第53話 そのつもりです
手首から指を離した。押さえていた布は赤く染まり、その下から滲んでいた血も、さっきまでより遅くなっている。トッドの目は動かない。
ヴェラがトッドから手を離す。
顔を上げる。
棍棒を持っていた男は、すぐ近くで膝をついたままだった。槍の男も、その隣にいる。短剣の男は少し離れたところで腹を押さえて座り込んでいた。三人ともトッドを見ている。
少し離れた土の上には、投げ捨てられた槍と棍棒が残っていた。短剣は俺が街道脇へ放ったままだ。ヴェラが膝元に置いていた丸盾を拾い、立ち上がる。
「三人とも、そこから動かないでいただけますか」
「……分かってるよ」
棍棒を持っていた男が答えた。
「もうやらねえ……」
ヴェラはすぐには盾を下げなかった。
「エルザ様。縄をお願いできますか」
「はい」
エルザが荷車から外されていた縄を拾い、三人の方へ向かった。俺も立とうとした。
「ノワールさん」
エルザが振り返る。
「そのままで大丈夫です」
「でも」
「こちらは二人でできます」
ヴェラも頷いた。
「お任せください」
言われて、またトッドを見る。
何かすることはない。
分かっている。
それでも、すぐには立てなかった。
「あの……」
商人の男が近くまで来ていた。切れた口元はまだ少し腫れている。
「……大丈夫ですか?」
俺が尋ねると、男は一瞬だけ困った顔をした。
「俺より、あんたの方だろ」
「俺は怪我してませんから」
「そういう意味じゃ……」
そこで言葉を切った。男はトッドを見る。
「助かったよ。あんたらが来なかったら、荷も全部持っていかれてた」
「怪我をさせられています」
「これくらいなら平気だ」
口元へ触れ、少し顔をしかめる。
「……そいつは?」
「……亡くなりました」
「そうか」
商人はそれ以上何も言わなかった。
しばらくして、自分の荷車へ戻る。荷を覆っていた大きな布を一枚持ってきた。
「これ、使うか?」
「いいんですか?」
「ああ」
受け取った。広げる。トッドの顔まで覆いかけて、一度手が止まった。
目を閉じる。腕を身体の横へ戻す。それから布を掛けた。
エルザたちの方から縄が擦れる音がする。
「きつくしすぎていませんか?」
「……大丈夫だよ」
短剣の男が答えていた。
「逃げねえから」
「それでも確認します」
エルザらしい返事だった。俺は立ち上がった。
◆
帰りに使うはずだった空の荷車へ、トッドを載せた。朝には生活用品を積んでいた荷台だった。今は大きな布が一枚、荷台の長さに沿って横たわっている。
「ノワールさん。私が押します」
取っ手へ手を掛けたところで、エルザが言った。
「いえ。大丈夫です」
「でも」
「押せますよ」
持ち上げる。行きより軽い。空荷だった帰りよりは重い。
「本当に?」
「はい」
エルザは少しだけ俺を見てから、手を離した。
「……分かりました」
ヴェラが拘束した三人の後ろにつく。武器はまとめて商人の荷車へ載せた。
俺たちは王都へ向かった。車輪が轍を踏む。ごとん。少し進んで、また鳴る。
誰も話さなかった。昼に通った道だった。さっきまで、荷車が軽くなったと笑っていた。リンが荷車へ「おつかれ」と言って、エルザが笑っていた。
同じ轍を踏む。ごとん。取っ手から重さが伝わってくる。
後ろを振り返らなくても、何を載せているかは分かっていた。そのまま、誰も口を開かなかった。
◆
王都の門まで戻ると、当然、そのまま通してはもらえなかった。
「止まれ。その荷車は?」
衛兵がこちらへ来る。拘束した三人を見て、すぐに表情が変わった。
「街道で強盗に遭遇しました」
「死者か?」
「一人です」
「誰がやった」
「……俺です」
衛兵の目が俺へ向く。
「事情を聞く。全員、詰所へ来てくれ」
「はい」
商人も一緒に残った。詰所では、まず俺たち三人と商人が同席して事情を聞かれた。拘束した三人は別室で待たされた。最初に聞かれたのは、襲われた商人のことだった。
「見つけた時には、すでに殴られていました。荷を外している途中です」
「相手は四人」
「はい」
「お前たちは三人」
「はい」
「すぐ戦ったのか?」
「いいえ」
商人をこちらへ退避させたこと。荷を戻して離れるなら、その場では追わないと伝えたこと。トッドたちが拒んだこと。互いに武器を抜いたこと。
一つずつ話した。
「その後は?」
「俺は一人と戦いました。短剣を落とさせて、動けなくしました」
「斬ってはいない?」
「はい」
衛兵が書き板へ何か記す。
「死んだ男とは?」
「そちらにいるエルザさんが戦っていました」
隣に座るエルザを見る。
「途中でエルザさんが転びました。その時、トッドさんが剣を振り下ろそうとして」
そこで、少し言葉が止まった。
「……俺が斬りました」
「倒れている仲間を守るために、か」
「はい」
衛兵はエルザを見る。
「間違いないか?」
「はい。私は足を取られて倒れました。トッドさんは私へ剣を振り下ろそうとしていました」
「その男が割って入った?」
「はい」
書き板へ筆が走る。今度はヴェラ。
「お前は見ていたか?」
「いいえ。その時、私は別のお二人を止めておりました。トッド様が倒れた後に気づきました」
「その後は?」
「ノワール様が止血をしておられました。私は引き続き、お二人を止めております」
ヴェラが一度言葉を切った。
「お二人が武器を捨て、抵抗する意思がないことを示しましたので、私もトッド様のところへ向かいました」
「治癒を使ったのか?」
「はい」
「助けられなかった?」
ヴェラの視線が少し下がる。
「……はい。私の治癒では、あの傷には足りませんでした」
衛兵が書き板へ記す。
「残りの三人は、その後も抵抗しなかった?」
「はい」
「分かった」
無理に見たことにはしなかった。商人の話も聞かれた。俺たちが来る前から暴行と強奪が始まっていたこと。トッドが仲間へ、それ以上殴るなと言ったこと。
自分を逃がした後、俺たちと盗賊が話していたこと。
そこまでは見ていたらしい。
最後に、短剣を使っていた男が別室から連れてこられた。腹を押さえたまま椅子へ座る。
「お前は見たか」
「何を」
「トッドが女を斬ろうとしたところだ」
男は黙った。
しばらくして、こちらを見ずに答えた。
「……見たよ」
「詳しく話せ」
「俺はそいつにやられて、地面にいた。トッドの方見たら、女が倒れてた」
「それから?」
「トッドが剣を上げたのを見たあと、殴られた所が苦しくて咳き込んだ」
男が腹を押さえ、顔を伏せた。
「次に見た時には、そいつがトッドの前にいた」
衛兵が筆を止める。
「斬ったのは?」
「そいつだ」
男が俺を見た。
「トッドが先に女を斬ろうとしてた……それも本当だ」
「その後は?」
「トッドが倒れた。あいつらが武器を捨てて、トッドのところへ行った」
「お前は?」
「すぐには動けなかった。少ししてから俺も行った」
男は腹を押さえたまま息を吐く。
「……もう、その時には誰も戦う気なんかなかったよ」
「分かった」
衛兵がまた書き込む。
「もう一つ。死んだ男の身元で知っていることはあるか」
男が少しだけ顔を上げた。
「昔、荷運びしてたって聞いてる」
「どこで?」
「そこまでは知らねえ。妹の治療費を稼いでたらしい」
「妹?」
「リリーって名前しか知らねぇ。俺がトッドと知り合った頃には、もう荷運びしてた時期じゃなかった」
男は腹を押さえたまま、少し息を整えた。
「最初に会った頃のあいつは、その辺の奴から金を巻き上げるくらいの奴だった」
「妹の病気については?」
「だから詳しくは知らねえよ。腹の病気だったって聞いたことがあるくらいだ」
「分かった」
男が連れていかれた。
しばらくして、さっきとは別の衛兵が入ってきた。年嵩の男だった。書き板を受け取り、最初から目を通す。
「強盗の現場を止めた。相手から武器を抜いた。あんたは一人を殺さずに止めてる」
「はい」
「その後、仲間が倒れたところへ剣が向いた。それを止めるために斬った」
「はい」
「斬った後の追撃もなし。残り三人は抵抗をやめた。止血して、治癒も試してる」
布に染みた血が頭に浮かんだ。
「……はい」
男は書き板を閉じた。
「今回の件で、あんたを罪に問う話にはならない」
それだけだった。
「……分かりました」
「ギルドにも報告が要るだろう。そっちはこっちから人を出す」
「ありがとうございます」
「残り三人と遺体は預かる」
俺は頷いた。外へ出る時、荷車は詰所の裏へ回されていた。大きな布は、まだ荷台の上にあった。
◆
冒険者ギルドへ着いた頃には、窓から入る光が少し橙色になっていた。ミラは俺たちを見るなり立ち上がった。
「怪我は?」
「ありません」
「三人とも?」
「はい」
エルザとヴェラも頷く。
「そうですか」
そこでようやく、ミラは椅子へ戻った。
「衛兵から先に話は届いています。こちらでも依頼中の出来事として記録します」
いつもの受付台ではなく、奥の小さな卓へ通された。エルザも手帳を開いた。ミラの確認に合わせ、必要なところを書き留めていく。ミラはそれを横目で確認しながら、話を続けた。
街道で起きたことを、もう一度最初から話した。何度話しても、内容は変わらない。最後にトッドの名前を伝えると、ミラの筆が止まった。
「トッド?」
「知っていますか?」
「……名前だけなら」
ミラが席を立ち、後ろの棚から古い綴じ帳を何冊か出した。
「少し待ってください」
頁をめくる。指が何度か止まり、また進む。
「あった」
帳面をこちらへ向けることはせず、そのまま読む。
「以前、《鉄鎖の盟約》経由の臨時運搬に入っていますね」
「……荷運びですか?」
「はい。街道と倉庫の運搬。かなり件数があります」
昼の休憩所が浮かんだ。縄を持ち上げた手。荷の端を押して、締め直した手。
『勝手に真似しろ、わざわざ言わなくていい』
「やっぱり……」
「何か?」
「今日、荷物の結び方を教えてもらいました」
ミラが顔を上げる。
「今日?」
「昼に初めて会った時です……」
少しだけ沈黙した。
「そうですか」
また帳面を見る。
「一時期、仕事をかなり詰めて入れています。その後も記録は続いていますが、あるところで途切れていますね」
「ずっと荷運びを?」
「少なくとも、この帳面に残っている間は」
そこへ衛兵が一人入ってきた。さっき詰所にいた男だった。
「荷物の確認が終わった。あと、身元について少し追加がある」
小さな布袋と、紙を一枚持っている。
「死んだ男の所持品だ。身元確認に使えそうなのがこれくらいだった」
卓へ紙を置く。赤い印が押されている。見覚えのある商会名だった。
「《紅蓮商会》ですね」
エルザが言った。
「借入の証文らしい。本人控えだな」
ミラが紙へ目を落とす。
「用途……治療費」
俺も文字を見る。トッドの名前。返済した分を示す小さな印がいくつも並んでいる。下には、まだ残っている額。
「妹さんの治療費でしょうか」
エルザが言う。
「たぶんな」
衛兵が頷いた。
「さっき話を聞いた男も、妹の治療費を稼いでいたと聞いたことがあるそうだ。名前はリリー」
ミラが古い綴じ帳へ視線を戻す。
「運搬の件数が増えている時期と重なるかもしれませんね」
「病気のことは?」
俺が聞いた。
「本人から詳しく聞いたわけじゃないそうだ。腹の病気だったとしか知らないらしい」
衛兵が手元の書き付けを見る。
「ただ、別の二人からも話を取った。《翠緑の円卓》が診るところに繋いだことはあったそうだ」
「治療は?」
「受けたらしい。それでも治らなかった」
昨日、リヴィアから聞いた言葉が蘇る。
『治癒魔法って、身体が治ろうとしてるところを手伝うのはすごく得意なんだよ。でも、何年も前の状態をそのまま持ってくる魔法じゃない』
治癒魔法でも、治せなかった病気だったのか。
「その後は?」
ミラが尋ねる。
「妹が亡くなったあともしばらく荷運びは続けてたらしい。ただ、拘束した連中が知り合ったのはその後だ」
衛兵が紙を指先で押さえる。
「最初に会った頃には、もう街で金を巻き上げるようなことをしていたと言ってる」
「親御さんは?」
「早くに亡くなっていたらしい。兄妹二人だったそうだ」
それ以上、衛兵から新しい話は出なかった。
「分かりました。ありがとうございます」
ミラが言う。
「ああ。こっちでも必要な記録は残しておく」
衛兵は証文を布袋へ戻し、部屋を出ていった。卓の上には、ミラが開いた古い仕事の記録だけが残った。昼に銅貨を数えていたトッドの指を思い出す。
『……違う人生が、良かったな』
何が違えば良かったのかは、やっぱり分からなかった。
「ノワールさん」
ミラに呼ばれる。
「はい」
「今日は、ここまでで大丈夫です」
「分かりました」
「荷車の返却はこちらで処理します。依頼自体は、荷物をすべて届けた時点で完了扱いです」
「……報酬は?」
「通常どおり出ます」
「……そうですか」
朝受けた仕事だった。運んだ生活用品も、割れなかった油壺も、もう引き渡し先に届いている。その依頼は終わっていた。ミラが報酬の硬貨を数える。
いつもの音で硬貨が卓へ置かれた。
「受け取ってください」
「はい」
手を伸ばした。銅貨は普通に冷たかった。
◆
〈鈍色亭〉へ戻ると、女将は俺たちを見るなり眉を寄せた。
「遅かったね」
「少し、ありまして」
「怪我は?」
「ありません」
「三人とも?」
今日二度目だった。
「はい」
「なら先に手ぇ洗っといで。飯はあとで出すよ」
それ以上は何も聞かれなかった。裏手の水場で、桶に水を汲み手を洗う。
指の間。爪の際。何度か水を流す。
もう血は付いていない。
それでも、布を押さえていた時の感触は残っていた。腰の剣を外す。鞘から抜く。詰所で一度拭かれていたが、鍔の近くに薄く跡が残っている。
布を濡らし、拭く。乾いた布で水気を取る。いつもと同じ手順だった。桶の水面に自分の顔が映る。
水面から目をそらす。今は見たくなかった。
「ノワールさん」
振り返る。エルザが立っていた。
「ヴェラさんは?」
「部屋で装備を外しています。脚も確認すると」
「そうですか」
また剣へ視線を戻す。刃を拭く。エルザは隣へ来た。
何も言わず、しばらく手元を見ている。
「エルザさん」
「はい」
「本当に怪我ないですよね?」
「ありません」
「足も?」
「大丈夫です」
「なら良かったです」
布を折り返す。油を薄く伸ばす。
「……ノワールさん」
「はい」
少し間があった。
「トッドさんは、ゲームのデータです」
手が止まった。エルザを見る。いつも通り真面目な顔で俺を見ていた。
「……慰めてくれてます?」
「そのつもりです」
思わず、少しだけ息が漏れた。
「そうですか」
「はい」
「ありがとうございます」
エルザが瞬きをする。
「今の言い方では、足りませんでしたか?」
「いえ」
剣へ油を伸ばす。
「言ってくれたことは分かります」
「はい」
それ以上は続かなかった。エルザも、続きを足さなかった。剣を鞘へ戻す。
「行きましょうか」
「はい」
◆
食堂では、ヴェラが先に座っていた。
「右脚は?」
「問題ございません。戦闘後も痛みの増加はありませんでした」
「良かったです」
女将が三人分の器を運んでくる。
「今日は豆と肉の煮込み。食べられるだけ食べな」
「ありがとうございます」
「無理に詰め込まなくていいよ」
それだけ言って、厨房へ戻った。ヴェラが俺を見る。何か言おうとして、やめたようだった。代わりに水差しをこちらへ寄せる。
「ありがとうございます」
「はい」
エルザがパンを一つ取る。髪の脇から、白い雫が少しだけ覗いた。今は何も鳴らさない。湯気が上がっている。
スプーンを取る。煮込みを掬った。食べられないわけではなかった。一口、口へ運んだ。




