第39話 決まりの外
三人での初依頼を終え、ギルドを出たところで、まずヴェラの右脚を確認することにした。東側の外壁沿いにある石造りの腰掛けは、夕前になると建物の影へ入る。日中の熱がまだ残る石へヴェラを座らせる。
「ヴェラさん、右脚を見せてください」
「承知しました」
ヴェラは丸盾を壁へ立てかけ、短槍を足元へ寝かせた。革帯を外してみても、新しい擦れや目立つ腫れはない。ただ、右足首には熱が少しあり、脛の奥と右膝には痛みが残っているらしい。
「歩くこと自体は問題ありません。ただし、急な方向転換では痛みが増します」
エルザが帳面に書き留める。
「今日は、これ以上急な動きは避けた方がよさそうですね」
「そうですね。宿へ戻ったら冷やして、稽古もなしにしましょう」
「承知しました」
ヴェラは頭を下げ、少し間を置いてから俺へ目を向けた。
「本日の実戦結果は、ドラン様へ報告すべきでしょうか」
「ああ……」
正直、気が乗らない。まだ完全には暮れていない空を一度見上げる。
報告だけなら、今日のうちに済ませてもいい。ただし、あの男のところへ行けば、口では面倒がりながら、何かしら稽古を始める可能性がある。
「報告だけにしましょう。多分無理はさせないと思いますが、木槍を持たされたら俺が止めます」
「私が止めた方が確実ではありませんか」
エルザが真顔で言った。
「それは、俺では止められないと思ってます?」
エルザは間を置き、
「客観的な感想です」
と答えた。言い返さなかったし、否定もしなかった。
自分の分は、もう決めてある。稽古場へ寄ると決めた時点で、今日は報告だけと決めた。あの土間へ入ってから決めようとしても、たぶん決められない。それは前から知っている。
ヴェラは俺たちを交互に見たが、口を挟まずに待っていた。ギルドを離れ、職人区へ向かう途中で、エルザが足を止めた。
「少しだけ寄ってもいいですか」
「何か足りません?」
エルザは鞄から黒い表紙の帳面を取り出し、後ろまでぱらぱらめくった。残りの紙は、もうそれほど多くない。
「残りが少なくなりました。三人分を書くようになってから、思っていたより早いです」
「次のを買っておくんですね」
「はい。必要になってから探すより、その方がいいと思います」
ちょうど職人区へ向かう道沿いに、紙や封蝋、筆記具を並べた小さな店があった。
「ヴェラさん、寄っても大丈夫ですか」
「はい。問題ありません」
店へ入ると、棚には紐綴じの薄い帳面や革表紙の小さな手帳が並んでいた。エルザは何冊か手に取り、紙の厚さと開いた時の癖を確かめている。最後に選んだのは、濃紺の革表紙へ小さな花の型押しをした手帳だった。
「それにするんですか」
「紙の枚数が多いです。それに、開いたままにしておきやすいです」
エルザが親指で表紙をなぞる。口元が少し緩んだように見えた。
「……持ちやすいですし」
「まだ他に理由があるように聞こえます」
「気のせいです」
真顔だった。エルザは自分の小袋から代金を払い、新しい手帳を鞄へしまった。使いかけの帳面も、その隣へ丁寧に戻す。
「今までの分は?」
「残っている頁は、整理用に使います。今までの記録も、そのまま保管します」
「なるほど」
買ったのは、それだけだった。
店を出ると、夕方の風が少し冷たくなっている。
「では、行きましょう」
エルザの鞄には、黒い帳面と、新しい濃紺の手帳が並んで収まっていた。
◆
職人区の北の外れ。槌音が止みかけた路地の奥にドランの稽古場があった。開いた引き戸から乾いた木と砥石の冷たい匂いが届く。薄暗い土間では、ドランが低い腰掛けに座り、古い片刃剣を布で拭っていた。
敷居を跨ぐと、ドランは俺でもエルザでもなく、ヴェラの右脚の運びを先に見た。
「帰れ」
「まだ何も話してませんよ」
「脚を庇ってる奴を連れてくる話なら、明日でいい」
「稽古をしに来たわけではありません。報告だけです」
「報告も明日でいい」
相変わらず取りつく島がない。
それでもドランは剣を拭く手を止めていた。
「本人から報告の話が出たので、今日のうちに済ませようかと」
そう言うと、ドランが面倒そうに鼻から息を吐いた。
「なら、立たせんな。そこへ座らせろ。長話は聞かねえぞ」
「最初からそう言ってくれれば早いんですけどね」
「帰れ」
「すみません。反省しています」
「してねえ顔だな」
ヴェラが困ったように俺とドランを見比べている。エルザだけは、いつもの崩れない顔で土間の端へ木椅子を寄せていた。
「ヴェラさん、こちらへ」
「承知しました」
ヴェラを腰掛けさせ、俺たちはその前へ立った。ドランは剣を鞘へ戻し、手近な壁へ立てかける。
「で」
それだけだった。
誰が話すかも指定されず、仕方なく俺から口を開く。
「南東放牧地で、野犬に似た小型魔物が三体出ました。依頼は追い払いまで完了しています。まず、俺が草地の枯れ枝に踵を取られました」
「ほう」
ドランの表情が緩んだ。このやろう。
「そこ、少し楽しそうに聞こえるんですが」
「気のせいだ」
「転んではいません。体勢を崩しかけただけです」
「盾がなきゃ転んでたろ」
「そこはヴェラさんの庇い方が的確だったということで」
「お前の足元が悪かった話をすり替えんな」
やはり、容赦なく突いてくる。
「……はい。敵ばかり見ていて、足元を見ていませんでした。それと、ヴェラさんの最初の発声も拾えませんでした」
ドランは否定も肯定もせず、エルザへ目を向けた。彼女は帳面を開きかけたが、ドランと目が合って手を止める。
「紙はいい。口で言え」
「承知しました」
エルザは帳面を閉じた。
「私は左側の個体を抑えつつ、ヴェラさんの最初の小さな発声を拾い、ノワールさんへ中継しました。戦闘後、退路が脅かされた場合は具体的な状況を添えて発声し、返答がなければ大きな声で繰り返す規則を追加しました」
ドランの眉が上がる。最後に、ヴェラを見た。
「お前は」
「右側面の維持を命じられました。ノワール様へ流れ込んだ個体を盾で防ぎました。その後、退路側へ回り込む個体を確認しましたが、退路が失われる状況に当たるか判断できず、行動が停止しました」
ヴェラの声は硬いが、震えていなかった。
「一度目の発声はノワール様へ届きませんでした。二度目に状況を添えて再発声し、指示を受けて南側へ移動しました。現在、右脚の痛みが僅かに増加しています」
言い訳も余計な謝罪もなく、三人が見た事実だけが並んだ。ドランはしばらく黙ってから、腰掛けへ深く座り直した。
「三人で帰った」
低い声だった。
「依頼も終わった。なら、今日はそれでいいだろ」
短い言葉だった。俺はゆっくり息を吐いた。
だがドランは、それでは終わらせなかった。
「ただし」
視線がエルザへ移った。
「決まりを増やせば、決まりの外でまた止まるぞ」
前も同じことを言われた。
「同じような状況なら、役には立ちます」
「有効だろうな」
ドランはあっさり認めた。
「で、右も左も同時に危なくなったらどうする」
エルザが口を閉じた。
「声が出ねえほど息が詰まったら。お前ら二人とも聞こえねえ位置に弾き飛ばされたら。次の決まりをまた足すのか」
「……少なくとも、現在の危険を下げる効果はあります」
「だから、今はそれでいいって言ってる」
ドランは面倒そうに頭を掻いた。
「全部やるな。こいつが口を開く前に、答えを並べきるな」
エルザはすぐに返さず、胸の前で抱える帳面へ少し力を込めた。
「必要な安全条件まで外すつもりはありません」
「外せとも言ってねえ」
「では、どこまでを残すべきでしょうか」
「それを毎回俺に聞くな。面倒くせえ」
エルザが一瞬だけ目を瞬いた。俺は笑いそうになり、視線を逸らした。
「今のはかなり重要な指摘ですよ、エルザさん」
「分かっています。ただ、回答が途中です」
「ドランさんは大体いつも途中です」
「聞こえてるぞ」
「聞こえるように言いました」
「お前も面倒くせえな」
ドランが俺へ向き直った。
「枝」
「はい」
「目線を上げすぎだ。後ろへ下がる前に、踏む場所を見ろ」
「はい」
「今回は盾が間に合った。次も同じだと思うな」
「はい」
「足元を切ったのはお前だ」
「では、次から枝にも負けないように足元を見ます」
「ふざけてんのか」
「全力で反省しています」
「お前の言葉は信用ならねえ」
ヴェラが目を伏せた。表情は変わらないが、呼吸が少し跳ねたように見える。ドランは最後にヴェラを見た。
「今日は木槍は振らせねえ」
「承知しました」
「その返事もいらねえ」
ヴェラの言葉が途中で止まった。ドランが土間を見回す。出入口には水の入った重い木桶。壁際には木剣が数本あり、そのうち一本が大きく傾いていた。
視線を落とすと、俺の右の靴紐も少し緩んでいた。
「そこから全体を眺めろ」
ヴェラが立ち上がろうとした。
「脚は動かすな。座ったままでいい」
ヴェラは動きを止め、腰掛け直した。
「見えるもんの中から、危ねえと思うものを一つ言え」
「一つ、でしょうか」
「そうだ」
「選定の優先基準は」
「ねえ」
「危険度、距離、あるいは緊急性のいずれに従うべきでしょうか」
「自分で決めろ」
ヴェラは口を閉じた。なるほど。身体を使わない稽古ということか。俺もエルザも、声を挟まずに待った。
リンがエルザの髪際からふわりと浮き、白い雫のような身体を傾けて土間を見回した。
ちりん。
エルザがリンへ一度目を向けた。
「……『どれ?』だそうです」
「そいつにも答えさせんな」
「答えてはいません」
ちりん。
リンはその場で止まった。薄闇の落ちてきた土間に、風が路地の土の匂いを運んでくる。ヴェラの視線が、傾いた木剣へ向かい、俺の緩んだ靴紐へ滑り、最後に出入口の木桶で止まる。胸当てが、浅い呼吸に合わせて小さく鳴った。
長い沈黙のあと、ヴェラが息を吸った。
「出入口の木桶が、退路を狭めています」
ドランは表情を変えず、一度だけ顎を引いた。
「そうか」
それだけだった。
ヴェラは木桶を見たまま、次の指示を待っている。
「……移動させますか」
「聞いてねえ。今日は言うだけだ」
「承知しました」
「今日はそこまでだ。帰って脚を冷やせ」
ドランは立ち上がり、奥の小部屋へ向かう。俺はその背中へ声をかけた。
「ありがとうございました」
「明日、枝を置いといてやる」
「それは訓練ではなく嫌がらせでは」
「見分けられりゃ同じだ」
背中越しの声はいつも通りだ。明日の稽古が少し面倒になったことは間違いない。
◆
夜の王都を歩き、〈鈍色亭〉へ戻った。引き戸を開けると、湯気と香辛料の効いた煮込みの匂いが流れてくる。女将はカウンターの奥から顔を出し、ヴェラの足元を見た。
「おや。足、どうしたんだい」
ヴェラが背筋を伸ばす。
「戦闘時の急な方向転換により、右足首から脛の痛みが増加しました。歩行自体は可能です」
「歩けるかどうかは聞いてないよ。痛むなら座りな」
女将は呆れたように鼻を鳴らし、低い椅子を土間の端へ置いた。
「水と布を持ってきてやる」
「申し訳ありません」
「謝るくらいなら早く座る」
「……承知しました」
ヴェラは丸盾を壁際へ預けて椅子へ座った。エルザが短槍を隣に立てかける間に、三人分の白湯を木のコップへ注いだ。
しばらくすると、女将が鉄鍋と黒パン、野菜の煮込みを運んできた。
「はいよ。今日は多めにしてあるから、しっかり食って寝な」
「ありがとうございます」
三人で卓を囲み、煮込みの湯気が顔に当たると、ようやく一日が区切られた気がした。エルザが途中で新しい手帳を開こうとしたが、通りかかった女将が手の甲でぱたんと閉じた。
「飯の時に紙を広げるんじゃないよ。汁が飛ぶだろ」
「……失礼しました」
エルザは素直に手帳を引いた。思わず口元が緩んだ。
「ドランさんにも止められていましたね」
「記録の必要性は失われていません」
「食後まで待っても、世界は滅びませんよ」
「……食後までに滅びる可能性は低いですね」
「低いけどあるんですね」
ヴェラは煮込みの小鉢を持ったまま、俺たちを見ていた。
「今日は俺も、かなり情けないところを見せました」
俺が言うと、ヴェラが顔を上げる。
「ノワール様は、右側から流れ込んだ個体への対応中に体勢を崩されただけです。私は、いただいた命令の範囲で支援しただけです」
「そこまで丁寧に庇われると、かえって傷つきますね」
「その意図はありません」
向かいの卓の器を下げていた女将が、背中越しに声を挟んだ。
「助かったんだろ。なら、その話は食べ終わってからにしな。飯が冷めるよ」
「……はい」
ヴェラは小さく返事をした。
◆
食事を終え、器が綺麗に空になった。女将が皿や小鉢を慣れた手つきで重ね、大きな木盆に載せていく。載せきれなかった深皿の束を、通路脇の小さな台へ一時的に置いた。端が厨房へ続く細い通路にはみ出している。
ヴェラがそこを見た。誰も何も言わない。木のコップから手を離し、ゆっくり背筋を伸ばした。
「女将様」
女将が足を止め、振り返る。
「なんだい」
「その皿は、通る時に足や衣服が当たる可能性があります」
女将は深皿とヴェラの顔を見比べた。
「ありがとよ」
女将が盆を置き、深皿の束を台の奥へ寄せる。
ちりん。
リンがエルザの髪際で揺れ、エルザが耳を傾けた。
「……『みつけた』だそうです」
ヴェラがリンへ目を向けた。
「はい」
女将はそれ以上何も言わず、一度だけ鼻を鳴らして厨房へ消えた。
「ほら、さっさと部屋へ戻って足を休めな」
厨房から女将の声が飛んでくる。
「承知しました」
ヴェラは卓へ手を添え、ゆっくり立ち上がった。




