第51話 見なかったことには
帰りの荷車は、行きとは比べものにならないほど軽かった。少しくらい轍へ入っても、取っ手を持ち上げればすぐに車輪が抜ける。
「これなら楽ですね」
「先ほどまでと、随分違いますね」
エルザが空の荷台を覗き込む。
「荷物って重かったんですね」
「今さらですか?」
「荷車を押してくれていたのはノワールさんですので」
「でも、重いのは知ってました?」
「それはもちろん。見ていましたから」
「それなら、もう少し労ってくれても良かったんですよ」
「ノワールさん。お疲れ様でした」
「今言うんですね」
髪の脇でリンが、ちりんと鳴った。
「リンも『おつかれ』だそうです」
「リンは優しいですね」
ちりん。
もう一度鳴る。エルザが少し間を置いた。
「……『にぐるま』」
「荷車の方ですか?」
ちりん。
「……荷車ですね……ノワールさんが押してる荷車に……お疲れって……」
エルザの声に笑いが混じる。
「労うのは俺じゃないんですね」
横を歩いていたヴェラが、口元を押さえていた。
「ヴェラさんまで笑ってません?」
「申し訳ありません」
「謝りながら笑わないでください」
「すみません……」
余計に駄目だった。空荷になった分、帰りは歩く速さも少し上がっている。ヴェラが歩調を整え、こちらへ顔を向けた。
「行きに立ち寄った休憩所で、もう一度休ませてください。今のところ、痛みはありません」
「もちろんです」
休憩所までは、まだ少しある。急ぐ理由もない。俺は荷車を押しながら、街道の先へ目を向けた。
昼を過ぎた道は午前中より人が少なく、遠くに荷車が一台見えるほか、反対側から旅人が二人歩いてくるだけだった。雨の名残がある轍の脇では、草の先にまだ水滴が残っている。そのまま進んでいると、前の方から声が聞こえた。
「待ってくれ!」
男の声だった。エルザがこちらを見る。もう一度。
「それまで持っていかれたら困るんだ!」
今度ははっきり聞こえた。三人とも足が止まる。
「……揉め事でしょうか」
「みたいですね」
俺は荷車を街道脇へ寄せた。ヴェラが丸盾へ手を添える。
「先を確認いたしますか?」
「ええ。ただ、近づきすぎないようにしましょう」
「はい」
車輪へ石を噛ませる。エルザも外套の下で短剣の位置を確かめた。リンがエルザの髪の内側へ少し入り込む。
「行きましょう」
荷車を置き、三人で声の方へ進んだ。
◆
街道が緩く曲がった先に、一台の小さな荷車が止まっていた。道へ布の束が落ち、その向こうには木箱が転がっている。荷車の横では、一人の男が別の男の胸元を掴んでいた。掴まれている方は四十代くらいだろうか。
口の端が切れ、頬に赤い腫れがある。
「それだけは勘弁してくれ。仕入れたばかりなんだ!」
「うるせえな」
胸元を掴んでいる男が腕を引く。拳が上がった。
「もういい」
別の声が飛んだ。上がった拳が止まる。
「荷を外せ。そいつ殴っても金にはならねえ」
聞き覚えがあった。荷車の後ろに、一人の男がしゃがんでいる。縄を持ち上げる。荷の端を押す。
一度緩めて、別のところへ指を入れる。昼に俺たちの荷車で見たのと、ほとんど同じ手つきだった。
「……トッドさん?」
男の手が止まった。顔がこちらを向く。トッドだった。その少し離れた場所にも、見覚えのある男が二人いる。
休憩所で一緒に豆煮を食べていた三人だった。片方は木箱を抱えている。もう一人は街道脇に立ち、短い槍を持っていた。さっき商人を掴んでいた男を合わせれば四人。
昼と同じ顔ぶれだ。
「……お前らか」
トッドが立ち上がった。声も昼と変わらない。荷車の持ち主らしい男が俺たちを見る。
「……冒険者か?」
その声に、胸元を掴んでいた男が振り返った。
「黙ってろ」
「やめろ」
トッドが言う。男の手が止まる。
「もう離せ」
「でもよ」
「そいつをそんなに殴りたいのか?」
「そんな趣味はねぇよ」
「なら離せ」
男が舌打ちし、商人の服から手を放した。商人が二歩下がる。足は動いている。口元から少し血が出ているが、少なくとも自分で立っていられる。
「エルザさん」
「はい」
俺が視線だけを商人へ向けると、エルザが頷いた。一歩前へ出る。
「こちらへ来られますか?」
商人が動こうとした。短い槍を持つ男が、道を塞ぐように位置を変える。
「右の二人が動きます」
ヴェラの声が飛んだ。丸盾が上がる。まだ武器は向けていない。ただ、商人と男たちの間へ入れる位置まで前へ出た。
「止まってください」
俺はトッドを見る。
「その人をこちらへ」
「お前らには関係ねえだろ」
「怪我をしています」
「死にゃしねえ」
「そういう話ではありません」
トッドが俺を見る。
「その人を離してください」
「もう離してる」
「通してください」
少し間があった。トッドが槍の男へ顎を動かした。
「どけ」
「トッド」
「いいからどけ。荷物はこっちにあるんだ、そいつを捕まえている意味ないだろ」
槍が下がる。完全には道を空けない。ヴェラが一歩だけ前へ出た。
「こちらへ」
商人が迷ってから歩き出す。その横へエルザが入った。
「ゆっくりで大丈夫です」
「荷が……」
商人が振り返る。
「今は、こちらへ」
「でも」
「まず怪我を見せてください」
エルザの声は落ち着いていた。商人がこちらへ来る。ヴェラの盾の後ろを通り、俺たちが置いてきた空荷車の方へ向かった。誰も追わなかった。
ひとまず、それでいい。
「ありがとうございます」
俺が言うと、トッドの眉が動いた。
「礼言われる筋じゃねえよ」
「そうですね」
荷車の上には、すでに外された木箱が二つ。道には布の束。
一人が抱えている箱も、あの商人のものだろう。
「荷も戻してもらえませんか」
「そりゃ無理だ」
「ですよね」
あっさり返ってきた。俺も簡単に返した。
自分でも、少し変な会話だと思う。
「だったら、俺たちが何も見なかったことにして帰ると思います?」
「思ってねえよ」
トッドが答える。木箱を持っていた男が顔をしかめた。
「こいつら昼の奴らだろ」
「ああ」
「名前も?」
トッドは俺を見たままだった。
「知ってる」
それから、俺へ言う。
「お前、俺の名前をさっき呼んだよな?」
「……はい」
「顔も覚えている」
「ええ」
「なら、見なかったことにはできねえだろ」
昼に聞いた名前。昼に見た顔。昨日でも、一月前でもない。ついさっき、同じ場所で飯を食っていた男だ。
「ギルドには報告します」
俺は答えた。隠すつもりはなかった。後ろでエルザが商人を座らせる気配がした。
「そうだろうな」
トッドが言う。
「嘘つかねえんだな」
「嘘をついても仕方ないでしょう」
「そうかよ」
「でも」
俺は四人を見る。
「今ここで戦う必要はありません」
槍の男が笑った。
「何言ってんだ、荷運びしてるってことはお前ら石級だろ? 俺たちと戦うつもりか?」
「商人の荷を戻してください。そのまま離れてくれるなら、ここで追うつもりはありません」
今度は誰も笑わなかった。
「追わねえ?」
「少なくとも、ここでは」
トッドの目が細くなる。
「それでギルドに行く」
「報告はします」
「同じだろ」
「同じではないです」
今ここで誰も怪我を増やさずに済む。まずは、それでいい。
「ずいぶん都合のいい話だな」
「そうですか?」
「荷だけ置いて、逃げろって?」
「はい」
「そのあと、顔と名前をギルドに伝える」
「そうなります」
一瞬だけ、昼の休憩所と同じような間があった。
だが、誰も笑わなかった。トッドが鼻から息を吐く。
「お前、変な奴だな」
「よく言われます」
「そうか」
トッドの視線が、俺からヴェラへ移る。次にエルザ。そして、少し離れたところにいる商人へ向いた。
「そのまま行かせてくれりゃ、こっちも面倒はねえ」
「荷を持って?」
「ああ」
「それは無理です」
「じゃあ、話終わりだ」
「まだです」
トッドが俺を見る。
「今なら、誰も斬らずに終われます」
「それで明日から逃げ回れってか」
「……そうなるかもしれません」
槍の男が舌打ちした。
「ふざけんなよ」
トッドも、ほんの少し口元を歪めた。
「どこまでも正直だな」
「すみません」
「謝るところか?」
「分かりません」
「本当に変な奴だな」
それでも、トッドの手は腰の辺りへ下がっていた。剣の柄がある。昼には気にもしなかった。今は、目がそこから離れない。
「ノワールさん」
後ろからエルザの声がした。
「この方は歩けます。見える傷は口元と頬です。今のところ、他に大きな異常はなさそうです」
「ありがとうございます」
「後ろへ下がっていただきます」
「お願いします」
商人へ向けている間も、トッドたちは動かない。いや。右側の二人が、少しずつ間を広げていた。
「ノワール様」
ヴェラも気づいている。
「右のお二人が、こちらの外へ回ろうとされています」
「見えてます」
「私が止めます」
返事を待たず、ヴェラが一歩ずれる。丸盾を構えたまま、街道脇へ抜ける道を塞いだ。右へ回ろうとしていた二人が足を止める。
「邪魔すんな」
一人が言った。
「申し訳ありません」
ヴェラは盾の位置を変えない。
「こちらには行かせられません」
「謝るならどけよ」
「それはできません」
静かな返事だった。男が舌打ちした。商人がさらに後ろへ下がる。エルザがその間へ入った。
「荷車のところまで行ってください」
「あ、ああ」
「そのまま待っていてください」
商人が離れる。これで、少なくとも間に巻き込まれる人はいなくなった。
「トッドさん」
俺はもう一度呼んだ。
「何だ」
「最後にします」
「さっきも似たようなこと言ってなかったか?」
「言ってませんよ」
「そうだったか」
「はい」
昼と同じだった。言葉だけなら。
「武器を置いてください」
トッドが黙る。少し離れたところで、風が荷車の布をめくった。道へ落ちた縄の端が動く。昼間、あの手で結び直してもらった。
今は、その足元に別の商人の縄が落ちている。トッドが短く息を吐いた。
「無理だ」
腰から剣を抜いた。金属の擦れる音がした。
右で、短い槍が上がる。もう一人が棍棒を握る。ヴェラの丸盾が前へ出た。左では、残る一人が短剣を抜く。
エルザが動いたが、トッドもその前へ出る。短剣の男が向きを変え、俺の正面へ回った。右ではヴェラが槍と棍棒の二人を受け、左ではエルザが短剣を抜いてトッドと向かい合う。俺の前には、短剣の男だけが残った。
俺も腰の剣へ手を掛けた。まだ誰も踏み込んでいない。俺はもう一度だけ、トッドを見た。トッドもこちらを見ていた。
剣を抜いた。




