第41話 三人で決める
階下へ下りると、〈鈍色亭〉の土間には柔らかな朝の光が差し込んでいた。階段脇の柱のそばに、ヴェラが立っている。軽量中型丸盾と短槍は壁際へ整然と立てかけられていた。俺が最後の段を下りたところで、表の引き戸が開く。
入ってきたのはエルザだった。手にはいつもの小ぶりな手帳。髪にはリンが留まっている。
俺が軽く手を上げると、エルザも小さく頷いた。ヴェラはいつものように丁寧に頭を下げる。ヴェラは二人が揃ったのを確かめるように一度視線を動かし、静かに息を吸った。
「今朝の状態を報告します。昨日より痛みは軽くなっています。普通に歩く分には問題ありませんが、急な方向転換はまだ避けたいです。長く歩く場合は、途中で休憩を入れたいです」
「分かりました」
俺が答えると、エルザも頷いた。
「では、その条件で今日の予定を考えましょう」
「はい」
「朝食後、冒険者ギルドで条件に合う依頼を確認しましょう」
「そうですね。ドランさんのところへは、受注後に立ち寄りましょうか」
「ええ、そうしましょう」
◆
朝食を済ませ、俺たちは宿を出た。朝の王都は、昨日より日差しが少し強い。清掃のために撒かれた水が石畳の窪みに残り、湿った土と焼きたてのパンの匂いが混じっている。荷車の軋む音や、店先の板戸を外す乾いた音、呼び込みを始めた商人たちの声が通りを満たしていた。
大通りへ出ると、昨日の露天商の男とすれ違った。大籠を肩へ担ぎ直しながら、男が俺の足元へちらりと目をやる。
「おや、兄ちゃん。今日は前を見て歩いてるじゃないか」
「おかげさまで。今日は何もぶつからずに済みそうです」
「そうしてくれ」
男は鼻を鳴らし、人混みの中へ消えていった。籠の隙間から飛び出した青菜の葉が、歩調に合わせて揺れている。
「褒められましたね」
隣を歩くエルザが言った。
「意外と、師匠に枝を置かれた甲斐があったのかもしれません」
「訓練として適切だったわけですね」
「エルザさんはあの人を買いかぶりすぎています」
そんなやり取りをしながら進む俺の右側を、ヴェラが静かな足取りで歩いていた。冒険者ギルドの木扉を押し開けると、朝の混雑が続いていた。武器や金具の触れ合う音、依頼票を読み上げる声、受付へ並ぶ冒険者たちの話し声が重なっている。俺たちは窓口へ向かった。
書類を整えていたミラが、俺たちへ目を上げた。
「おはようございます。依頼をお探しですか」
「おはようございます、ミラさん。今日は、急な踏み替えが少なくて、途中で休憩を入れやすい依頼を探しています」
俺が答えると、ミラはヴェラの足元へ一度視線を落とし、それから手元の依頼簿へ目を戻した。
「分かりました。少しお待ちください」
棚から三枚の依頼票を取り出し、カウンターへ並べる。
「条件に合いそうなのは、この三つです」
一つ目は、商業区から東区画への小箱運搬。荷は軽く、距離も短い。ただし馬車の入れない狭い路地と、途中に石段がある。報酬は銅貨八枚。
二つ目は、城壁沿いの標識確認。王都内側の城壁に沿って歩き、避難路や井戸を示す案内標識の汚れや破損を確認する。荷物はなく、道も平坦だが、往復距離は長い。報酬は銅貨十二枚。
三つ目は、南門近くの資材受け渡し。荷車の搬入を補助する仕事で、重い資材を直接持つ必要はない。ただし荷車や作業員の動線を避けるため、急な踏み替えが増える。報酬は銅貨十八枚。
俺とエルザは三枚の依頼票を見比べた。
「俺は小箱運搬がよさそうに思えます」
一枚目を指す。
「距離が短く、荷も軽い。総負担はこれが一番少ないでしょう」
エルザは二枚目へ視線を移した。
「ですが、狭い路地と石段では小刻みな方向転換が増えます。荷物のない標識確認の方が、歩行状態を維持しやすいと思います」
「距離がかなりありますよ」
「平坦な道であれば、休憩を挟むことで調整可能です」
見立てが分かれた。俺はヴェラを見る。
「ヴェラさんは、どう思いますか」
ヴェラが僅かに目を見開いた。
「私、でしょうか」
「ええ。ヴェラさんも実際に歩くのですから」
ヴェラの唇が一度動きかけ、止まった。ヴェラは三枚の依頼票を順番に見た。
「二番目の標識確認がよいと思います」
エルザが手帳へ向けていた視線を上げた。
「理由を伺っても?」
「一番目の小箱運搬は、距離は短いですが、狭い路地と石段で右への踏み替えが増える可能性があります。三番目の資材受け渡しも、荷車を避けるため急な回避が必要です」
ヴェラの指先が二枚目の依頼票へ向く。
「二番目は距離が長いですが、平坦で進行方向も一定です。途中に休憩地点を二か所定めれば、右脚への負担を確認しながら進められると思います」
エルザは依頼票を見直した。
「休憩地点を定めるなら、実施可能だと思います」
それだけ言って、口を閉じる。
「なるほど」
俺が呟くとエルザが頷く。ミラは俺たちを順番に見て、最後に三枚の依頼票を見比べた。
「標識確認ですね。三人とも、それでいいですか」
「俺は賛成です」
「私も同意します」
ヴェラも頷いた。
「では、標識確認を希望します」
「分かりました」
ミラは二枚目の依頼票を引き寄せ、受理印を押した。ポン、と乾いた音が鳴る。
◆
依頼を受けた後、俺たちは北の職人区にあるドランの稽古場へ寄った。土間へ入ると、ドランは木剣の柄を布で拭っていた。昨日まで散らばっていた枝は端へ寄せられているが、一本だけ、俺が後退する位置へ残されていた。
「遅えな」
「ギルドで今日の依頼を決めてきたので」
ドランはヴェラを見る。
「今日は何だ」
「城壁沿いの標識確認を受注しました。途中で休憩を入れる予定です」
「城壁沿いか。長いな」
ドランは手を止めた。
「お前が決めたのか」
「私が意見を出して、三人で決めました」
短い沈黙。ドランは木剣を壁へ立てかける。
「無理になったら、黙って引きずるな」
「承知しました」
「ノワール。一回だけやれ」
「一回だけですか」
「歩く前に疲れさせてどうする。五歩下がれ」
木剣を取り、正面の木杭へ向く。視線を上げたまま、足裏と視界の端で枝の位置を拾う。五歩下がる。枝を踏まずに構え直した。
「……ふん」
ドランはつまらなさそうに鼻を鳴らした。
「一回できたくらいで得意になるな」
「褒める気がないことだけは伝わりました」
「帰れ」
「行ってきます」
俺たちは稽古場を後にした。
◆
王都内側の城壁沿いは、表通りとは違う静けさがあった。高い石壁が大きな影を落とし、冷たい風が通り抜けている。有事の避難路や非常用の井戸、兵糧倉庫へ続く道があり、それらを示す標識が一定の間隔で立っていた。俺たちの仕事は、標識の汚れや破損、文字の削れ、傾きを確認し、補修が必要な箇所を記録することだった。
「一番目の標識、表面の苔で文字が見えにくくなっています」
エルザが手帳へ書き込み、ギルドで渡された黄色い布印を柱へ結ぶ。俺は標識の向きと、周囲から見た時の見え方を確認した。ヴェラは少し離れた場所から、通行する人や荷車の動線を見ている。
「この位置では、南から来た荷車から標識が見えません。倉庫の木箱に隠れています」
俺が場所を変えて確かめる。
「本当ですね。破損だけでなく、位置も報告に入れましょう」
「承知しました」
三人で一定の歩調を保ちながら進む。日が高くなり、城壁の影が少しずつ狭くなってきた。予定していた一つ目の休憩地点へ着く。井戸の脇には、城壁の影が広く落ちていた。
「ノワール様。予定どおり、ここで休憩をお願いします」
ヴェラの声に、俺は足を止めた。
「分かりました」
「少し痛みが増えています。ここで休めば、帰りも同じ歩調を保てると思います」
「では、休みましょう」
俺たちは城壁の根元にある日陰へ腰を下ろした。石壁は背中へ触れるとひんやりしていた。近くの井戸では、警備兵が交代の前に水を汲んでいる。鳩が数羽、壁の出っ張りへ止まり、遠くから市場のざわめきが風に乗って届いてきた。
エルザが水筒をヴェラへ渡す。髪に留まっていたリンがふわりと浮き、肩の近くで薄緑の光を揺らした。しばらく風に当たり、そのまま三人で休んだ。その後も、予定していた二つ目の休憩を挟みながら、残りの標識を確認していった。
◆
夕前、すべての標識を確認し終えた。ギルドへ戻ると、ミラはエルザの記録を受け取り、破損箇所と布印の数を確認した。
「破損が三か所、苔による汚れが六か所。見えにくい位置が一か所ですね」
「はい」
「受理します。報酬は銅貨十二枚です」
ミラは銅貨を俺の前へ差し出した。続けて書類へ最後の印を押す。
「しっかり記録されてますね。問題ありません」
「ありがとうございます」
依頼を終えてギルドを出ると、空は茜色に染まり始めていた。
「少し小腹が空きませんか」
俺が言うと、エルザがすぐに頷いた。
「賛成です。城壁近くの露店に、蜂蜜を塗った焼き菓子がありました」
「……よく見ていましたね」
「補給候補として確認していました」
「食べたかっただけでしょう」
「糖分は疲労時の補給として有効です」
エルザは真顔だった。ヴェラの口元が少し動いたように見えた。露店には、冷たい果実水、焼いた薄パン、塩気のある煎り豆、蜂蜜を薄く塗った焼き菓子が並んでいた。
「俺は果実水と煎り豆にします」
「私は蜂蜜焼き菓子を選びます」
二人でヴェラを見る。ヴェラは露台の品を順番に眺めた。
「私も、お二人のどちらかと同じものを――」
「食べたいものを選びましょう」
かぶせるように俺が言うと、ヴェラは言葉を止めた。ヴェラが躊躇している。それを見たエルザが内緒話をするように、ヴェラの耳元に手を添える。
「ノワールさんは選ぶまでしつこく待ち続けますよ。私の時もそうでした」
エルザさん、丸聞こえです。ヴェラは俺をちらりと見た後、エルザへ頷くともう一度並んだ品へ視線を向ける。少し迷ってから、塩気のある薄パンを指した。
「こちらをお願いします」
「はいよ。焼きたてだよ」
店主から渡された薄パンを、ヴェラは両手で受け取った。城壁近くのベンチへ三人で座る。夕暮れの風が少し冷たくなり、行き交う人々の影が長く伸びていた。ヴェラが薄パンを一口かじる。
しばらく噛んでから、目を僅かに細めた。
「……おいしいです」




