第54話 今日は受けない
朝、食堂へ下りると、いつもの席に二人がいた。エルザはパンを小さくちぎり、ヴェラは温かい茶の入った杯を両手で持っている。髪の脇では、白い雫がゆっくり揺れていた。
「おはようございます」
「おはようございます、ノワールさん」
「おはようございます、ノワール様」
椅子を引いて座る。女将がこちらへ気づき、皿を一枚追加した。
「食べられそうかい」
「はい」
「なら食べな」
昨夜と同じだった。それ以上は聞かれない。皿には焼いた卵と豆、少し固めのパンが載っている。手を伸ばした。
腹は空いていた。夜中に何度か目は覚めた。それでも朝まで横になっていたし、身体が重いわけでもなかった。パンを一口食べる。
食べられる。
「今日はどうします?」
口にしてから、二人が同時にこちらを見た。
「何か依頼を見に行きますか」
エルザがすぐには答えなかった。パンを皿へ置く。
「今日は、受けなくてもいいんじゃないでしょうか」
「そうですか?」
「昨日は戻るのも遅くなりましたし、消耗品も確認したいです」
「私は、それでよろしいと思います」
ヴェラも続いた。
「右脚は?」
「今朝も痛みの増加はありません。ただ、装具と靴の状態は確認しておきたいです」
「そうですか? 俺は依頼でも大丈夫ですが」
ヴェラが少しだけ迷った。
「……私は、今日は休みたいです」
「ヴェラさんが?」
「はい。脚に痛みはありません。ただ、装具の確認もしておきたいですし……今日は、その方が良いと思います」
「私もヴェラさんに全面的に同意します」
エルザも食い気味にヴェラに続いた。二人を見る。
どうやら、俺だけの話ではないらしい。
少し笑ってしまった。朝食を食べられている。剣も手入れした。怪我もない。
だから仕事へ行かなければならない、ということでもない。なにより二人の気遣いを無下にはしたくなかった。
「……では、今日はやめておきましょうか」
「はい」
エルザが頷く。
「私も賛成です」
ヴェラも頷いた。髪の脇でリンが鳴いた。
ちりん。
「リンも賛成ですか?」
エルザが耳を傾ける。少し間が空いた。
「……『ぱん』」
「朝食の話でしたか」
白い雫はエルザのパンの上で揺れていた。
「リンは食べないでしょう?」
ちりん。
エルザがパンを少し持ち上げる。
「見ていたいだけですか?」
白い雫も一緒に少し上がった。
「それなら好きなだけどうぞ」
エルザが速くパンを上下させると、リンも追いかけるように動く。ちょっと面白い。
◆
朝食のあと、部屋へ戻って荷物を広げた。
保存食。水袋。白墨。予備の縄。手当て用の布。
小袋の底まで確認していく。空いた場所が一つあった。昨日、トッドの傷へ重ねた布だ。そこで、ふと思い出した。
血の流れ。自分の指先でなら、僅かに動かしたことがある。あの時、トッドにも試していれば。
――いや。
手の下から溢れていた血を思い出す。肩口から胸へ、深い傷が走っていた。呼吸も脈も、急速に弱くなっていた。ヴェラさんが治癒を続けても、血は止まらなかった。
指先の血流を少し変えられた程度で、どうにかできる傷ではない。それに、他人の血の流れを動かしたことは一度もない。あの状態で、試していいものでもなかった。それでも。
もし、血が出る勢いだけでも弱められたら――。
「布は買い足しましょう」
エルザが言った。
「……そうですね」
小袋を閉じる。
それだけだった。
三人で町へ出た。朝の通りは、昨日と変わらず人が多い。荷車が石畳を鳴らし、店先では野菜の籠が積まれている。大きな麻袋を肩へ担いだ男が横を通った。
結び目が目に入る。立ち止まりはしなかった。雑貨屋で清潔な布を数枚買う。店先の台を借りて、小袋へ入る大きさに畳んでいると、隣からエルザの手が伸びてきた。
「貸してください」
「自分でできますよ」
「幅が違います」
「入れば同じでは?」
「わかってませんね……取り出す時に揃っていた方が分かりやすいです」
反対側からヴェラも布を見る。
「私も、揃っている方が取り出しやすいと思います」
「お二人とも几帳面ですね」
「ノワールさんも見習ってください」
エルザが真顔で答えた。
「……善処しますので、今日のところはお願いします」
布を手渡す。エルザは端を揃え、二度折ってから小袋へ収めた。確かに綺麗だった。
「ありがとうございます」
「はい」
「次から自分でもできるようにしておきます」
「そうですね。毎回言うのも大変ですから」
「分かってますよ」
少し笑う。ヴェラも新しい革紐を買い、靴と装具の留め具を確認していた。午前中は、それだけで過ぎていった。
◆
昼前、冒険者ギルドの前まで来た。依頼を受けるつもりはない。
入口を入り、広間の掲示板の前を通ると、やはり目が向いた。
討伐。採取。見回り。護送。
何枚か新しい依頼票が増えている。
「……見てみますか?」
エルザが聞いた。
「……今日はやめておきます」
「はい」
受付ではミラが別の冒険者と話していた。こちらに気づくと軽く頭を下げる。俺も返した。
そのまま通路の脇へ寄る。半地下へ続く階段が見えた。少し考える。
「エルザさん、ヴェラさん」
「はい」
「少し、知り合いと話してきます」
エルザが俺を見る。
「一緒に行きますか?」
「いえ。少しだけなので」
「分かりました」
それ以上は聞かなかった。ヴェラも頷く。
「では、私たちは上で待っております」
「ありがとうございます」
エルザとヴェラはギルドの卓へと向かう。俺は階段を下りた。
◆
半地下の酒場は、昼前のせいか空いていた。卓はいくつも空いている。奥の壁際に、見覚えのある灰銀の髪があった。セイは杯を片手に、薄い紙束へ目を落としている。
「こんにちは」
「ん?」
顔が上がった。
「何だい、坊や。今日は一人か」
「少し話したくて」
セイの眉がわずかに動いた。
「座りな」
向かいの椅子を引く。座ると、セイは紙束を畳んで脇へ置いた。
「今日は依頼じゃないのかい」
「休むことにしました」
「へえ」
杯が卓へ置かれる。
「少しは賢くなったじゃないか」
「そんなに無茶してそうでしたか?」
「知らないけどね。自覚がないのが一番面倒なんだよ」
「厳しいですね」
「優しい女が好みかい?」
少しだけ、いつもの調子だった。それで話しやすくなったのかもしれない。
「昨日、人を斬りました」
セイの表情が止まった。すぐには何も言わない。
「街道で、強盗に遭いました」
「坊やが?」
「俺たちが、ではないです。商人が襲われていました」
昼に休憩所で会った男たちだったこと。荷車の縄を直してもらったこと。帰り道で、その男たちが商人の荷を奪っていたこと。商人をこちらへ逃がし、荷を戻して離れるよう話したこと。
「ギルドには報告すると言ったのかい?」
「言いました」
「そうだろうね」
「相手は、それなら同じことだと言いました」
「まあ、そう思うだろうね」
セイは責めるでも褒めるでもなく、続きを待った。
「それで、戦闘になりました」
今はエルザさんと、最近仲間になったヴェラさんと三人で組んでいる。俺は短剣を持った男を止めた。ヴェラさんは二人を相手にしていた。エルザさんは、トッドと戦っていた。
そこまで話すとセイが口を挟んだ。
「トッドってのが、縄を直した男かい」
「はい」
そこで一度、言葉が止まる。
「エルザさんが転びました」
セイの目が少し細くなった。
「怪我は」
「ありません」
「トッドさんが、倒れたエルザさんへ剣を振り下ろそうとして」
掌に、重い感触が戻った。手は動いていない。卓の上に置いたままだ。
「俺が斬りました」
「……そうか」
「肩口から胸まで、深く斬りました」
「それで?」
「助けようとはしました」
布を重ねた。押さえた。脈を探した。
「ヴェラさんは治癒魔法が使えるので、すぐに頼みました」
傷へ治癒をかけてもらった。
それでも、血は止まらなかった。
「でも、死にました」
セイは杯へ手を伸ばさなかった。
「衛兵には、罪に問う話にはならないと言われました。相手が先に強盗をしていて、武器も抜いていて。俺は別の一人を殺さず止めていて。トッドさんを斬った後も追撃していないから、と」
「なら、そういう扱いなんだろうね」
「はい」
「それで終わったなら、坊やはここに来てないか」
「……そうですね」
セイが背もたれへ少し身体を預けた。
「あの子……エルザは何て?」
「ゲームのデータだと言われました」
セイが一度瞬きをした。
「慰めるつもりだったそうです」
「……あの子らしいね」
「やっぱりそう思います?」
「前に少し話した程度だけどね。悪気で言う子じゃないだろ」
「はい」
俺もそう思っている。だから反応に困った。
「セイさんは、どう思います?」
「何を」
「この世界の人たちのことです」
「知らないよ」
「……知らないんですか」
「あたしを何だと思ってるんだい」
「先輩?」
「便利な答え箱じゃないんだよ」
「それはすみません」
「謝るな。腹が立つ」
「対応が難しいですね」
セイが鼻から息を吐いた。少しして、杯の縁を指でなぞる。
「婆さんが何だったのかだって、あたしは今でも知らないよ」
聞いたことのある呼び方だった。
「NPCだったのか、何か別のものだったのか。あたしは見分ける方法なんて持ってない」
「……はい」
「ただ、死んだ時に困ったのは本当だよ」
それだけ言って、セイは杯を持ち上げた。一口飲む。
「それ以上は?」
「ない」
「ないんですか」
「何を期待してるんだい」
「もう少し、こう」
「気の利いたことでも言ってほしかった?」
「少しくらいは」
「高いよ」
「お金取るんですか」
「取れるなら取る」
思わず息が漏れた。セイも少しだけ口元を上げる。それから、俺は昨日の最後を思い出した。
「トッドさん、最後に言ったんです」
「何を」
「『違う人生が、良かったな』って」
セイの表情から笑いが消えた。
「何が違えば良かったのか、分からなくて」
「本人は言わなかったんだろ」
「はい」
「なら、あたしにも分からないよ」
「そうですよね」
「そいつに家族は?」
「両親はもういなかったそうです。でも、妹がいました。病気で亡くなったそうです」
「そうかい」
それだけだった。
セイは意味を足さなかった。しばらく、近くの卓から皿を置く音だけが聞こえた。
「で」
「はい」
「飯は?」
「朝は食べました」
「昨日は」
「食べましたよ」
「どのくらい」
「途中で残しました」
セイが店の奥へ顔を向けた。
「この坊やにパンとスープ」
「いえ、まだ昼には少し早いですけど」
「早いから何だい」
「俺の腹の都合です」
「あたしの都合で腹に入れときな」
「無茶言いますね」
「食えないなら残せばいい」
どこかで聞いたような言い方だった。店の男がパンと薄い野菜のスープを運んでくる。俺の前へ置いた。
「セイさんは?」
「あたしは飲んでる」
「昼からですか」
「休みなんだろ?」
「俺はです」
「あたしもだよ」
「そうなんですか」
「今決めた」
適当だった。
パンをちぎる。一口食べる。朝も食べた。今も食べられる。
「明日は?」
セイが聞いた。
「まだ決めてません」
「仕事はできそうかい」
パンを持ったまま少し考える。
「はい。たぶん」
「なら今日は休んどきな」
「もう休んでますよ」
「だったら最後まで休みな」
セイは杯を傾けた。
「中途半端に掲示板眺めて、結局一枚取って帰るんじゃないよ」
「……見てました」
「ほらね」
「取ってません」
「ならそのまま帰りな」
「はい」
スープを飲む。温かかった。
◆
階段を上がると、エルザとヴェラはギルドの端の卓を使って荷物を広げていた。
朝に買った布。革紐。小袋。
エルザの手帳も開いている。
「お帰りなさい」
「戻りました」
「話せました?」
「パンとスープを食べさせられました」
エルザは首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
「こちらは装具の確認が終わりました」
ヴェラが右脚の革紐を示す。
「擦れもありません。新しい紐は予備にします」
「分かりました」
椅子へ座る。エルザが朝に畳んだ布を、小袋の中へ入れ直していた。
「まだやってたんですか」
「他の布も揃えました」
「全部?」
「はい」
「本当に几帳面ですね」
「取り出しやすいですから」
ヴェラが隣で頷く。
「私も良いと思います」
「別に悪いとは言ってませんからね?」
朝と同じだった。確認を終え、荷物を片づける。それから三人でギルドを出て、〈鈍色亭〉へ戻った。
宿へ戻ってからは、洗濯物を取り込み、部屋の荷物を整えた。今日は、依頼票を一枚も取らなかった。夕食が運ばれてきた。豆と肉の煮込みから湯気が上がっている。
一口食べる。美味しい。
「……セイさんにパンとスープを食べさせられたので、まだ入るか不安でしたけど、美味しいですね」
ふと、俺に向けられた二人の視線に気がついた。
「食べないんですか? 美味しいですよ?」
俺が促すと二人も食べ始めた。
「本当に美味しいですね」
「はい。美味しいです」
煮込みをもう一口食べる。
「明日は、何か依頼を見に行きましょうか」
「はい」
エルザが答える。ヴェラも少し遅れて頷いた。
「私も、明日は依頼を見たいです」
「では、朝からですね」
「はい」
「承知いたしました」
女将が空いた器を重ねて持っていく。俺も自分の皿をその上へ置いた。部屋へ戻る前に、腰の剣へ一度触れる。今日は、鞘から抜かなかった。




