「まだ始まったところです」
◆
昼前の円卓案内所は、昨日より人が多かった。入口脇の掲示板には仕事の斡旋表と配給の予定が並び、その下に細い紙が何枚も重ねて貼られている。俺が横を通った時、見覚えのある名前が目に入った。
《鉄鎖の盟約》。西倉庫街の夜間警備について、円卓との共同協議を行うらしい。足を止めず、そのまま受付へ向かった。待合の木椅子には、作業着姿の男と、商人らしい厚手の上着を着た男が並んで座っていた。
向かいの卓で、円卓の担当者が二人の話を聞いている。
「屋根が漏れてることは、朝に言いました」
作業着の男が言う。
「聞いた。だが、あの程度なら夕方までもつと思ったんだ」
商人が答えた。
「実際に荷が濡れてるじゃないですか」
「梱包が甘かった箱もあるだろう」
担当者はどちらにも声を荒らげず、手元の紙へ目を落とした。
「作業前に屋根の不具合を申告した記録はあります。作業継続を決めたのは雇用側です。一方で、二箱については梱包の不備も確認されています」
二人とも黙る。
「賃金は先に一部支給します。残りは、濡れた荷の損害と梱包の状態を確認してから決めます。明日の午前に、もう一度来てください」
作業着の男が息を吐いた。商人も不満そうではあったが、紙へ視線を落として頷く。それ以上を見る前に、受付の奥から声がした。
「〈コンパス〉の皆さん」
エリカがこちらへ歩いてくる。
「昨日はありがとうございました。レティアから、全員負傷なく提携治療所へ到着したと報告を受けています」
「こちらこそ、お世話になりました」
「今日はどうされました?」
俺は畳んだ紙を取り出した。
「緊急連絡の制度について、少し確認したくて」
エリカは頷き、奥の小さな丸卓へ案内した。
◆
卓上へ三枚の用紙が置かれた。紙の端には、名前、連絡先、変更申請といった欄が並んでいる。
「この緊急連絡だけ登録した場合、普段の依頼や移動まで円卓へ報告する必要はありますか?」
「ありません」
エリカは用紙の一番上を指した。
「これは、本人が連絡できない状態になった時に、指定された相手や場所へ知らせるためのものです。通常時の行動報告や、所在の確認までは行いません」
「あとから変更できますか?」
「本人の申し出があれば、変更も解除もできます」
隣でエルザが紙を一枚持ち上げる。
「三人とも、同じ連絡先にする必要はありませんよね?」
「はい。それぞれ別で構いません」
エルザが小さく頷いた。エリカは別の紙束へ手を伸ばしたが、途中で止めた。
「昨日のような移送や救護に、継続して協力していただく登録もあります。ただ、そちらは活動報告や、状況によっては救護への協力をお願いすることがあります」
「必要になれば、あとからでも登録できますか?」
「はい」
「少し相談してもいいですか?」
「もちろんです。決まりましたら声をかけてください」
エリカは席を外し、受付の方へ戻った。俺たちは顔を見合わせる。
「緊急連絡だけでいいと思います」
エルザが言った。
「俺もです」
ヴェラも少し考えてから頷く。
「私も、その方がよろしいと思います」
救護への継続協力については、必要になった時に改めて考えることにした。それぞれ自分の用紙へ視線を落とす。
「連絡先はどうします?」
「お二人と同じ内容で問題ありません」
ヴェラの返事は早かった。俺は自分の用紙を一度見てから、ヴェラへ向き直る。
「ヴェラさんの連絡先ですから、ヴェラさんが決めていいんですよ」
ヴェラが黙った。視線が一度、手元へ落ちる。
「ヴェラさんが話せない時、最初にどこへ知らせてほしいですか?」
ヴェラはすぐには答えなかった。窓の外から荷車の車輪が石を踏む音が聞こえる。エルザも口を挟まず、手元の用紙を見ていた。
しばらくして、ヴェラが顔を上げた。
「第一連絡先は、〈鈍色亭〉をお願いいたします」
「はい」
「第二をノワール様。第三をエルザ様に」
エルザが顔を上げた。
「分かりました」
俺も頷く。
「エルザさんは決まりました?」
「はい。ノワールさんとヴェラさんを連絡先にします」
「じゃあ、俺も決めます」
自分の紙へ視線を戻した。
第一は〈鈍色亭〉。第二にエルザ。第三にヴェラ。エルザも自分の用紙へ書き始めた。
ちりん。
リンが羽ペンの先を追っている。
「触らないでくださいね」
ちりん。
「『みてるだけ』だそうです」
「ならいいですけど」
エルザは紙を少しだけリンから遠ざけた。
◆
エリカへ声をかけると、戻ってきて三枚の用紙を順に確認した。その手元へ、リンがふわりと近づく。エリカの持つ羽ペンが右へ動いた。リンも右へ動く。
羽ペンが左へ戻ると、白い雫もついていった。エリカがもう一度、少しだけ羽ペンを右へ振る。リンが追いかける。
「エリカさん。遊ばないでください」
エルザの声が飛んだ。エリカが羽ペンを止め、少しだけ笑った。
「すみません。つい」
何事もなかったように羽ペンを用紙の横へ置く。
ちりん。
「リンも誰にでもついていかないでください」
もう一度、鈴が鳴った。
どうやら両方怒られたらしい。
「では、内容に間違いがなければ、こちらへ署名をお願いします」
エリカは羽ペンを最初に俺へ渡す。俺が署名を終えると、次はエルザへ渡った。最後に、そのままヴェラへ羽ペンを差し出した。
「こちらへお願いします」
ヴェラは一瞬だけ羽ペンを見た。
「……私が、ですか?」
「はい。ヴェラさんの登録ですから」
エリカの返事はそれだけだった。
ヴェラは羽ペンを受け取り、用紙を押さえた。署名欄へペン先を置く。さら、と乾いた音がする。一度止まり、もう一度動く。
やがて羽ペンが紙から離れた。
「確認をお願いします」
エリカが用紙を受け取る。
「はい。問題ありません」
控えを三枚に分け、それぞれ本人へ返した。ヴェラは自分の紙を両手で受け取った。
◆
案内所を出たところで、エルザが足を止めた。
「私は一度、自分の宿へ寄ってきます」
「分かりました」
「夕食前には〈鈍色亭〉へ行きますね」
リンが髪の横で揺れる。
「それでは、また後ほど」
「はい。また」
エルザは人通りの多い通りへ歩いていった。俺とヴェラは〈鈍色亭〉へ戻る。
夕方にはまだ少し早い。食堂へ入ると、女将は厨房で野菜を刻んでいた。
「終わったのかい」
「はい。連絡先だけ登録してきました」
「そうかい」
包丁の音がまた始まる。
「ノワール様。私は一度部屋に戻ります」
「わかりました。俺も少し部屋に居ます」
ヴェラは頷くと、階段を上がった。俺も少し遅れて二階へ向かう。廊下へ上がると、ヴェラは自室の前で、さっき受け取った登録控えを手にしていた。紙の上には、第一連絡先として〈鈍色亭〉と、ヴェラの字で書かれている。
ヴェラは控えを半分に折ると、腰の小袋を開いた。中には、部屋の鍵が入っている。その横へ控えをしまい、鍵を取り出した。
「では、少し装備を整えてまいります」
「分かりました」
ヴェラは鍵を開け、自室へ入った。扉が静かに閉じた。




