第46話 決めたこと
〈鈍色亭〉へ戻った頃には、窓の外が薄暗くなっていた。食堂では夕食の時間が始まっている。厨房から煮込みの匂いが流れ、木の器が重なる音に、客の話し声が混じっていた。革職人に直してもらった丸盾は、ヴェラの椅子の脇に立てかけてある。
握り革の掌側には毛皮が縫い付けられ、固定帯も少し位置が下げられている。食事が来る前にも一度確かめていたが、ヴェラは時々そちらへ目を向けていた。
「気になります?」
「はい」
「合わなかった?」
「いえ。逆です」
ヴェラが首を振る。
「以前より、握りやすくなりました」
「なら良かったです」
向かいに座ったエルザが手帳へ何かを書き足した。羽ペンが紙を擦る。
「盾を返す時の引っかかりも減ったようでした」
「もう記録したんですか」
「先ほど確認しましたので」
「相変わらず早いですね」
「記録は忘れる前に書くものですよ?」
それはそうなのだが。俺はパンをちぎりながら、ヴェラを見る。今日の稽古では、俺の勘違いを訂正した。革職人の店では、自分に合わないところを説明し、固定帯の位置も自分から直してほしいと言った。
ここ数日で急に物を見る目が変わったわけではない。多分、前から見えていた。
「ヴェラさん」
「はい」
「一つ聞いてもいいですか」
ヴェラの背が少し伸びた。
「何でしょうか」
「今日みたいに、誰かの動きがおかしいとか、道具の位置が違うとか。そういうのを見つけるの、慣れてますよね」
ヴェラはすぐには答えなかった。エルザの羽ペンも止まる。周りの客の声だけが、その間を埋めた。
「……そう見えますでしょうか」
「少なくとも俺よりは得意そうです」
エルザが口を挟んだ。
「私もそれは感じていました」
ヴェラが丸盾へ目を向けた。
「……騎士家では、そのように教わります」
「周りを見ることを?」
「はい」
ヴェラは膝の上へ手を置いた。
「自分だけが敵を止めれば良いわけではありません。隣が動けるか。後ろが離れられるか。誰かが前へ出すぎていないか。盾を持つ者は、そうしたことも見なければならないと教わりました」
今日の稽古で、俺がヴェラの前へ入りかけた時。
あれを指摘できたのも、その延長なのだろう。
「声も出すんですか」
「指揮をすることもあり得ますので、訓練はしておりました……」
「どんな感じで?」
ヴェラが少し考える。
「下がれ、右を空けろ、前を詰めろ。危険があれば止まれと伝えます」
普段のヴェラからは想像しにくい。言われたことを正確にこなす姿は何度も見てきた。でも、人へ指示を出すヴェラはほとんど見たことがない。
「できるんですね」
言ってから、少し違う気がした。
「いや。できた、ですか?」
ヴェラの指が止まった。
「……はい」
エルザは何も聞かない。手帳も開いたままだが、羽ペンは動いていなかった。紙の上には、さっきまで書いていた文字が残っている。
「今は、できるけどやらない、ですか?」
俺が言うと、ヴェラは一度こちらを見た。それから視線を落とした。
「……必要がありませんので」
「大きな判断は、俺たちに任せてるから?」
「はい」
いつもの答えだった。それだけなら、ここで話は終わる。でも今日は、少し続いた。
「その方が、良いと思っております」
「良い?」
「私が決めるよりも」
食堂の奥で皿が重なる音がした。女将が別の卓へ煮込みを運んでいく。近くでは、仕事を終えたらしい二人組が酒の値段でもめている。ヴェラは黙ったままだった。
俺はパンを置いた。ちぎった断面から細かな屑が卓へ落ちる。
「理由は、聞いても?」
返事はすぐには来なかった。
「話したくなければ、いいです」
「……いえ」
ヴェラが小さく息を吐いた。重ねていた手が、一度だけ動く。
「お伝えしておくべきことだと思います」
「義務として聞いてるわけじゃありませんよ」
「承知しております」
そこはすぐ返ってきた。少しだけ間を置く。
「以前、任務で指揮を任されたことがあります」
声の調子は変わらない。周囲の食事の音も変わらない。その中で、ヴェラの声だけが俺の耳に届いていた。
「最初から全部を任されていたんですか?」
「いいえ」
ヴェラの手が重なる。
「すべてではありません。ですが、現場で私が決めなければならないことがありました」
「そこで?」
「はい」
少し間が空いた。
「私が、行動を選びました」
それだけ言って黙る。続きを待った。
「その結果、人が死にました」
エルザがわずかに顔を上げた。俺も何も言わなかった。
誰が。何人が。どこで。何を選んだのか。聞こうと思えば、詳しく聞ける。
けれど、ヴェラはそこまでしか話していない。
「その判断が、間違っていたんですか」
ヴェラはすぐには答えなかった。
「……分かりません」
「分からない?」
「別の判断をしていれば、誰も死ななかったのか。それも分かりません」
重ねた手に少し力が入る。
「……ですが、あの時に決めたのは私でした」
それ以上は続かなかった。
「右脚を怪我した任務って……」
「同じ任務です」
「そうだったんですね」
「はい」
「指揮から外れたのも、脚だけが理由じゃなかった?」
ヴェラがゆっくり頷く。
「はい。私からも、外していただきたいと申し出ました」
「それからですか」
「はい」
ヴェラが続けた。
「自分で決めない方が良いと思うようになりました」
「命令されたことであれば、その通りに行える」
「はい」
視線が丸盾へ向く。火の灯りが、盾の縁へ細く反射していた。
「状況を見ることもできます。危険を見つけることもできます」
そこで声が少し止まった。
「……ですが、その後を私が決める必要はありません」
「今日、俺が早く動いたのを指摘したのは?」
ヴェラがこちらを見る。
「あれは、事実でしたので」
「職人さんに固定帯の位置を直してもらったのは?」
「私が使う盾ですので」
「それなら言える」
「……はい」
俺はそれ以上は聞かなかった。ふと見ると、エルザの手帳は閉じていた。羽ペンもその上へ置かれている。
「今日は書かないんですか」
俺が尋ねる。
「本人が話したことを、何でも記録するわけではありません」
「そうなんですね」
「そうです」
ヴェラがエルザを見る。
「必要であれば、記録していただいて構いません」
「必要になったら、ヴェラさんに確認します」
「承知いたしました」
エルザは手帳を鞄へしまった。革の蓋が閉じる。ちょうどそこへ女将が煮込みを持ってきた。
「冷める前に食べな」
「ありがとうございます」
木の椀から湯気が上がる。豆と芋、それから細かく切った肉。香草の匂いも混じっている。ヴェラも匙を手に取った。
話を続ける様子はない。俺も続けなかった。しばらく三人で食べる。匙が器へ触れる音だけが、卓の近くで続いた。
「……ノワール様」
「はい」
「先ほどの件ですが」
ヴェラが匙を置いた。
「私が判断すべきことがございましたら、ご命令ください」
少し変な言葉だった。
「判断するように命令してほしいってことですか」
「はい」
「それ、俺が決めてることになりません?」
ヴェラが止まった。
「……はい」
俺も腕を組んで考えてみるが、うまく整理がつかない。何度か首を傾げていると、ふわりとリンが目の前に浮かんだ。ふと見ると、エルザが口元を押さえていた。
「笑ってます?」
「いいえ。煮込みが熱かったんです」
「笑ってますよね」
「熱くておいしいです」
エルザはまだ口元を押さえている。失礼な。ヴェラはまだ考えていた。やがて、真面目な顔のまま言う。
「では、先ほどの発言は撤回いたします」
「そこまでしなくていいですよ」
「しかし、矛盾しております」
「矛盾しててもいいでしょう」
ヴェラがこちらを見る。
「今すぐ全部変えなければいけない話でもないですし」
「……では、必要になった時に、また考えます」
「それでいいと思います」
俺が答えると、ヴェラは小さく頷いた。
「あんたら、しゃべってないで早く食べな!」
カウンターから女将の声が飛んできた。近くの卓の客が一人だけこちらを見た。それは命令だった。俺とヴェラは慌てて匙を持つ。
俺は女将の方を見た。
「今は女将さんの命令に従いましょう」
俺たちは食事を再開した。煮込みを掬う。リンが小さく鳴る。
ちりん。
「なんですか?」
エルザは煮込みを食べながら、リンを見上げた。口の中のものを飲み込むと、こちらを見る。
「……もしかして、俺の悪口ですか?」
ちりん。
エルザが目を伏せた。そして、煮込みを匙で掬いながら答えた。
「……女将さんの命令に従いましょう……」
ヴェラがほんの少し笑った。煮込みは少し冷めてしまったけど、おいしかった。




