第49話 治す場所
翌朝。
一階へ下りると、ヴェラはすでに食堂の隅に座っていた。
「腕はどうです?」
「痺れはありません」
ヴェラが左手を開き、握る。昨日、落石を丸盾で受けた直後には少し痺れていたが、今朝の動きに引っかかりは見えなかった。
「肩は?」
「問題ありません。右脚の痛みも増えておりません」
「それなら良かったです」
向かいでは、エルザが昨日裂けた外套ではなく、予備の革上着を着ている。
「エルザさん。昨日の外套はどうしたんですか?」
「外套はまだ乾かしています。女将さんから、本縫いはそれからだと言われました」
「女将さんって、なんだかんだ言いながら優しいですよね」
「ノワールさんも見習ってみては?」
「何の話でしょうか」
エルザの髪に留まっていたリンが、こちらを向いたように見えた。
ちりん。
エルザが少し間を置く。
「……『みならえ』だそうです」
「リンも俺に優しくなってください」
リンは満足したように、またエルザの髪に埋もれた。朝食が運ばれてくる。パンをちぎりながら、俺はヴェラの右脚へ目を向けた。昨日悪化しなかったこと自体は良い。
ただ、ここ数日で街道、斜面、それから実戦まで戻している。
「ヴェラさん」
「はい」
「一度、脚をちゃんと診てもらいませんか」
ヴェラの手が止まった。
「昨日の件でしょうか」
「それもあります。でも、悪くしたからというより、これからのためです」
三人での動きも少しずつ形になってきた。この先、野外だけでなくダンジョンへ入ることも考えるなら、痛みが増えたかどうかだけで判断し続けるのは心許ない。
「俺たちだけで見ていても、分からないことがありますからね」
エルザがこちらを見る。
「ノワールさんは、かなり細かく見ていますけど」
「……専門家という訳ではありませんので」
ヴェラは少し間を置いて、頷いた。
「分かりました。診察を受けます」
◆
朝食を終えたあと、俺たちは冒険者ギルドへ向かった。受付でミラへ声をかける。
「少し聞きたいことがあるんですが」
「はい。どうしました?」
「古い脚の怪我を、一度きちんと診てもらいたくて。そういう場合は、どこへ行けばいいでしょう」
ミラの視線がヴェラの右脚へ向いた。
「今すぐ治療が必要な状態ではないんですよね?」
「はい。昨日も依頼へ出ています。悪化したわけではありません」
「でしたら、大聖堂の治療所がいいと思います」
「大聖堂ですか」
「怪我人だけでなく、長く残った症状も診てもらえます。治癒術師もいますし、必要なら他へ繋いでもらえますよ」
ミラは少し間を置いた。
「午前なら診察を受け付けているはずです。ただ、混んでいる日は待つと思います」
「分かりました。ありがとうございます」
俺たちはそのまま大聖堂へ向かった。
◆
大聖堂へ入るのは初めてだった。正面の礼拝堂は高い天井と白い石柱に囲まれている。その奥には、円卓の案内所で見たものよりずっと大きな女神像が立っていた。それを見つけた途端、エルザの髪からリンがふわりと浮かぶ。
「リン?」
エルザが足を止める。リンはそのまま女神像へ向かい、肩のあたりで静かに止まった。
「食事ですかね」
「たぶん」
「え?」
ヴェラが首を傾げた。
「リンは女神像で食事しているみたいなんです」
「え?」
ヴェラはまだ首を傾げている。俺も言っていて変だと思う。白い雫の輪郭が、少しずつ淡く明るくなる。しばらくすると光は元へ戻り、リンは何事もなかったようにエルザの髪へ戻ってきた。
ちりん。
「『もういい』だそうです」
「ここでも食べられるんですね」
「そうみたいですね」
ちりん。
エルザが女神像を見上げ、それからリンを見る。
「……『おおきい』」
「大きいと沢山食べられるのでしょうか?」
リンはもう一度だけ鳴いて、髪の中へ収まった。ヴェラはまだ首を傾げていた。俺たちは治療所のある奥へ向かう。
進むにつれて、祈りの場とは違う空気が混じり始めた。包帯を巻いた人や杖をついた老人の間を、湯桶や布を抱えた白衣の人たちが行き交っている。薬草と煮沸した布の湿った匂いに、わずかな血の匂いが混じっていた。
受付で診察希望を伝えると、若い女性がヴェラの名前と症状を聞き取り、木札を渡してくれた。
「順番にお呼びしますので、こちらでお待ちください」
「分かりました」
壁際の長椅子へ座る。
しばらくして、見覚えのある姿が廊下の奥から現れた。
「エリカさん?」
《翠緑の円卓》のエリカだった。向こうもこちらに気づく。
「あら? 皆さん。今日はどうされたんですか」
「仲間の脚を、一度診てもらおうと思いまして。こちら、〈コンパス〉のヴェラさんです」
エリカにヴェラを紹介する。続いてヴェラが口を開く。
「はじめまして。ヴェラと申します」
「エリカです。よろしくお願いします」
エルザの視線を感じる。しかし、俺の視線はエリカの頭に固定している。抜かりはない。エリカの視線がヴェラの足へ向けられる。
「右脚ですか」
「はい。悪化したわけではありません。ただ、この先もう少し動くなら、一度専門の方に見てもらった方がいいかと思って」
「なるほど」
エリカが一度、ヴェラの右脚へ目を向けた。
「それなら、私より適任がいます」
その言葉に引っかかった。私より。エリカも診られるということだろうか。
「少し待っていてくださいね」
「はい?」
「呼んできますから」
聞き返す間もなく、エリカは廊下の奥へ消えた。エルザが小さく首を傾げる。
「適任、だそうです」
「そうですね」
「エリカさんも治療に詳しいのでしょうか」
「さあ」
俺たちが知っているのは、《翠緑の円卓》を取りまとめている人だということくらいだ。
しばらくして、エリカが戻ってきた。隣に、白い衣を着た女性がいる。シスターだ。二十代半ばほどに見えた。
淡い色の長い髪を背中へ流し、白衣の袖口には細い金糸の刺繍が入っている。
「こちらがリヴィアです」
「初めまして」
女性は一度、きちんと姿勢を整えた。
「こちらの大聖堂にて治療に従事させていただいております、リヴィアと申します。以後、お見知り置きを――」
途中で止まった。俺たちを見る。次にエリカを見る。
「……エリカの知り合いなんですよね?」
「はい」
「じゃあ、いいよね」
急に肩の力が抜けた。
「私はリヴィアだよ。よろしく」
「……ノワールです」
変わり方が急だ。エリカが呆れた顔をしている。
「こちらがエルザさんと、ヴェラさんです」
リヴィアはヴェラに視線を向けた。
「うん。その子の右脚だよね?」
「はい」
「じゃあ――」
「聖女様!」
廊下の向こうから声が飛んだ。俺たち三人の視線が同時にリヴィアへ向く。聖女?リヴィアはもう振り返っていた。
「何?」
「外から怪我人です! 脚からの出血がひどくて!」
「意識は?」
「あります。ただ、かなり弱っています」
「奥は?」
「埋まっています!」
「じゃあここでやる。そこに運んで!」
リヴィアが待合の一角を指した。そこには簡素な処置台があった。
「洗浄、水、布。あと固定板!」
「はい!」
返事と同時に周囲が動いた。
「ごめん。ちょっと待ってて」
それだけ言うと、リヴィアは白衣の袖をまくった。俺たちの目の前へ担架が運び込まれる。載せられていた若い男は顔色が白く、右脚に巻かれた布が赤黒く染まっていた。左腕も板で固定されている。
「ここに寝かせて。右脚押さえたまま!」
担架から処置台へ移す。
「エリカ、右脚。奥まで閉じないで、出血だけ抑えて」
「分かった」
エリカが患者の右脚へ手を向けた。淡い光が伸びた。
「……え?」
思わず声が漏れた。エルザも目を見開いている。治癒魔法。エリカが使えるとは、聞いたことがなかった。
患者の脚が動いても、エリカの光は血に染まった場所から外れない。傷全体を覆うのではなく、狭いところだけを追い続けている。
「布外すよ。押さえ直して」
リヴィアの指示で、血に染まった布が外された。
深い傷が見える。泥。砂。細かな石片。
俺は傷を見る。
次に患者の顔。呼吸。唇の色。目の動き。
ふと、視線を感じた。その方向に目をやる。リヴィアと目が合った。だが、次の瞬間にはリヴィアは患者に声を掛けていた。
「聞こえる?」
リヴィアが患者へ顔を寄せた。
「……う……」
「よし。今から脚洗うよ。ちょっと痛い。でも痛みは減らすから」
スタッフへ向けていた声とは違い、患者へは柔らかい。リヴィアの指先に紫がかった光が灯った。エリカの治癒魔法が放つ光とは違う。
「呼吸見てて。浅くなったら言って」
「はい!」
「エリカ、そのまま」
「分かってるわよ」
「閉じすぎないでよ」
「分かってるって言ってるでしょう!」
「一応だよ!」
傷へ水が流される。布で拭う。石片が一つずつ取り除かれていく。
リヴィアの手は止まらない。最後の異物を取り除いたところで、顔を上げた。
「エリカ、代わるよ」
「お願い」
エリカの光が消える。ほとんど間を置かず、リヴィアの両手から治癒魔法の光が放たれて、エリカの光の残滓と重なった。
傷の縁。その奥。少し外側。
一度に全部ではない。位置を変えながら、一つずつ治している。
「意識、保ててるわね」
エリカが言う。
「ありがと」
リヴィアは患者を見る。
「もう少しだからね」
患者の目がわずかに動いた。
「よし。脚はここまで」
すぐに左腕へ移る。
「固定外して」
指先で骨の位置を確かめた。
「ずれてる。戻すよ。押さえて」
紫色の光がもう一度灯った。すぐそばで見ていた。傷だけではなく。処置の順番も。
患者の顔を見るタイミングも。どこか覚えのある動きだった。
◆
処置が終わるまで、それなりに時間がかかった。患者が奥へ運ばれていくのを見送ると、リヴィアは手を洗い、布で水気を拭ってから大きく息を吐いた。
「よし」
額に張りついた髪を手の甲で払う。
「待たせたね」
「大丈夫だったんですか?」
「うん。かなり血を失ってるから今日は寝かせるけど、今すぐどうこうって状態じゃない」
その後ろで、エリカも手を拭いている。
「エリカさん」
「はい」
「治癒魔法を使えたんですね」
「あ」
エリカが少し目を瞬いた。
「言っていませんでしたか」
「聞いてません」
「使えます」
とてもあっさりとしていた。
「さっき、動いている傷にずっと当てていましたよね」
「止まってくれる怪我人ばかりではありませんから」
リヴィアが横から口を挟む。
「それ、エリカが上手なんだよ」
「リヴィアもできます」
「できるけど、あんまりやりたくない」
「できるんですね」
何か技術がいるのだろうか?
「できるけど、治療台で落ち着いてやるなら私の方が得意。動きながらやるならエリカの方が得意。そんな感じだよ」
「わかったような、わからないような」
「わかってよ」
エリカが小さく息をついた。
「治したい場所から外さずに、魔法をかけ続ける必要があるんです。動いている相手だと、その分難しくて……そのくらい説明しなさいよ、リヴィア」
「そういうこと」
遠慮のないやり取りだった。
「じゃあ、今度こそヴェラの脚見ようか」
「お願いします」
「そんな固くならなくていいよ。痛いことは多分しないから」
「多分、ですか」
「確認のために押したりはするし」
ヴェラが少しだけ姿勢を正した。
「承知いたしました」
「うん。やっぱり固いね」
◆
診察用の椅子へ移り、ヴェラが右脚の革帯を外す。リヴィアはその前へ腰を下ろした。
「今、一番困る動きは?」
「右へ急に向きを変える動作です。長く歩いた後は、右脚の踏み替えも遅くなります」
「痛いところは?」
ヴェラが脛から膝の外側を示す。
「ここ?」
「もう少し下です」
「この辺」
「はい」
「分かる?」
指先で触れる。
「分かります」
「こっちは?」
「少し弱いです」
「じゃあ左も比べるね」
反対側にも同じように触れる。リヴィアは足首を上下に動かし、内側と外側へもゆっくり倒して反応を確かめた。
「私が押すから、戻してみて」
リヴィアが手を当てる。ヴェラが押し返す。
「もう一回」
何度か繰り返すうちに、リヴィアの口数が減った。膝から脛、ふくらはぎへ順に触れ、左右を見比べる。右の方が少し細い。
「一回、治癒かけるよ」
右脚へ手を添える。淡い光が狭い範囲へ留まった。少しずつ位置を変えながら、しばらく続く。
「はい。立ってみて」
ヴェラが立つ。
「ゆっくり歩いて。良く見せようとしなくていいからね」
「はい」
室内を往復する。
「どう?」
「変化は感じません」
「だよね」
リヴィアはすぐ頷いた。
「治癒が効いてないっていうより、治す種類が違う」
「治せませんか」
「治癒魔法じゃ、元通りにはできない」
言葉を濁さなかった。
「長く続いた神経の障害と、それに伴って落ちた筋力がある。今できた傷が残ってるわけでも、骨がくっついてないわけでもないから」
リヴィアが自分の脚を軽く叩く。
「治癒魔法って、身体が治ろうとしてるところを手伝うのはすごく得意なんだよ。でも、何年も前の状態をそのまま持ってくる魔法じゃない」
ヴェラは右脚へ目を落とした。
「では、このままでしょうか」
「いや。それは違う」
返事は早かった。
「魔法だけで元通りにできないってだけ」
補強革帯を見る。
「道具で支える。使える筋肉は使う。苦手な動きを減らす。動き方を変える。やれることはあるよ」
「はい」
「それと、痛みが増えたら止める」
「承知いたしました」
「今の状態なら、ずっと休ませる必要もないと思う。ただ、急な方向転換を何度も繰り返すような訓練は避けて」
今度は俺たちを見る。
「本人が痛いって言ったら、その時点で内容を変える。それでいいと思う」
「分かりました」
「あとは身体に合う装具を用意出来れば、かなり動くのに困らなくなるはず。それを目標にすると良いよ」
少し間をおいて、リヴィアは言葉を続けた。
「魔法で戻らないからって、何もできないわけじゃないよ。使えるものは使おう」
エルザが手帳へ書き留める。リヴィアがそれを見る。
「記録してるんだ」
「はい。経過を残しています」
「それはいいね。前が分からないと、良くなってるか悪くなってるか判断しにくいし」
エルザの羽ペンが少し速くなった。
◆
診察が終わり、ヴェラが革帯を巻き直している時だった。リヴィアが三人を順に見る。
「そういえばさ。三人とも落人なの?」
一瞬、誰から答えるのか迷った。
「俺は落人です」
先に口を開く。
「私もです」
エルザが続いた。ヴェラは一度、俺とエルザを見た。
「私は、この世界で生まれました」
初めて、ヴェラ本人の口から聞いた。考えてみれば、ヴェラがこの世界の人間であることを、俺はそうだろうと理解していただけだった。
本人に確かめたことはない。
ヴェラもこちらを見ている。同じだったのかもしれない。
「そっかそっか」
リヴィアが頷く。
「ごめん。普通に聞いちゃった」
「問題ありません」
エリカが横から口を挟んだ。
「ちなみに、私も落人です」
「え?」
思わず振り返る。
「私も落人なんですよ」
エリカが何でもないことのように言った。
「リヴィアもです」
「うん。私も」
リヴィアが手を上げる。二人とも、現実の世界から来た人間だった。リヴィアが俺を見る。
「じゃあ、聞いてもいい?」
「何でしょう」
「ノワールって、向こうで医療やってた?」
答えかけて、止まった。セイの顔が浮かぶ。《授かり》のことを話した時。誰に何を話したのかを、最初に確認された。
珍しい力は、それだけで使い道を考える人間がいる。身体の中の流れが分かること。その流れへ触れられること。それらが《授かり》だったとしたら。
セイの言葉が蘇る。
『その人がどう生きてきたか。何を強く抱えてきたか。為し得なかった何かと結びつく――』
看護師としての経験が《授かり》に結びついている可能性はある。
それでも、職業を明かしただけで、身体の中の流れが分かることや、それに触れられることまで辿られるとは思えない。
「……看護師をしていました」
リヴィアの目が少し細くなった。
「だよね? だよね?」
「分かりました?」
「さっきの患者見てる時」
「はい?」
「顔とか呼吸も見てたでしょ。傷だけじゃなくて」
リヴィアが自分の目元を指す。意識していた覚えはない。
「癖みたいなものですね」
「長かった?」
一瞬だけ迷う。
「それなりの期間です」
「そっかそっか」
それ以上は聞いてこなかった。
「リヴィアさんも、現実で医療を?」
「うん。医者」
今度はあっさり返ってきた。
「救急をやることが多かった」
「なるほど」
「やっぱり分かっちゃった?」
「なんとなく」
処置の順番。指示の短さ。患者への声のかけ方。
魔法とは別のところに、知っている空気があった。
「こっち来た時は、もう医療やらないつもりだったんだけどね」
リヴィアが白い袖をつまむ。
「現在、このような仕儀と相成っております」
唐突な態度の変化に俺は黙った。
「こうやって聖女らしく振舞えってうるさく言われるんだけど難しいんだよね」
「タメ口の方が良いですね」
「でしょ。私もそう思う」
少し笑う。
「ノワールは?」
「何ですか?」
「こっちでも医療やろうとは思わなかったの?」
すぐには答えが出なかった。
剣。水魔法。冒険者ギルド。
この世界へ来て、自分で選んできたもの。
「……今は、冒険者です」
それだけ答えた。リヴィアは少し待った。
けれど、続きを求めなかった。
「そっか」
「はい」
それで話は終わった。
◆
二人に礼を言い大聖堂を出ると、昼の鐘が鳴り始めていた。
「どうでした?」
歩きながらエルザがヴェラへ尋ねる。
「治癒魔法では治らない理由を、理解できました」
ヴェラは右足で一度地面を踏み直した。
「でも、できることもあると教えていただきました。聞けて良かったと思います」
大聖堂の白い壁が少しずつ遠ざかる。頭に残っているのは、ヴェラの脚だけではなかった。動く傷を追い続けたエリカ。目の前の患者へ迷いなく手を伸ばしたリヴィア。
そして。
――こっちでも医療やろうとは思わなかったの?
俺は腰の剣へ手をやった。
「ノワールさん?」
「何でもありません」
手を離す。
「帰りましょう」
三人で、大通りへ向かった。




