第48話 伏せてください
冒険者ギルドへ入ると、朝の湿った空気に、靴底の音と話し声が重なっていた。掲示板の前には、まだ新しい依頼票が何枚も残っている。
「今朝なら、街中の運搬、東門外の平地採取、それから北東街道脇の巡回確認ですね」
エルザが三枚の依頼票を順に指した。手帳は開いていない。リンはエルザの指を追って漂っている。邪魔だ。
「どれにします?」
俺が聞くと、ヴェラは一番右の依頼票へ目を向けた。
「三番目がよいと思います」
「巡回確認ですか」
「はい。距離は長くありません。途中に休める場所もあります」
一度、右足首の補強革帯へ触れる。
「橋の周辺は昨夜の雨で足場が悪いと思いますが、急いで右へ切り返す場面が続かなければ対応できます」
「俺もそれでいいと思います」
エルザも頷いた。
「では、これにしましょう」
受付へ依頼票を持っていくと、ミラが受諾簿を開いた。
「北東街道脇の排水路と石橋周辺ですね。前夜の雨で、斜面から少し土砂が落ちています」
依頼票へ視線を落としながら続ける。
「橋脚の亀裂と、斜面の崩れを確認してください。橋の下へ深く入る必要はありません。危なそうなら触らず、場所だけ報告してください」
「分かりました」
受諾印の乾いた音が鳴った。
◆
北東門を抜けると、街道の石畳は雨を含んで黒く濡れていた。窪みには水が残り、轍の泥から湿った土と腐葉土の匂いが立っている。道幅が狭くなったところで、右側を歩いていたヴェラがこちらを見た。
「ノワール様、少し内側へお願いします」
「はい」
左へ寄る。昨日合わせた、ヴェラの丸盾の内側から動ける位置だ。エルザも後ろで水溜まりを避けながら中央へ寄った。
「このくらいですか」
「はい。届きます」
しばらく歩くと、前方に古い石橋が見えてきた。幅は狭く、下を流れる排水路には濁った水が勢いよく流れている。橋脚には太い枝や流木が絡みつき、水に押されるたび、ゴト、ゴト、と鈍い音を立てていた。
「まず橋脚を見ます」
エルザが手帳と筆記具を取り出す。俺も橋の脇へ目を向けたところで、泥の上に残った跡が目に入った。前脚の爪が深く食い込んだ、小さな足跡。一つではない。
「ノワール様、エルザ様」
少し先にいたヴェラが、声を落とした。視線は橋の下から、石橋脇の斜面へ移っている。
「獣の足跡が二方向に分かれています。橋の下へ入るものと、斜面へ上がるものがあります」
俺も斜面を見る。湿った土の上に、爪の跡が点々と続いていた。
「エルザさんは後ろと斜面を。ヴェラさんは橋側をお願いします。俺は真ん中にいます」
「はい」
「分かりました」
役割を決めた直後、橋の下から低い唸り声が漏れた。
◆
シャッ、と濡れた石を引っ掻く音が響く。暗がりから、小型の魔物が這い出してきた。狐ほどの大きさで、土色の短い毛に覆われ、前脚には太い爪がある。濡れた石へその爪を立てたまま、低く身を沈めていた。
マッドクローだ。
「橋側、一体です!」
ヴェラが短槍を構え、丸盾を前へ出した。マッドクローが石を蹴る。ガツン、と爪が丸盾へ当たった。ヴェラが身体を引きながら盾の向きを変える。
「右へ流します!」
「はい!」
盾の内側から前へ出る。横へ流れたマッドクローの肩口へ剣を走らせると、甲高い声を上げて泥の上へ転がった。その直後、斜面から小石が落ちてきた。
「上に二体。降りてきます!」
エルザが短剣を抜き、声を飛ばす。一体が斜面を駆け下りてくる。ヴェラの視線が橋側と斜面を往復した。
「橋へ寄ると、後ろへ回られます。中央の方が見えます!」
「追いません。中央へ戻ります!」
俺が声を返した時には、斜面のマッドクローが跳んでいた。
「エルザさん!」
爪が外套の肩を掠める。エルザが地面を蹴って横へ逃れる。
「大丈夫ですか!」
「服だけです!」
エルザは肩へ手をやり、すぐに短剣を構え直した。血は出ていない。
◆
三人で街道の中央へ下がった。ヴェラが右側へ出る。俺はその盾の内側に入り、エルザが左後ろへ回った。追ってきたマッドクローが低く跳ぶ。
ヴェラの丸盾が鼻先を弾いた。身体が横へ流れる。そこへ踏み込み、喉元へ剣を突き立てた。マッドクローが地面へ落ち、そのまま動かなくなる。
最初に斬った個体は橋の下へ逃げ込み、暗がりへ消えていた。残る一体は斜面の上で身を低くしている。俺は剣先を向けたまま、橋側と斜面を見比べた。
追う必要はない。
その時、斜面上のマッドクローが地面を強く蹴った。ざらっ、と土の擦れる音がした。俺の視線は、斜面上を走る魔物を追う。
その瞬間、ヴェラの声が響く。
「伏せてください!」
考えるより先に膝を折った。隣でエルザの身体も沈む。直後、いつの間にか近づいていたヴェラが俺たちの上に丸盾を斜めに掲げた。続けざまに盾を叩く音がした。
ガン、ガン、と硬い音が続く。
最後に、ひときわ重い音が盾の縁で響いた。衝撃にヴェラの左腕と肩が大きく揺れる。それでも盾は下がらなかった。
弾かれた岩が俺の肩口すれすれを通り、泥へめり込んだ。頭ほどの大きさがあった。
◆
土の崩れる音が収まった。
顔を上げる。
斜面にいたマッドクローは、すでに林の奥へ走り去っていた。
「追いません。周りを見ます」
立ち上がりながら言う。
「こちらにはいません」
エルザが斜面を確認する。ヴェラも丸盾を下ろした。
「脚は?」
「痛みは増えていません」
「腕はどうです」
ヴェラが左手を開いて、握り直す。
「少し痺れています。動かせます」
「盾は?」
「破損はありません。固定帯も大丈夫です」
「助かりました」
ヴェラがこちらを見る。
「説明する時間がありませんでしたので」
それだけ言って、もう一度斜面へ目を向けた。エルザが裂けた外套の肩を確かめながら聞く。
「落石には、いつ気づきました?」
「マッドクローが斜面を蹴った時です」
「私は気づいていませんでした」
エルザは手帳を開き、短く書き込んだ。橋脚には、大きな亀裂は見当たらなかった。排水路には枝が詰まり、さきほど石が落ちた斜面の土は大きく崩れている。倒したマッドクローの素材は回収しなかった。
ここで長く作業する理由はない。位置だけ記録して、王都へ戻ることにした。
◆
帰りの街道を歩きながら、俺はさっきのことを思い返していた。
「ヴェラさん」
「はい」
「中央へ戻った方がいいとは、もっと前から思ってました?」
ヴェラは少し考えてから頷いた。
「足跡が二方向に分かれているのを見た時から、橋側へ寄りすぎない方がよいと思っていました」
「でも、戻るとは言わなかった」
「……はい」
ヴェラの歩調が少しだけ遅くなる。
「私が決めてよいことか、判断できませんでした」
「分かりました」
それ以上は聞かなかった。しばらく濡れた街道を歩く。
「さっきみたいに、すぐ動かないと危ない時は、俺の判断を仰がなくていいです」
ヴェラがこちらを見る。
「そのまま言ってください。俺も動きます」
少し間があった。
「……分かりました」
後ろを歩いていたエルザが口を開く。
「私もすぐに動きます」
「俺たちは素直ですからね」
「……ノワールさんが素直ですか……」
「そうですよ?」
ちりん。
そこからは、みんな黙って歩き続けた。
◆
ギルドへ戻り、ミラへ橋と斜面の状態を報告した。
「橋脚に大きな亀裂はありません。排水路に枝が詰まっています。斜面は一度崩れていて、また落ちるかもしれません」
エルザが続ける。
「マッドクローは三体。一体討伐、一体は負傷して橋下へ退避、一体は林へ逃走しました。追っていません。死体もそのままです」
「負傷は?」
「大きな怪我はありません。ヴェラさんの左腕に少し痺れが出ましたが、動かせています。あとは外套だけです」
エルザが肩を示す。ミラは受諾簿へ書き込みながら頷いた。
「斜面は死体の回収も含めて作業班へ回します。橋の下へ入らなかったのは正解です」
完了印を受け、俺たちは〈鈍色亭〉へ戻った。
◆
一階の食堂の隅で、女将さんが針箱と当て布を卓へ置いた。
「今日はこれで留めときな。本縫いは乾いてからだ」
「ありがとうございます」
エルザは外套を膝へ広げ、裂けた肩の裏へ当て布を置いた。ヴェラが隣へ座り、布端を押さえる。
「もう少し内側から針を入れた方が、引かれても裂けにくいと思います」
「では、ここを押さえていただけますか」
「はい」
二人が仮縫いをしている間に、俺は三人分の湯を注いだ。
しばらくして、エルザが針を置く。
「今日はここまでにします」
「女将さんにも言われましたからね」
「乾いてからです」
エルザは外套を畳み、それから手帳を開いた。橋脚や斜面、マッドクローについて、現場で書いた短い記録が並んでいる。その下に、一行だけ追加されていた。
『落石直前、ヴェラが「伏せてください」と発声。二名即応。』
ヴェラはその一行を見た。少しして、手帳から自分の左手へ視線を移す。リンが近くまで寄ってきて、その手の周りをゆっくり漂った。ヴェラは左手を開いたまま、リンの動きを目で追っていた。




