第44話 三人の間合い
目が覚めた瞬間、窓から入る光がいつもより明るいことに気づいた。表の街道からは、もう荷車の音が聞こえている。行商人らしい声も、宿の一階から響く食器の音も、すっかり朝のものだった。
「……しまった」
寝過ごした。急いで顔を洗い、革靴へ足を入れる。部屋の鍵をかけ、階段へ向かった。途中まで下りたところで、食堂の隅からエルザとヴェラの声が聞こえた。
「盾を前へ寄せすぎると、ノワールさんが動く場所と重なります」
「はい。ですが、後ろに残りすぎると、右側へ盾を入れるのが遅れます」
「道が広い時と狭い時で、同じ位置にはできなさそうですね」
一階を覗く。二人は卓に並んで座り、寄せた手帳を覗き込んでいた。紙面には三つの小さな印があり、エルザが羽ペンの先で一つを動かしている。リンは二人の間をふわふわと漂い、羽ペンが止まるたびに紙面へ近づいていた。
ヴェラが自分の印へ指を置く。
「実際の道幅を見てから決めた方がよいと思います」
ちりん。
リンがその指先の近くで鳴いた。エルザが一度だけリンを見る。
「私もそう思います」
リンはそのまま二人の間に残り、また紙面を覗き込むように浮いていた。そこで俺は残りの階段を下りた。
「すみません。寝過ごしました」
二人が揃って顔を上げる。
「珍しいですね」
エルザが俺の顔を見た。
「体調は大丈夫ですか?」
「はい。ただ寝すぎただけです」
カウンターの奥から、手拭いを肩へ掛けた女将が顔を出した。
「珍しいね。いつもなら、とっくに白湯を飲んでる頃だろ」
「面目ありません」
「謝るなら座ってからにしな。スープが冷めるよ」
湯気の立つ鉢と黒パンが卓へ置かれる。
「ありがとうございます」
俺は二人と卓を挟んだ向かいの席へ腰を下ろした。
「何の相談をしていたんですか?」
エルザが手帳をこちらへ向ける。
「野外へ戻った時の位置です。前に試した形のままだと、狭い場所でヴェラさんの盾とノワールさんが重なるかもしれません」
「右後方に残れば、今度は盾が届きにくくなります」
ヴェラが続けた。
「ですので、最初から位置を決めず、現場を見て変えた方がよいと思います」
「分かりました。その方がよさそうですね」
スープを口へ運ぶと、まだ少し熱かった。
「今日は短時間の野外仕事を探してみますか」
「はい」
ヴェラが頷く。エルザは手帳へ手を伸ばしかけ、カウンターの方へ一度目をやると、そのまま手を戻した。
「その前に、ドランさんのところへ行きましょう」
「何時からでしたっけ」
エルザが俺を見る。
「もう、あまり余裕はありません」
「……それは先に言ってください」
「この時間も大事ですから」
「そういう意味ではなくてですね」
ヴェラの目元が僅かに緩んだ。
◆
職人区のはずれにある稽古場へ着くと、ドランは土間の奥で木剣を手にしていた。俺たちを見るなり、眉が寄る。
「遅え」
「申し訳ありません。寝過ごしました」
「寝るのは勝手だ。俺を待たせるな」
「大切な人を待たせてしまい申し訳ありません」
エルザとヴェラが固まる。
「……本当にやめろ、それ」
ドランはかなり深刻な口調だった。
「はい」
俺も言ってから後悔した。これは封印しよう。土間には、小枝や割れた木片がいくつか散らされていた。予想通り増えている。
ドランが顎をしゃくる。
「持て」
壁際から木剣を取った。
「分かってるな? 前だけ見るな。下だけ見るな。動け」
「はい」
木剣を構え、正面の木杭へ向かう。一度下がる。踵に細い枝が触れた。
反射的に足元へ目を落とすと、木剣の先で肩を軽く叩かれた。
「下を見るなっつったろ。なんで前より下手になってんだ」
「難しいんですよ」
「だからやってんだろうが」
もう一度構える。正面から目を外しすぎないようにしながら、足裏へ触れる土の硬さを拾う。次に下がった時は、靴底へ何かが触れる前に足を少し横へ逃がせた。ドランは何も言わず、今度はヴェラへ向き直った。
「脚は」
「悪化はありません。急に右へ切り返した時だけ、まだ違和感が残ります」
「そうか」
ドランは丸盾へ顎を向けた。
「位置を決めつけるな」
「はい」
「動くなら声を出せ」
「承知しました」
それだけだった。
俺たちは木剣を戻し、稽古場を後にした。
◆
冒険者ギルドで条件を伝えると、ミラは依頼簿を何枚か繰ってから、一枚を抜き出した。
「東門の外、林縁での薬草採取と周辺確認があります」
指定された薬草を集めながら、獣道や巣穴の痕跡が増えていないかを見る仕事らしい。林の奥まで入る必要はなく、歩く範囲も広くない。
「魔物の討伐が目的ではありません。危ないと思ったら戻ってください。逃げた個体を追う必要もありません」
「分かりました」
俺はエルザとヴェラを見る。
「どうでしょう」
「問題ありません」
「私も大丈夫です」
「では、これをお願いします」
ミラが依頼票へ受理印を押した。
◆
東門を抜けると、朝露の残る草が風に揺れていた。荷車の轍には昨夜の水が溜まり、踏み外すと靴の脇へ泥が跳ねる。遠くでは畑仕事を始めた人たちの声が聞こえた。林へ近づくにつれ、土と青葉の匂いが濃くなる。
俺は前を見たまま歩いた。足元ばかり見ない。
それでも、草に隠れた枝を踏みたくはない。一度だけ靴先へ小枝が触れたが、体勢は崩れなかった。
「今のは踏みませんでしたね」
エルザが言った。
「評価される対象が、ずいぶん低いところまで下がりましたね」
ヴェラが足元を見て、少し考える。
「ヴェラさん、どうしました?」
「……やっぱり踏んだら枝に謝るんですか?」
ヴェラは真顔だった。
「……謝るのは稽古の時だけです」
エルザが口元を押さえた。しばらく歩き、林縁へ着く。木漏れ日の下に、小振りの青い葉を持つ薬草がまとまって生えていた。エルザが依頼票と見比べる。
「これですね」
採取を始める。俺が前方と右を見ながら葉を摘み、エルザは数を記録する。ヴェラは少し後ろから、林側と戻る道を交互に確かめていた。道は思ったより狭かった。
背の高い草が左右から迫り、俺が前へ出ると、ヴェラのいる側が隠れる。
ザザッ。右前の草むらが揺れた。低い唸り声が続く。
「来ます!」
ヴェラの声とほぼ同時に、土色の硬い毛に覆われた野犬型の小型魔物が二体、草陰から姿を見せた。俺は剣を抜いた。
「俺が前へ出ます。ヴェラさんは右を――!」
「ノワール様。この位置では右へ盾が届きません!」
ヴェラが俺と草むらの間を確かめる。
「私が少し前へ出ます。エルザ様、左と後ろをお願いできますか!」
「分かりました!」
エルザが左へ開く。
「お願いします!」
ヴェラが俺より少し前へ出て、丸盾を構えた。俺はその左側へずれる。一頭目が低く身を沈めた。次の瞬間、草を蹴って飛び込んでくる。
ガンッ。丸盾へ重い音が響いた。ヴェラが盾の向きを変えると、魔物の身体が外へ流れる。
「右へ行きます!」
「はい!」
開いた首元へ剣を振った。硬い毛を抜けた刃から鈍い手応えが返る。赤いものが草へ散り、魔物が横へ転がった。もう一頭が右の茂みへ回る。
ヴェラが盾をそちらへ向けた。丸盾の縁が視界へ入り、魔物の姿が一度隠れた。
「ヴェラさん、少し近いです!」
「分かりました!」
ヴェラが外へ開く。視界が戻った。その先では、エルザが短剣を構えて回り込みを塞いでいた。魔物は一度こちらを睨み、低く唸る。
それ以上は入ってこなかった。倒れた仲間へ鼻先を向けたあと、身体を返して林の奥へ走っていく。
「追いません!」
「はい」
「左、問題ありません」
「右も離れました」
草を揺らす音が遠ざかっていった。足元の一頭は、まだ脚を僅かに動かしていた。俺は剣を握り直す。そのまま苦しませておく理由はない。
首元を確かめ、一度だけ深く刃を入れた。身体の震えが止まった。剣を引く。柄を握った右手に、最後に刃が入った時の感触が残っていた。
考えるのは、あとでいい。まず、二人の無事を確かめる。剣を鞘に収めた。
◆
周囲をもう一度確認する。三人とも怪我はない。ヴェラが丸盾へ視線を落とした。
「先ほどは、前へ出たあとノワール様へ寄りすぎました」
「俺も盾の後ろへ入りすぎたかもしれません」
エルザの羽ペンが手帳の上を短く走った。
「次は、立つ場所を先に決めるより、動いた時に互いの進路が残る位置を探した方がよさそうですね」
「はい」
ヴェラは俺とエルザの立ち位置を確かめる。
「次は、もう少し外側から盾を出してみます」
「やってみましょう」
地面へ倒れた魔物を見下ろした。
「これは、どうしましょうか」
俺が尋ねると、ヴェラが少し考える。
「素材を取るのであれば、皮と牙を外す基本手順は分かります。ただ、この種類を処理した経験はありません」
「俺は魔物の解体自体が初めてです」
エルザが荷袋を開いた。
「小型の解体刃と素材袋はあります」
「では、分かる範囲でやってみますか。ヴェラさん、見てもらってもいいです?」
「はい」
ヴェラに位置を確認しながら、解体刃を入れる。
「もう少し浅くで大丈夫です」
「このくらいですか」
「はい」
思ったより刃を入れる加減が難しい。皮の端を少し傷つけてしまった。
「あ」
「そこは、査定が少し下がるかもしれません」
「……やってしまいましたね」
牙と毛皮だけを外し、素材袋へ入れる。終わる頃には、指先へ脂と血の匂いが染みついていた。
「思ったより難しいですね」
「慣れが必要だと思います」
近くの小川で剣と解体刃を洗った。赤い筋が冷たい水へ薄く流れていく。
◆
採取へ戻る。俺が青い葉を一束摘み、籠へ入れようとすると、エルザの手が止めた。
「それ、指定薬草じゃありません」
「え?」
「葉の縁を見てください」
隣に生えているものと比べる。
「……同じに見えますけどね」
「縁の形が違います」
「まだまだ俺は、指導を受けないと駄目なことばかりですね」
必要な量を採り終えるまで、魔物は戻ってこなかった。周辺の足跡と巣穴を確認し、俺たちは街へ戻った。
◆
ギルドでは、採取した薬草と周辺の記録を提出した。魔物の素材も見せると、ミラが一つずつ確認する。
「牙二本と毛皮一枚ですね。査定しておきます」
「お願いします」
依頼完了の印が押された。外へ出ると、昼を少し過ぎていた。少し歩いたところで、ヴェラが東門近くの茶屋の前で足を緩めた。
「少し休んでから戻りたいです」
「そうしましょう」
三人で木のベンチへ座り、温かな野草茶と、塩を振った焼き芋を分ける。ヴェラは湯呑みを両手で包んだ。
「温かくて落ち着きます」
「外の仕事の後だと余計に美味しいですね」
エルザは焼き芋を一口食べる。
「水分と塩分も取れます」
「今日は確認じゃないんですか?」
「何の話です?」
「いえ、なんでもありません」
エルザはもう一口食べた。
◆
〈鈍色亭〉へ戻ったところで、エルザが手帳を開いた。今日の林での位置を示す、三つの小さな印が残っている。リンが卓の上へ降り、印の近くをふわりと移動した。ヴェラが紙面へ身を寄せ、自分の印へ指を置く。
少し前へ出ていた印から指を戻し、そこから外側へずらした。
「次は、この位置を試したいです」
エルザが、その場所へ小さな印を付けた。リンが新しく付いた印の上へ寄る。
ちりん。




