第38話 声が届くまで
ザザッ、と草むらを押し分ける音が響いた。右前方の背の高い草が大きく沈み、低く湿った唸り声が落ちてくる。
「ヴェラさん、右を止めてください!」
俺は剣を構え直し、短く指示を出した。
「エルザさんは左をお願いします!」
「了解!」
「承知しました!」
ヴェラの硬い返答と同時に、身体が素早く前へ滑り出す。草の陰から跳び出してきたのは、土色の固い毛に覆われた、成人の膝上ほどの高さがある野犬に似た小型魔物だった。黄色い眼を剥き、牙を覗かせて右側から飛びかかってくる。ヴェラは慌てず、左脚を軸にして身体を半身へ開いた。
ガン、と硬い衝突音が響く。
軽量中型丸盾が、魔物の突進を正面から受け止めるのではなく、斜めに受けて鼻先を横へ滑らせた。勢いを逸らされた個体が右へ流れる。盾の陰から、短槍の穂先が伸びた。穂先を嫌った魔物が、それ以上は踏み込んでこない。
ヴェラは左脚を中心に位置を変え、盾を右側へ向けたまま短槍を構え直した。役目が決まっているヴェラの盾と槍に迷いはなかった。左側では、二体目が草を押し分けて低く迫っていた。エルザが身体強化を使って低く踏み込み、短剣の腹で鼻先を打って進路を逸らした。
右へ流された一体目が、盾の縁を回り込むようにして俺へ向きを変えた。低い姿勢のまま草を蹴り、俺の脇腹へ飛びかかる。俺は右足を斜め後ろへ引いて間合いを外そうとした。
だが、草の中に隠れていた枯れ枝が踵へ引っかかる。重心がわずかに後ろへ流れた。魔物の爪が胸元へ迫る。
その瞬間、視界の右端から丸盾が差し込まれた。バツン、と爪が盾の表面を擦る。ヴェラは右側を止めるという指示の範囲を外れず、そこから俺へ流れ込んだ個体の進路へ盾を滑り込ませていた。
「助かりました。次も右をお願いします!」
俺は体勢を立て直し、盾へ弾かれた個体の肩口へ剣を振るった。刃が土色の毛を浅く裂く。短い悲鳴を上げ、個体が草の上を転がった。
「承知しました」
ヴェラは礼へ答えず、すぐに短槍を構え直した。丸盾も、もう右側へ戻っている。
だが、実戦は稽古場のように、順番を待ってはくれなかった。
◆
転がった一体目が体勢を立て直し、距離を取る。左の二体目も、エルザの短剣を警戒して後退した。一瞬の拮抗。正面寄りの草陰にいた三体目が、その隙に大きく外側へ回り始めた。
このまま回られれば、南側の退路へ先回りされる。北東の木柵は倒れていて使えない。南は、俺たちに残された開けた退路だった。俺は正面の一体を牽制していて、すぐには南へ向けない。
エルザも左の二体目を抑えている。ヴェラは右側。俺が最後に出した指示は、
「右を止めてください」
だった。三体目がさらに外へ回る。視界の端で、ヴェラの丸盾がわずかに南へ傾いた。
だが、足は右側に残っている。何か声がした。正面の個体の唸り声に重なり、言葉までは聞き取れない。
「ノワールさん! ヴェラさんが呼んでいます!」
エルザの声に、俺はヴェラへ顔を向けた。ヴェラが大きく息を吸う。
「退路側への対応指示をお願いします!」
今度ははっきり聞こえた。三体目は、もう南側へ回り込みかけている。
「南を塞いでください!」
「承知しました!」
返事と同時に、ヴェラが動いた。
◆
ヴェラが南側へ向きを変える。右足が地面に残ったまま身体を急いで回したせいか、右膝が沈んだ。
「……くっ」
短槍の石突きが地面へ落ちる。それで身体を支え、左脚で土を蹴った。南側へ迫る個体の前へ丸盾を差し込む。
ドン、と盾が押し返された。
石突きで支えた身体がわずかに滑る。
それでも、個体の進路は止まった。
「左、一体後退。正面一、南一!」
エルザが短く位置を伝える。俺は正面の個体へ踏み込んだ。
「正面を押し返します。追撃はしません!」
剣先を鼻先へ振り込み、前へ出ようとする個体を下がらせる。個体が甲高い声を上げ、後ろへ跳ぶ。南側では、ヴェラが盾の陰から短槍を突き出した。穂先が前脚の外側を掠め、土色の毛に赤い筋が走る。
個体は槍先を嫌って距離を取った。三体は一度離れ、荒い息を吐きながらこちらを窺った。俺たちは陣形を崩さない。ヴェラが南を塞ぎ、エルザが左を見て、俺が正面に立つ。
しばらくこちらを窺っていた一番大きな個体が、低く唸ると、北東側の倒れた木柵の向こうへ走り出した。残る二体も後を追う。
「追いません!」
俺は剣を構えたまま言った。
「周囲を確認してください」
「左側、敵影なし」
エルザが答える。
「右側、後方、視界内に敵影なし」
ヴェラも周囲へ視線を走らせた。風が放牧地の草を撫でていく。足音と唸り声が遠ざかったことを確認し、俺は剣を鞘へ収めた。
「三人とも、怪我はありませんか」
◆
「怪我はありません。装備にも問題ありません」
エルザが答えた。俺はヴェラへ向き直る。彼女は短槍を地面へ突き、右足をわずかに浮かせていた。
「ヴェラさん。右脚の状態はどうですか」
「……申告します」
ヴェラは呼吸を整えてから答えた。
「右脚の痛みが増えています。歩行は可能です」
「革帯に違和感はありますか」
「ありません」
「分かりました。帰りは速度を落としましょう。戻ったら詳しく確認します」
ヴェラは頭を下げた。それから盾へ視線を落とす。
「反省事項を報告します」
「はい」
「三体目が南側へ移動した際、退路が失われる状況に当たるか判断できず、行動が停止しました。また、一度目の発声が小さく、ノワール様へ届きませんでした」
俺は頷き、ヴェラの灰色の瞳を見る。
「止まったことは事実です。でも、声を出してくれたので、ヴェラさんが対応に迷っていると分かりました。黙っていたら、指示を出すのが遅れていました」
エルザが帳面を開く。
「次からは、退路が脅かされていると気づいた時点で、『退路側への対応が必要です』と先に伝えてください」
「承知しました」
「返答がなければ、同じ内容を大きな声でもう一度」
「承知しました」
◆
丸太小屋へ戻り、牧人へ状況を報告した。
「三匹もいたのかい」
牧人は目を丸くし、それから胸を撫で下ろした。
「羊が無事でよかった。助かったよ」
「北東側の柵が壊れています。そこから入り込んだ可能性があります」
俺が伝えると、牧人はすぐに頷いた。
「村の若い者を呼んで直すよ。今夜は見張りも立てる」
「追い払いましたが、戻ってくる可能性はあります。しばらく注意してください。痕跡がまた出たら、ギルドへ知らせてください」
牧人へ挨拶し、俺たちは放牧地を後にした。帰り道では、ヴェラの歩調へ合わせて速度を落とした。夕前の柔らかい光が、草地を薄い金色へ変えている。途中で一度休憩を挟んだが、それ以上の異常申告はなかった。
隣を歩くエルザが、前を向いたまま言う。
「判断の迷いは残っています」
「すぐに解消とはいかないと思います」
ヴェラは何も言わず、俺たちの少し右を歩いていた。俺は一言付け加えた。
「でも、三人無事に帰れてよかったですね」
◆
夕暮れ時、冒険者ギルドへ戻った。受付の窓口へ向かい、ミラへ受諾控えを渡す。
「お帰りなさい。南東放牧地の件ですね」
「はい。現地で三体を確認し、追い払いを終えました。羊と住民への被害はありません」
ミラは記録票へ内容を書き込んだ。
「申告より一体多かったのですね。被害が出る前に対応できて何よりです」
受諾控えを整え、朱色の印章を手に取る。ポン、と完了印の乾いた音が鳴った。俺の右にはヴェラがいて、左にはエルザがいた。
ちりん。
エルザの髪際から、リンがふわりと浮かび上がる。
「……そういえば、リンもいましたね」
ちりん、ちりん。
エルザが少し間を置いた。
「『いた』だそうです」
リンは俺の周りを一度だけ回ると、またエルザの髪へ戻った。
「すみません」
ようやく息を吐いた。




