第45話 それは違います
翌朝、朝食を済ませた俺たちは、昨日の林で試した配置を確かめるため、職人区のはずれにあるドランの稽古場へ向かった。引き戸を開けると、ドランは土間の奥で短い片刃の剣を砥いでいた。こちらを見ると、いつも通り不愛想に声をかけてきた。
「今日も枝か?」
「いえ、昨日の依頼での動きを確かめようと思いまして」
ドランは壁際に立てかけた木剣を顎で示す。
「やってみろ」
「はい」
俺が木剣を取り、ヴェラは丸盾へ腕を通した。昨日、〈鈍色亭〉で手帳の上に示した位置へ立つ。前へ出すぎず、俺の右側から少し外へ盾を出せる場所だ。エルザは少し離れたところで手帳を開いた。
俺は壁際に吊られた革袋の前へ立つ。
「いきます」
エルザが俺とヴェラを見比べる。
「正面」
ヴェラの丸盾が右へ開いた。昨日の林で視界を塞がれた時より、盾は外側にある。俺の正面には、革袋までの道が残っていた。そこへ踏み込み、木剣を振る。
バツン、と革袋が鳴った。数度揺れ、ゆっくりと元の位置へ戻る。
「今のは邪魔になりませんでした」
俺が言うと、ヴェラも盾の内側からこちらを見る。
「こちらからも、ノワール様の動きが見えました」
エルザの羽ペンが手帳の上を短く走った。
「二人の進路も重なっていません」
壁際からドランの声が飛ぶ。
「それで終わりか」
「もう一度やります」
元の位置へ戻った。さっき木剣を当てた場所を見る。同じように入ればいい。エルザが俺とヴェラの位置を確かめた。
「いきます」
「はい」
「正――」
右足が土間を蹴った。さっきと同じ場所へ身体を運ぶ。その途中、視界の右から丸盾の縁が迫った。
「あっ」
肩が当たりそうになり、ヴェラが咄嗟に盾を引く。俺も木剣を止めたが、踏み込んだ勢いまでは消えない。革袋の脇を抜け、少し先で足を止めた。
「そこまで」
エルザの声が飛ぶ。振り返る。ヴェラは丸盾を引いたまま立っていた。
「大丈夫ですか?」
「はい。接触はしていません」
「よかった」
元の位置へ戻る。一度目と同じつもりだった。
けれど、丸盾が入ってきたのはさっきより遅かった気がする。
「今、少し盾が遅れました?」
ヴェラの指が、握り革の上で止まった。すぐには返事がない。俺を見て、それからエルザへ視線を向ける。もう一度こちらを見た。
「……それは違います」
「私が遅れたのではありません。ノワール様が先に動かれました」
「俺が?」
「はい」
ヴェラは丸盾を抱え直す。
「エルザ様の合図が終わる前に、ノワール様が踏み込まれています」
ドランは腕を組んだまま黙っていた。俺はエルザを見る。エルザが手帳を閉じる。
「私も見ていました」
「……先でした?」
「はい。私が『正面』と言い終える前に、ノワールさんが動きました」
さっきの踏み込みを思い返す。一度目と同じ場所へ入ろうとして、合図を待つ前に身体が出ていた。
「……俺の方ですね」
木剣を下ろす。
「すみません。盾が遅れたと思い込んでました」
ヴェラが少し目を瞬いた。
「はい」
それだけだった。
壁際のドランが顎をしゃくる。
「終わったなら続けろ」
「はい」
俺たちは位置へ戻った。エルザがこちらを見る。
「いきます」
今度は返事のあとも、そのまま待つ。
「正面」
ヴェラの丸盾が右へ開いた。
盾の内側に道ができる。そこへ踏み込み、木剣を振る。革袋が大きく揺れた。
右側に丸盾の縁は見えていたが、ぶつかる距離ではない。
「止めろ」
ドランの声で構えを解く。
「今日はそこまでだ」
「ありがとうございました」
ドランから特に言葉はなかった。木剣を壁へ戻した。ヴェラも盾を下ろす。そのまま握り革を掴んだ左手を一度開き、もう一度握り直した。
「どうしました?」
「右へ開いた時、掌が少し滑りました」
丸盾を裏返し、握り革を確かめる。
「昨日もですか?」
「昨日は、位置を変えることへ意識が向いていました。今朝、同じ動きをしたことで気づきました」
革そのものが切れているわけではない。留め具にも、見える範囲では緩みはなかった。
「昨日の毛皮、ギルドに残っていますよね」
エルザが言った。
「加工に使えるか聞いてみましょうか」
ヴェラは握り革へ指を当てた。
「はい。可能であれば試したいです」
◆
稽古場を出ると、朝の通りには職人たちの槌音が響き始めていた。しばらく三人で歩いてから、俺はヴェラへ声をかける。
「さっきは、言ってくれて助かりました」
「先ほどのことですか?」
「ええ。俺が間違ってましたから」
ヴェラは少し前を向いたまま答えた。
「必要だと思ったので、お伝えしました」
「今後もお願いします」
エルザがこちらを見る。
「私も気づいたら言います」
「ありがたいですが……俺はそんなに間違えそうですか?」
二人とも黙った。
「……気をつけますね」
ちりん。
エルザの近くにいたリンが鳴いた。
「今のは何です?」
「……内緒です」
「……優しいですね」
◆
冒険者ギルドへ着くと、受付にいたミラへ昨日の素材について尋ねた。
「昨日持ち込んだ素材の査定は終わっていますか?」
「はい。少しお待ちください」
ミラは奥の棚から受領札と小さな査定票を持ってきた。
「牙二本と毛皮一枚ですね。どちらも買い取りできます。毛皮は補修材として持ち帰ることもできますよ」
「ちょうど、その毛皮について相談がありまして」
俺はヴェラを見る。ヴェラが丸盾を少し持ち上げた。
「握り革の滑り止めに使いたいです。加工できる工房はありますか?」
ミラが盾の裏側を覗き込む。
「革工房なら対応できると思います。職人区の北通りに、持ち込み素材を扱う店があります」
「では、毛皮は持ち帰ります。牙は売却でお願いします」
「分かりました」
ミラが査定票へ書き込み、牙の買い取り分を数える。毛皮は布へ包み直され、俺たちはそれを受け取った。
◆
職人区の北通りへ入ると、油となめし革の匂いが強くなった。教えられた革工房の軒先には、細い革紐や鞘、補修用の革片が吊るされている。奥では、太い腕の職人が作業台へ向かっていた。
「失礼します」
職人が顔を上げる。
「修理か」
「この丸盾の握りを少し直していただきたいんです」
ヴェラが盾を作業台へ置き、布包みから毛皮を出した。
「この毛皮を、握り革の掌側へ当てられますか?」
職人は毛皮を指で摘み、次に盾の裏を見る。
「滑るのか」
「右へ開いた時に、少し」
「締めりゃいいだろ」
職人が固定帯を引いた。ヴェラは腕を通し、握りを確かめる。それから首を振った。
「これ以上きつくすると、手首を返しにくくなります」
「受けるだけなら締めた方が楽だぞ」
「盾の向きを変えて使いたいです」
ヴェラが丸盾を持ち上げる。正面へ構え、そこから右へ開いた。職人がその動きを追う。
「……なるほどな」
作業台の端から細い刃物を取った。
「毛を短くして、掌の当たるところだけ縫う。それなら動かせる」
「お願いします」
職人は毛皮へ刃を入れた。必要な幅だけ切り出し、毛足を揃える。穴開け具が革を抜く乾いた音が続いた。作業台の上には細かな毛が落ち、油を含んだ革の匂いが鼻に残る。
「少し掛かるぞ」
「分かりました」
俺たちは工房を出た。
◆
加工を待つ間、近くの露店で昼を取ることにした。鍋から湯気を上げていた麦粥と、焼いた根菜を三人分頼む。
「肉もあるよ」
店主が吊るした塩漬け肉を示した。
「では、一切れお願いします」
ヴェラが先に頼む。
「私もお願いします」
エルザが続いた。
「じゃあ俺も」
「三人とも同じだね」
「美味しそうだから仕方ないですね」
俺が言うと、店主は笑いながら肉を切った。通りの端の腰掛けへ三人で並ぶ。麦粥へ塩漬け肉を沈めると、脂が薄く広がった。
「稽古の後には、これくらい塩気がある方がいいですね」
「汗をかきましたからね」
エルザが麦粥を一口食べる。ヴェラも続けて口へ運んだ。
「昨日の焼き芋とは違いますが、こちらも美味しいです」
「塩漬け肉、麦粥に合いますね」
「はい。塩気もちょうどよいです」
◆
昼を済ませて工房へ戻ると、作業台の上に丸盾が置かれていた。握り革の掌側へ、短く刈られた毛皮が縫い付けられている。
「試してみてくれ」
ヴェラが腕を通した。
握りを掴み、正面へ構える。そこから右へ開く。戻す。もう一度、角度を変える。
「滑りません」
「なら終わりだ」
職人が道具を片づけようとしたところで、ヴェラが手を止めた。今度は盾を開かず、腕を通している固定帯の辺りを見る。
「すみません。もう一か所お願いできますか?」
「どこだ」
「固定帯の留め具が、手首を返した時に手首の外側へ当たります」
職人が留め具を押さえる。
「ここか」
「もう少し下です」
ヴェラは自分の手を動かしながら、当たる位置を指で示した。職人は一度その手元を確かめてから、穴開け具を取り直す。
「分かった。そこなら留め直せる」
留め具を外し、少し下へ新しい穴を開ける。固定帯が付け直された。
「今度はどうだ」
ヴェラが腕を通す。握る。盾を開く。手首を返し、正面へ戻す。
もう一度同じ動きをしてから、ヴェラは頷いた。
「はい。これでお願いします」
「最初からそこまで言ってくれりゃ一度で済んだんだがな」
「申し訳ありません。使ってみて気づきました」
「まあ、そりゃそうだな」
職人は余った毛皮を布へ包み直し、盾と一緒にヴェラへ渡した。ヴェラは受け取ると、その場でもう一度だけ握りを確かめた。




