第47話 半歩下がる
朝になっても、ヴェラの右脚に新しい痛みは出ていなかった。朝食のあと、俺たちは職人区のはずれにあるドランの稽古場へ向かった。昨日直した丸盾を、動きの中で確かめるためだ。土間へ入ると、ドランは壁際で腕を組んでいた。
「悪化はありません」
ヴェラはドランに聞かれる前に脚の状態を報告した。ドランは少しヴェラを見た後、俺の方を向く。
「……お前に似てきてないか? やめさせろ」
どうやら俺は見習ってはいけない存在らしい。しらなかった。ドランは改めてヴェラに声を掛けた。
「盾は」
ヴェラが左腕を通し、握りを確かめる。
「昨日より滑りません。留め具も当たらなくなりました」
「ならやれ」
いつも通り、短い。俺は壁際から木剣を取り、仮想敵として吊るされた革袋の前へ立った。
ヴェラが右側で丸盾を構える。エルザは少し離れた左後ろへ回り、手帳を開いた。その髪にはいつもどおりリンが留まっている。
エルザが羽ペンを持ち上げた。そのまま紙へ下ろしかけて、手を止める。
「今日は、先に書かないんですか」
「まず動いてからにします」
「珍しいですね」
「昨日、書いた位置から変わりましたから」
エルザは手帳を開いたまま、俺たちを見る。
「いきます」
「はい」
「正面」
ヴェラの丸盾が右へ開いた。俺の視界には革袋までの道が残っている。盾の縁を横目に見ながら前へ出て、木剣を振った。バツン、と革袋が鳴る。
戻る。
「滑りません」
ヴェラが握りを開いて、もう一度握った。
「こっちからも邪魔にはなっていません」
俺が言うと、エルザも頷いた。
「今のところ、二人の動きは重なっていません」
壁際からドランの声が飛ぶ。
「一回で終わるなら稽古はいらねえ」
「ですよね」
元の位置へ戻る。
「もう一度いきます」
エルザが俺たちを見た。その前に、ヴェラが口を開いた。
「ノワール様」
「はい」
「半歩下がってください」
「俺がですか?」
「はい」
ヴェラは丸盾を構えたまま、俺の立っている場所を見る。
「今の位置では、ノワール様が前へ出るたびに、私も盾を届かせるため前へ出る必要があります」
自分の右脚へ一度目を落とす。
「その分、右脚を踏み替える回数が増えます」
「なるほど」
「半歩後ろであれば、私が追わなくても盾を入れられます。そこから前へ出ていただけますか」
俺は革袋とヴェラの盾を見比べた。前へ出ることばかり考えていたせいか、自分の立つ場所を後ろへ動かす発想はなかった。
「やってみます」
半歩下がる。壁際のドランを見ると、腕を組んだまま傍観している。
「いきます」
エルザの声に合わせて構える。
「正面」
ヴェラが盾を開く。今度は、丸盾の内側に俺が入っていた。右側を盾に預け、その内側から革袋へ向かう。前へ出ても、ヴェラは追ってこない。
木剣が革袋を叩いた。
「……こっちの方が楽ですね」
元の位置へ戻りながら言う。
「私も、右脚を一度動かすだけで届きます」
「では、これで――」
言いかけて、ヴェラが首を振った。
「もう少し左へ開いてください」
「まだ近いですか」
「はい。今は短槍を出していませんが、柄が重なると思います」
ヴェラが腰の短槍を少し持ち上げる。俺も木剣を構え直した。
「このくらい?」
「はい。エルザ様も、少し中央へ寄っていただけますか」
「分かりました」
エルザが場所を変える。三人で構え直したところで、ドランが声を飛ばした。
「そこで覚えるな!」
「え?」
「動いたら変わる。合わせろ!」
それだけ言って、革袋を手で押した。吊り縄が軋み、重い袋が横へ揺れる。
「続けろ!」
「はい!」
エルザが手帳を閉じた。
「右から来ます!」
揺れて戻ってくる革袋に合わせ、ヴェラが盾を開く。
「ノワール様、少し後ろへ!」
「はい!」
俺が下がる。
「左へ行きます!」
今度は俺が声を出し、盾の内側から外へ出る。
「エルザ様、中央をお願いします!」
「分かりました!」
革袋が戻る。止まる。また揺れる。そのたびに三人の位置が少しずつ変わった。
何度か木剣の柄が盾へ近づき、そのたびにヴェラか俺が声を出す。決めた場所へ戻るより、その場で邪魔にならない位置を探す方が忙しい。
「止めろ!」
ドランの声で動きを止めた。呼吸を整えながら、木剣を下ろす。ドランは土間に散った俺たちの足跡を一度見た。
「今のを形だと思うな。道が変わりゃ、また変えろ」
「はい」
「今日は終わりだ」
「ありがとうございました」
木剣を壁へ戻した。ヴェラも丸盾を外し、握り革を指で押す。
「滑りはありません」
「昨日直した留め具のところは?」
「こちらも問題ありません」
「よかったです」
エルザが、そこで初めて手帳へ羽ペンを下ろした。
◆
稽古場を出ると、職人区の通りには朝の槌音が重なっていた。
「俺が下がる方は考えてませんでした」
歩きながら言うと、ヴェラがこちらを見る。
「前へ出ていただく方が攻撃はしやすいと思います」
「でも、そのたびにヴェラさんが追っていたんですよね」
「はい。右側を庇うには、その必要がありました」
「それなら、俺が少し下がった方がいいですね」
ヴェラは小さく頷いた。
「場所によると思います」
「ドランさんと同じ答えですね」
「そうでしたか?」
隣からエルザが口を挟む。
「『道が変わりゃ、また変えろ』です」
「しっかり覚えてますね」
「大事なところでしたから」
エルザの髪で、リンが小さく揺れた。
◆
今日は新しい依頼を受けず、昼前には〈鈍色亭〉へ戻った。ヴェラの脚が野外へ戻れるところまで回復したとはいえ、連日負荷を増やす必要はない。昼食のあと、俺たちは宿の裏手へ回った。井戸の脇には建物の影が落ちている。
荷袋から、短い鉄棒を取り出した。
「またやるんですか」
エルザが言った。
「まだ使えるところまで行ってませんからね」
「今日は稽古のあとです」
「短くします」
エルザがこちらを見る。
「短く、ですね」
「はい」
釘を刺された。鉄棒を右手に持つ。左手から水を出し、表面へ薄くまとわせた。そのまま冷やす。
透明な膜が鉄へ張りつき、白く曇る。
軽く振る。端から細かな亀裂が走った。もう一度やる。
今度は少し厚くする。振った瞬間、まとまった氷がずれて、片側から剥がれた。
「やっぱり、全部くっつけようとすると駄目ですね」
布で鉄棒を拭う。ヴェラが、手にした丸盾の握りを見た。
「この盾も、全部をきつくしたわけではありません」
「昨日の調整ですか」
「はい。掌が滑る場所だけ毛皮を当てました。固定帯も、締め切らずに留め具の位置だけ変えています」
丸盾を少し開き、手首を返す。
「ここが動けば、盾の向きを変えられます」
「必要なところだけ止める……」
鉄棒へ目を戻した。全面へ水をまとわせ、両端と中央だけを細く凍らせる。その間は水のまま残した。鉄棒を振る。
一度目は剥がれなかった。
「残りましたね」
エルザが鉄棒を見る。
「もう少し強く振ります」
「周りには向けないでください」
「分かってます」
身体の横で、少し強く振る。中央の氷が滑った。端の氷も傾き、その間の水が片側へ寄る。
「……駄目ですね」
「剥がれはしませんでした」
「でも、ずれました」
ヴェラも鉄棒を見る。
「動かした時に残る形には、まだなっていませんね」
「そうですね」
俺は水を落とし、鉄棒を布で拭った。エルザが手帳を開く。
「両端と中央だけ凍結。全面より剥がれにくい。中央が滑り、位置は保てない」
「……正しい記録ですね」
「確認できたのは、ここまでです」
これ以上続ける前に、鉄棒を荷袋へ戻した。
「今日はここまでにします」
「はい」
エルザの返事が、少し早かった。
◆
夕方、食堂で野菜の煮込みが出てきた。器を持つと、昼間に冷えた指先に熱が戻る。
「温かいものがありがたいですね」
「水でも触ったのかい?」
女将が空いた皿を回収しながら言った。
「氷をいじってました」
「遊ぶのもほどほどにした方が良いよ」
「はい」
向かいでエルザが煮込みを口へ運ぶ。食後、エルザが手帳を開いた。朝の稽古で動いた三人の位置が、簡単な印で残っている。ヴェラがそのページを覗き込んだ。
「ノワール様は、ここです」
俺を示す印へ指を置くと、少し後ろへ動かし、丸盾の内側へ入る位置で止めた。エルザが、その場所へ小さく印を付けた。




