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明日も、ダンジョンへ。  作者: 為書結依
第二章 三人で帰る

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第40話 言われる前に


 部屋の鍵を確かめて一階へ下りると、土間にはすでに朝の光が薄く差し込んでいた。階段脇の柱のそばに、ヴェラが立っている。軽量中型丸盾は壁際へ寄せて立てかけられ、足元には手入れの済んだ短槍が置かれていた。俺が最後の段を下りる前に、ヴェラが静かに息を吸う。


「ノワール様。右脚の痛みは昨夜より軽くなっています。普通に歩く分には問題ありませんが、急な方向転換はまだ避けたいです」


「分かりました。自分から教えてくれて助かります」


「はい」


 ちょうどその時、表の引き戸が開いた。朝の冷えた空気を連れて入ってきたのは、エルザだった。いつもの隙のない姿勢で、小ぶりの手帳を抱えている。耳の上では、白と薄緑の小さな光が髪飾りのように留まっていた。


「おはようございます」


「おはようございます、エルザさん」


「おはようございます、エルザ様」


 エルザが手帳の表紙へ指をかける。そのままカウンターの奥へ目をやり、手を止めた。女将は湯呑みを拭きながら、こちらを見ている。


「……昨夜の記録は、食後にします」


 覚えていたらしい。


 女将は何も言わず、温かな麦粥と、干し肉と野菜の炒め物を卓へ運んできた。三人で席につき、木のコップの湯を一口飲んだところで、エルザが口を開く。


「今日の予定案です。依頼は受けず、ドランさんの稽古場へ向かう。その後は休養とするのがよいと思います」


 筋の通った予定だった。俺が頷こうとした、その時だった。匙を動かしていたヴェラの手が止まった。視線が俺とエルザの間を一度往復する。


「……提案があります」


 俺とエルザの視線が、ほぼ同時にヴェラへ向いた。エルザは何かを言いかけたが、口を閉じた。


「稽古場へ向かうこと自体は問題ないと思います。ただ、途中で右脚の痛みが増えた場合は、その場で引き返したいです」


 言葉を選ぶ速度は遅い。けれど、途中で引っ込めなかった。俺はエルザを見る。エルザも黙ったまま考え、やがて頷いた。


「分かりました」


「そうしましょう」


「ありがとうございます」


 ヴェラは小さく息を吐いた。


◆


 朝食を終え、俺たちは北の職人区へ向かった。朝の光が王都の石畳を斜めに照らしている。店先から撒かれた水が薄く光り、あちこちから店開きの木板を外す乾いた音が響いていた。焼きたてのパンの匂いと、荷車が軋む音が路地の奥から混じってくる。


 ヴェラは以前決めた通り、俺の右側へ並んで歩いていた。昨日、草の中の枯れ枝へ踵を取られた感覚が、まだ足の裏に残っている。


 石畳の継ぎ目。荷車の轍。少し浮いた石。


 次に足を置く場所ばかりが、妙にはっきり目に入った。


「――様」


 声がした気がした。


 けれど、視線は足元から離れない。次の継ぎ目を越え、その先の浅い窪みへ目を移す。


「ノワール様、前を!」


 今度ははっきり聞こえた。


 顔を上げる。


 前方から、大籠を担いだ露天商の男が来ていた。俺が顔を上げるのを待つように少し横へずれて、眉を寄せながらこちらを見ている。


「朝から石畳と睨めっこかい」


「すみません!少し足元の稽古中でして……すみません」


 慌てて頭を下げる。


「道を歩きながらやるもんじゃないな」


 男は呆れたように鼻を鳴らし、大籠を担ぎ直して通り過ぎていった。籠の隙間から、青菜の葉が揺れていた。


 恥ずかしい。


「ヴェラさん、何度か呼びました?」


「はい。少し前にもお呼びしました」


「すみません。聞き取れてませんでした」


 ヴェラは小さく首を振った。


「昨日は上を見すぎて枝に足をとられて、今日は下を見すぎて人にぶつかりそうでした」


「極端から極端へ移るのは、改善とは言いません」


「その通りです。気をつけます」


 右隣のヴェラが、こちらを一度見た。俺と目が合うと、何も言わず前を向く。そのまま三人で職人区へ向かった。


◆


 職人区のはずれ。鍛冶の槌音がカン、カンと響く路地の奥で、ドランの稽古場の引き戸は開いていた。熱した鉄と炭の匂いに混じって、土間の奥から乾いた木と砥石の冷たい匂いが流れてくる。


「失礼します、師匠」


 俺が土間へ入ると、奥で刃を研いでいたドランが面倒そうに顔を上げた。


「遅い」


「途中で少し足元に気を取られてまして」


「聞いてねぇよ」


 ドランは砥石から手を離し、手拭いで腕を拭った。その視線を追って土間を見る。入口から奥へ続く足場に、太い木の枝が何本も転がされていた。


「……本当に置いたんですか」


「置くって言っただろ」


「もう少し師匠らしい訓練方法はなかったんでしょうか」


「俺だってこんな訓練初めてだ」


 雑に置かれたように見えて、どれも足を引く場所や後退する場所へ転がっている。嫌がらせにしては、配置がよすぎた。


 ちりん。


「リンまで何か言ってます?」


「『いっぱい』だそうです」


「そうなんです。ひどいですよね」


「で」


 ドランが俺の苦情を無視してヴェラに声をかける。


「脚は」


「今朝から変化はありません。急な方向転換は避けたいです」


 ドランは鼻を鳴らした。


「なら、そこへ座ってろ。ノワール、木剣を持て」


「はい」


 壁際の木剣を取り、土間の中央へ進む。


「正面の木杭を見ろ。枝を踏まずに一歩引け」


 木杭へ視線を向けたまま、右足を斜め後ろへ引く。乾いた音が鳴った。踵で枝を踏んでいる。


「枝に謝れ」


「それは少し違う気がします」


 ドランは相手にしなかった。


「見る場所を一つに決めるな。下を見るなってのは、足元を捨てろって意味じゃねえ。目の端と足の裏で拾え」


 俺は木剣を構え直した。木杭の位置を捉えたまま、視界の下端にある影と、土の凹凸を足裏で探る。一歩下がる。枝の手前で足を止め、少し外へずらした。


「遅い」


「踏まないようにはできました」


「敵も待ってくれるならな」


 泥臭い反復だった。しばらく俺の動きを見ていたドランが、土間の隅へ歩いた。そこには木桶が一つ置かれている。水は少ししか入っていない。


「ヴェラ」


「はい、ドラン様」


「その桶を、入口の脇へ置け」


 枝の間を抜ければ入口までは近い。途中には、俺が何度も踏みかけた太い枝が斜めに転がっている。左側から回れば遠回りになるが、足場は広く、右へ急に切り返す必要もない。


 ヴェラは立ち上がり、桶へ近づいた。


「承知いたし――」


 途中で声が止まる。ヴェラの視線が桶から枝へ、それから入口までの道へ動いた。エルザも口を開きかけたが、そのまま黙った。胸の前で握った手へ、僅かに力が入っていた。


 間を置いて、ヴェラがドランへ向き直る。


「提案があります」


「なんだ」


「最短の経路では、枝を避けるため右への切り返しが必要です。現在の右脚では、そこで痛みが増す可能性があります」


 ヴェラは入口までの道を見た。


「左側から回り、桶を両手で持って運ぶ方法を提案します」


「やれ」


「承知しました」


 ヴェラは桶の両側へ手を添えた。腰を落とし、右脚へ一気に重さをかけないよう持ち上げる。木桶の縁が胸当てへ軽く触れ、水面が細かく震えた。


 枝の少ない左側を回る。一歩ごとに桶の中で水が揺れ、木肌へ小さく当たる音が続いた。入口の脇まで運ぶと、ヴェラは足を止め、右脚の位置を確かめてから、ゆっくりと桶を下ろした。


「移動、完了しました」


 ドランは桶を一度見てから、ヴェラへ視線を戻した。


「今のは命令違反じゃねえ」


 ヴェラの顔が上がる。


「運べって話を、運べる形に直しただけだ」


 少し間があった。ヴェラはすぐに返事をせず、やがて一度だけ頷いた。エルザは手帳へ手を伸ばしかけ、止めた。代わりに、胸の前へ抱え直す。


 その口元が少し緩んだように見えた。


「今日はそこまでだ」


 良い稽古だったと思う。


 俺の師匠は一人分の稽古料で三人分の稽古をつけてくれている。懐が深い。ありがたい。単に気づいていないだけかもしれないので、あえて言わないけど。


 ドランは俺を見る。


「……何、にやけてやがる。気持ちわりぃ」


「いえ。良い師匠で良かったな、と思いまして」


「……お前はあと十回」


「え? ヴェラさんは終わりなのに、俺は増えるんですか」


「気持ちわりぃのと、枝に負けた分だ」


「枝より弟子の方を大切にしませんか?」


「口を動かすな。足を動かせ」


 稽古場を出るまでに、俺は二回、枝に謝った。


◆


 昼過ぎ、俺たちは〈鈍色亭〉へ戻った。午後は依頼を受けず、休養に充てる。一階の食堂の隅には、昼を過ぎた光が斜めに差し込んでいた。厨房からは洗った器を重ねる音が聞こえ、煮込みの残り香がまだ薄く漂っている。


 ヴェラは壁際の短槍へ視線を向け、腰の布袋へ手を伸ばしかけた。


 だが、その手は途中で止まった。


「手入れはしないんですか」


「はい。朝に済ませています。今日は必要ありません」


 ヴェラは右脚を伸ばし、椅子へ深く座り直した。エルザが別宿へ戻る前に、手帳を開いた。


「明日の予定候補を確認します。一つ、街中での短距離運搬。二つ、稽古のみ。三つ、休養の継続です」


 そこまで言うと、エルザは口を閉じた。手帳を開いたまま、ヴェラを見る。ヴェラは一度息を吐き、まっすぐにエルザの目を見た。


「エルザ様。その三つは、明日の朝に決めてもよろしいでしょうか」


「理由を聞いても?」


「今決めるより、明日の朝にその時の状態を見て選びたいです」


 エルザはすぐには書き込まず、静かに頷いた。


「分かりました。そのようにしましょう」


 羽ペンが紙の上を短く滑った。明日の予定欄には、一行ぶんの空白が残っていた。


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