第52話 間に合わせる
正面にいた男が、短剣を逆手に持ち直す。右では、短い槍を持った男と棍棒の男が左右へ分かれた。
「右は止めます」
ヴェラが丸盾を前へ出す。槍の男がその外側へ回ろうとした。ヴェラは追いかけない。一歩だけ位置を変え、商人へ続く道を盾で塞いだ。
「邪魔だ!」
槍が伸びる。丸盾へ当たり、乾いた音が響いた。その横から棍棒が振られる。ヴェラが盾を少し傾ける。
棍棒が縁を滑り、土を叩いた。左では、トッドが剣を構えていた。エルザが短剣を下げたまま、その正面へ入る。
「女が相手かよ」
トッドが不満げに漏らす。
「女と戦いたくないですか?」
エルザが問う。
「そんなこと言ってらんねえんだよ!」
トッドの剣が横へ走った。エルザは一歩下がって外し、その腕の内側へ短剣を入れようとする。トッドが肘を引いた。刃先が袖を掠める。
「……速えな」
「ありがとうございます」
「褒めてねえよ」
俺の正面で土が鳴った。視線を戻す。
「余所見とは余裕だな!」
短剣の男が踏み込んでくる。腹へ向いた刃を剣で外へ押した。
すぐに引かれる。もう一度。今度は胸へ来る。剣の腹で受け、横へ流す。
男が距離を詰めた。近い。剣を振るには窮屈になる距離を狙っているらしい。
「死ね!」
短剣が下から上がる。右へ身体をずらす。脇を抜けた腕へ、剣の柄をぶつけた。
「ぐっ!」
短剣が揺れたが、落ちない。男が歯を食いしばり、もう一度握り直した。俺は剣を引いた。斬れば早い。
そう思っただけで、刃先を下げる。必要ない。ドランに比べれば遥かに遅い。あの木剣の方が恐ろしいし、動きも目で追えている。
男が踏み込む。今度は正面から受けず、左へ回った。伸びた手首へ剣の腹をぶつける。
「ぐっ!」
指が開いた。短剣が土の上へ落ちる。それでも男は止まらず、空いた手で掴みかかってきた。剣先を男へ突き付け、その勢いを止める。
「くっ」
その隙に一歩踏み込み、空いた左拳を鳩尾へ叩き込んだ。
「っ――」
男の身体が折れる。息を詰まらせたまま膝をつき、その場から動けなくなった。警戒しながら、落ちた短剣を拾い上げる。男の手が届かない街道脇へ放った。
すぐに顔を上げた。右では、ヴェラが短い槍と棍棒の二人を盾の前へ止めていた。棍棒が丸盾へ当たり、乾いた音が響く。槍の男が外へ抜けようとする。
ヴェラは追いかけず、一歩だけ位置を変えて進路を塞いだ。左では、エルザとトッドが俺から離れた位置まで動いている。
トッドの剣が振り下ろされる。エルザが横へ抜けた。刃が空を切る。
そのまま一歩入り、短剣がトッドの前腕を掠める。トッドが腕を引いた。
袖に細い切れ目が走る。右へ行くか。左へ行くか。
そう思った瞬間だった。視線の先で、エルザの身体が傾いた。後ろへ引いた左足が、雨で深くなった轍の縁へ入っている。土が崩れた。
エルザの身体が横へ倒れる。短剣は手に残っている。左手を地面へつき、顔を上げた。その正面にトッドがいた。
エルザの口が動いた。声はここまで届かない。
トッドの剣が上がる。
まずい。
刃が、エルザへ向いた。
「エルザさん!」
足が土を蹴った。遠い。トッドの肩が動く。
肘が落ちる。剣先が下がっていく。エルザはまだ地面にいる。
受ける。
腕を止める。
間に入る。
どれでもいい。
あの剣がエルザへ届かなければいい。
もう一歩。土を蹴る。トッドの手。剣。エルザの肩。全部が見える。
まだ間に合う。
いや。間に合わせる。
トッドの刃がさらに下がる。
(――届け!)
――ちりん。
すぐ近くで、鈴の音が鳴った。
剣を振った。
腕へ重い感触が返る。
トッドの身体が止まった。
「……あ?」
トッドを見る。
刃が、トッドの肩口から胸へ斜めに走っていた。
遅れて、血が溢れた。
トッドの剣が手から落ちる。地面へぶつかり、鈍い音を立てた。
トッドが二歩よろめき、そのまま膝をついた。
「エルザさん!」
俺はすぐに声を掛けた。エルザはまだ地面に片手をついている。
「怪我は!?」
目を見開いて俺を見上げている。
「エルザさん!? 怪我はありませんか!?」
「……ありません」
エルザが短剣を持ったまま立ち上がった。外套から腕、脚へ目を走らせる。目立つ血はない。
「歩けますか?」
「はい……大丈夫です」
息が抜けかけた。エルザは俺を見ていた。その視線が一度だけ、俺の後ろへ向く。つられて振り返る。
短剣を失った男が蹲っている場所だった。そこから、エルザの視線が俺へ戻る。
「エルザさん?」
「……いえ」
短い返事だった。
「トッド!」
右から声が上がった。棍棒の男だった。ヴェラがこちらを見る。その隙に槍の男が動こうとした。
ヴェラがすぐ盾を戻す。男の足が止まった。トッドは地面へ横向きに倒れていた。肩から胸にかけて、服が急速に赤くなっていく。
俺は剣を地面へ置いた。
「トッドさん!」
膝をつく。傷へ手を当てる。掌の下から血が溢れた。
押さえるだけでは足りない。腰の小袋から布を引き出し、傷へ重ねて両手で圧迫する。
「おい……」
トッドの声が掠れていた。
「喋らないでください!」
呼吸が速く、浅い。顔から色が抜け始めている。
「エルザさん、布を!」
「はい」
すぐ横に膝をついたエルザから、予備の布を受け取る。一枚目の上へ重ねて押さえる。それでも赤く広がっていく。右を見ると、ヴェラはまだ槍と棍棒の二人を盾の向こうへ止めている。
呼べない。今あそこを空ければ、商人まで通る。
「トッドさん、聞こえますか!?」
「ああ……」
「そのまま横になっていてください!」
「見りゃ……分かるだろ」
「喋らないでください!」
「お前……」
「はい」
トッドの目が俺へ向く。何か言いかけたまま、息を吸う音が弱くなる。また血が布へ滲んだ。押さえる手に力を入れる。
止まらない。呼吸と顔色を見る。手首へ指を当てる。脈は速く、弱い。
「王都へ運べば……」
エルザが言いかけた。
「……間に合いません」
声にすると、はっきりした。自分でも分かっていた。ここから大聖堂まで。荷車に乗せたとしても、この出血では無理だ。
昨日見た治療所の光景が一瞬浮かんだ。リヴィアが傷へ手を伸ばしていた。エリカが動く創部を追っていた。でも、ここには二人ともいない。
俺の手の下で、血が出続けている。
「トッド!」
さっきより近い声がした。
顔を上げる。
棍棒が土の上へ落ちた。その隣で、槍も投げ捨てられる。
「もうやらねえ! 行かせてくれ!」
棍棒を持っていた男が両手を見せたまま叫んだ。槍の男も武器から離れ、トッドだけを見ている。ヴェラは盾を下げなかった。
「武器には触れないでください!」
「分かってる!」
二人が走り出す。ヴェラもすぐ後ろについた。さっき倒した短剣の男も、腹を押さえながら身体を起こしている。
「トッド……」
ふらつきながら、こちらへ歩いてくる。三人とも、俺たちには目も向けない。
見ているのは、トッドだけだった。
ヴェラが近くまで来る。その姿を見て、声が出た。
「ヴェラさん、治癒魔法を!」
「はい!」
ヴェラが俺の横へ膝をついた。血に染まった布と傷口を見る。一瞬だけ表情が強張った。それでもすぐに手を伸ばす。
俺の手を邪魔しない位置から、トッドの肩口へ触れた。淡い光が広がる。布の下で、血が滲み続けている。
「どうですか!?」
ヴェラは答えず、傷を見たまま治癒を続ける。光が少し強くなった。
それでも、赤く染まる速さはほとんど変わらない。数呼吸のあと、ヴェラが小さく首を振った。
「……私の手には負えません」
「少しでも、止められませんか!」
「続けます。ですが……」
ヴェラの声が詰まった。
「この傷は、私では止められません」
「お願いします!」
「……はい」
淡い光は消えなかった。俺も傷を押さえ続ける。トッドのすぐ向こうに、三人がいた。棍棒の男が膝をつく。
槍の男もその隣へしゃがみ込んだ。短剣の男だけは腹を押さえたまま立っていたが、やがてその場へ座り込んだ。
「トッド!」
呼ばれて、トッドの目が僅かに動いた。三人を見る。それから、また俺へ戻った。
「……変な奴」
「さっきも言われました……」
「ああ……」
息を吸う音が弱くなる。トッドが目を閉じかけた。
「寝ないでください!」
「無茶……言うな」
呼吸が一度、途切れた。また浅く入る。
「トッド」
今度は、誰の声だったのか分からなかった。トッドの目がもう一度、三人の方へ動く。しばらく見ていた。それから口が僅かに開いた。
「……なあ」
「はい」
俺が返す。トッドが息を吸う。途中で止まる。もう一度。
「……違う人生が、良かったな」
すぐそばにいた三人にも、その声は届いていた。棍棒の男が俯く。槍の男は何も言わなかった。短剣の男も、トッドから目を逸らさない。
何を指しているのか、分からなかった。何も返せなかった。トッドも、続きを言わなかった。口が少し開いたまま、息が抜ける。
待つ。次が来ない。
「トッドさん!」
呼びかける。反応はない。
首元へ指を当てる。場所を変える。もう一度。
触れない。目を見る。動かない。ヴェラの治癒の光が消えた。
誰も動かなかった。少し離れた土の上に、槍と棍棒が落ちている。誰も、それを取りに行かなかった。俺は傷を押さえたまま、しばらくそこにいた。
エルザも俺の横で、トッドを見ている。ヴェラは膝をついたまま、俯いていた。三人も、その場から動かなかった。いつの間にかリンがトッドの近くを漂っている。
ちりん。
押さえていた布の下から、まだ血が滲んでいた。もう一度、手首へ触れる。脈を探した。もう、触れなかった。




