第33話 最初に渡すもの
訓練場に、風が吹き抜けていた。一回り小さな木張りの盾を抱え、ヴェラは静かに俺たちを見つめ返していた。
「今日はここまでにしましょう」
俺が歩み寄って声をかけると、ヴェラは背筋を伸ばし、あごを引いた。
「切り返した時の痛みは、まだ残っていますか」
「……あります。ただし、動作は継続できます」
「分かりました。痛みが残っているので、今日は終わりです。右脚を休ませてください」
ヴェラは一瞬だけ右足元へ視線を落とし、それから小さく頭を下げた。
「……承知しました」
抱えていた盾を棚へ戻そうとするヴェラへ、担当の男が歩み寄った。
「そちらの盾も、契約装備へ含めることができます。ご希望でしたら、後ほど書類へ追加いたします」
「分かりました。少し相談させてください」
俺はヴェラへ向き直った。
「一度、下がって休んでいてください」
「はい」
ヴェラは短く応じ、待機区画へ戻っていった。
◆
商館の応対室へ戻り、俺とエルザは担当の男と向き合った。卓上には、ヴェラの査定目録と契約書類が広げられている。
「最終的な判断をお伝えする前に、いくつか確認と要望があります」
「承りました。契約条件についてですね」
男は書類を整え、こちらへ向き直った。俺は横に座るエルザを見た。エルザは帳面を開き、先ほど二人で話した内容へ目を走らせている。秘密については、契約に追加の条項を作らず、必要になったものからこちらが話すことにした。
ヴェラの短槍と盾は、俺たちに足りない一拍を作れる。右脚の制限も、装備と依頼を選べば付き合っていけるかもしれない。軽い盾を選べたことを、俺たちとの契約を望んだ答えだとは思っていない。
「まず、価格と支払い条件を確認させてください」
男は契約書類をこちらへ向けた。書類の下部には、銀貨で二桁に及ぶ金額が記されていた。頭金として半額以上を納め、残額を翌月末までに支払う条件も添えられている。俺はエルザと顔を見合わせた。
二人で負担しても、軽い出費ではない。一括で支払えば装備の更新や宿代、食費へ明確な影響が出る。ヴェラ自身の生活費も、今日から増える。
「頭金を半額とし、残りを翌月末までに支払う形でお願いします」
「承知しました。完済までは、当館の仮保証が契約書へ残ります」
「問題ありません」
エルザが答えた。
「頭金は、私とノワールさんで半分ずつ負担します。残額についても同様です」
「承知しました。契約名義は、どちらになさいますか」
俺はエルザを見た。
「ノワールさんでお願いします」
「俺でいいんですか?」
「はい。費用は私も負担しますし、戦闘中の指示も出します。でも、契約上の主人はノワールさん一人にした方が分かりやすいと思います」
「分かりました」
「では、契約者はノワール様として作成いたします」
「それと、先ほどヴェラさんが選んだ軽い盾も、契約装備へ加えてください」
「承知しました」
男が記録へ書き加えようとしたところで、エルザが別の羊皮紙を一枚、卓上へ置いた。
「続いて、こちらから追加を求める条件です」
男は羊皮紙を受け取り、上から順に読み始めた。一、戦闘命令は、依頼達成、防衛、撤退に必要な範囲へ限る。私的制裁、見せしめ、自傷・自死に直結する命令を禁ずる。
二、依頼中および訓練中は、エルザにも戦闘上の指示権を認める。ノワールとエルザの指示が食い違った場合、撤退および負荷軽減につながる指示を優先する。三、痛み、疲労、身体の異常、装備の不調は、動作を継続できるかどうかにかかわらず申告する。申告そのものを命令違反や不利益の理由としない。
四、食事、衣服、道具、休息など、生活上の事項について可能な範囲で本人へ選択肢を提示する。五、依頼報酬の一部をヴェラ本人の取り分として内部記録し、ノワールおよびエルザはこれを私的に流用しない。六、ヴェラ本人から解放の希望が示された場合、解放およびその後の生活について協議する。男は最後まで読み、二つ目の条項へ指を置いた。
「撤退と負荷軽減を優先する、とありますが、どちらの指示がそれに当たるか判断できない場合はどうしますか」
エルザが少し考えた。
「その場合は、現在地を維持し、可能であれば声を出して再指示を求める形にします」
「承知しました。その運用も注記しておきます」
男は次に、五つ目の条項へ目を移した。
「本人用の取り分は、当館やギルドが管理する財産ではありません。お二人の内部記録であり、履行もお二人に依存します」
「それで構いません」
エルザは帳面へ視線を落とした。
「記録は私が管理します。解放時には、残額を全て本人へ渡す旨も加えてください」
「可能です。ただし、第六条は解放を自動的に成立させるものではなく、協議を開始する条件になります」
「承知しています」
俺が答えると、男は羊皮紙を卓へ戻した。
「一般的な終身契約より、命令できる範囲をかなり狭くする内容です」
「ええ。その方が、俺たちの運用には合っています」
「依頼や訓練で必要な指示には従ってもらいます。ただ、従わせること自体を目的にはしたくありません」
男は俺とエルザを順に見た。
「法に触れる内容ではありません。いま確認した注記を含めるなら、条項として追加できます」
「お願いします」
男は書類を持ち、奥の書記卓へ向かった。
◆
しばらくして、書き直された契約書が卓上へ並べられた。男に呼ばれ、ヴェラが応対室へ戻ってくる。俺たちの前へ立つなり、片膝をつこうとした。右脚がわずかに揺れる。
「立ったままで大丈夫です」
ヴェラは動きを止め、顔を上げた。
「しかし、主人への礼が」
「今は立ったままで聞いてください。右脚に痛みも残っているでしょう」
ヴェラは少し迷い、それから姿勢を戻した。
「ヴェラさん。聞いたかと思いますが俺たちは、あなたとの契約を結ぶことにしました」
ヴェラの表情は変わらなかった。ただ、顎のあたりがわずかに固くなった。
「今日から、契約上は俺の管理下で生活し、依頼へ同行してもらいます。ただ、依頼や訓練ではエルザさんの指示にも従ってください。契約には、あなたに直接関係する条件をいくつか加えました」
俺は要点だけを、できるだけ短く伝えた。
「戦闘中は、俺たちの指示に従ってもらいます。ただし、依頼、防衛、撤退に必要のない指示はしません」
「はい」
「痛みや不調、装備の異常があれば、動けるかどうかに関係なく申告してください。食事や衣服、道具も、可能な範囲であなた自身に選んでもらいます」
「……承知しました」
「依頼報酬の一部は、あなたのための取り分として記録します。今すぐ分からないことは、後から聞いて構いません」
「……はい」
「それと、この契約を続けたくないと思った時は、そう言ってください」
ヴェラの目が、わずかに動いた。
「言えばすぐに解放、とは約束できません。でも、解放とその後の生活について話し合うことを、契約に入れています」
「……承知しました」
エルザも、決めた条件を二つだけ確認した。俺とエルザの指示が食い違い、自分では選べない時は、現在地を維持して再指示を求める。身体に痛みが出た時は、まだ動けるとしても申告する。ヴェラはどちらにも、間を置かず答えた。
エルザは頷いた。
「大丈夫そうですね」
男もヴェラへ向き直った。
「契約内容や扱いについて確認したいことが生じた場合は、当館または市の契約監督所へ申し出ることができます」
「承知しました」
ヴェラは俺へ向き直り、深く頭を下げた。
「承知しました、ご主人様」
その呼び方に、俺は小さく息を吐いた。
「ノワールで構いません。ご主人様と呼ばれるのは、どうにも落ち着かないので」
「しかし、契約上の主人を名で呼ぶことは」
「契約上の管理者が許可しているのであれば、問題ありません」
男が事務的に補足した。ヴェラは少し間を置いた。
「……ノワール様」
呼び捨てにはできないらしい。
「ええ。それで構いません」
エルザも続けた。
「私もエルザで構いません」
「……エルザ様」
「分かりました」
エルザはそれ以上、言い直させなかった。頭金を俺とエルザで半分ずつ支払い、契約者欄へ俺が署名と印を入れる。エルザも、追加条項の確認者として名を記した。男は控えと身元証明の木札を卓上へ置いた。
「これで契約は成立です。残額の期限はこちらに記載されています」
契約書を受け取り、俺たちは席を立った。外へ出ると、西の空は茜色に染まっていた。
◆
日暮れ前、俺たちは冒険者ギルドへ向かった。受付の窓口へ立つと、ミラが俺たちの後ろにいるヴェラへ目を留めた。
「ノワールさん、エルザさん。そちらの方は」
「今日、〈鎖の館〉で契約を結びました。〈コンパス〉への仮追加登録をお願いします」
ミラは一瞬だけ表情を止め、それから台帳を開いた。
「承知しました。契約書と身元証明を確認しますね」
書類へ目を通した後、ミラはカウンター越しにヴェラ本人へ向き直った。
「お名前を教えていただけますか」
「ヴェラと申します」
「使用する武器と、できることを教えてください」
「短槍と盾です。相手の進路を狭め、前衛を補助します。浅い傷であれば、治癒術も使えます」
「右脚に古い傷があると記録されています。長距離移動と、急な方向転換に制限がある。こちらで間違いありませんか」
「はい」
ミラは俺たちだけに確認を進めず、ヴェラの返答を聞いてから台帳へ書き込んだ。
「契約者はノワールさん。エルザさんにも依頼中の戦闘指示権がある形で、固定パーティー〈コンパス〉へ仮追加します。正式な共同依頼の前に、装備と役割の確認を行ってください」
「分かりました」
「依頼報酬は窓口上、ノワールさんを代表として一括してお渡しします。ただし、パーティー内部での分配方法は自由です」
エルザが帳面を開き、新しい欄を一つ加えた。その横へ、小さく「ヴェラ」と書く。
「契約や依頼について困ったことがあれば、ヴェラさん本人から、この窓口へ相談できます」
ミラがそう言うと、ヴェラはわずかに目を上げた。
「……承知しました」
手続きを終え、ギルドを出る頃には街灯へ明かりが入り始めていた。
◆
夜の帳が下りた路地を抜け、俺たちはヴェラを連れて〈鈍色亭〉へ向かった。木扉を押すと、厨房から温かい煮込みの匂いが流れてきた。カウンターの奥から女将が顔を出した。まず俺を見て、隣に立つエルザへ視線を移し、その後ろのヴェラで目を止めた。
「おや。ずいぶん連れが増えたね」
考えてみれば、エルザとはいつも東門か広場で落ち合っていた。宿まで連れてきたのは、今日が初めてだった。
「紹介が遅くなりました。こちらはエルザさん。俺と固定パーティーを組んでいる方です」
「エルザと申します。ノワールさんには、いつもお世話になっています」
女将はエルザを一度見上げ、短く頷いた。
その時、エルザの髪際で白いものが揺れた。淡い緑の光を羽のように広げた、小さな白い雫がふわりと浮かぶ。
ちりん。
女将が目を細めた。
「そっちの小さいのも連れかい」
「はい。リンです。私たちと一緒にいます」
エルザが片手を添えると、リンはその指先の周りを一度回った。ヴェラもリンへ目を向けていた。
「……精霊、でしょうか」
「はい。言葉は私にしか分かりません。皆さんには、今みたいな音だけ聞こえるそうです」
ヴェラは少し迷ってから、リンへ頭を下げた。
「ヴェラと申します。よろしくお願いいたします」
ちりん。
エルザが一度、目を瞬いた。
「……『なかま』、だそうです」
ヴェラは顔を上げ、リンを見た。
「……仲間、ですか」
ちりん。
白い雫が、もう一度ふわりと揺れた。女将はリンをしばらく眺め、それからヴェラへ視線を移した。
「そうかい。それで、そっちの子は」
「ヴェラさんです。今日から一緒に動くことになりました。部屋を一つ、お願いできますか」
女将はヴェラの立ち方へ一度目をやった。
「二階の、手前から二つ目が空いてる。階段からも近い」
「湯はもう沸いてるよ。ご飯もすぐ出せる。名前は」
「ヴェラと申します」
「ヴェラか。食べられないものや、体に障るものはあるかい」
ヴェラの返答が止まった。
「……ご指定いただいたものを頂きます」
「今すぐ思いつかなきゃ、食べてから言いな」
女将はそれだけ言い、カウンターの下から小さな真鍮の鍵を出した。俺へ差し出された鍵を見て、俺は言った。
「本人へ渡してください」
「はいよ」
女将はヴェラの前へ鍵を差し出した。
「二階の、手前から二つ目だ。ここにいる間は、あんたが持っておきな」
ヴェラは両手を出し、鍵を受け取った。
「これは、どなたへ返却すればよいでしょうか」
「出ていく時までは返さなくていい。あんたの部屋の鍵だからね」
ヴェラは掌の鍵を見下ろした。それから、落とさないように指を閉じた。
◆
夕食は三人で取った。ヴェラは出された煮込みを、決められた量をこなすように一定の速さで食べた。女将から追加のパンを勧められると、一度俺を見た。
「俺はいただきます。ヴェラさんも、いただきますか?」
「……いただきます」
俺とヴェラは自分でパンを一つずつ取った。
食事を終えると、エルザは席を立った。
「私は自分の宿へ戻ります。明朝、こちらへ迎えに来ます」
女将が少しだけ眉を上げた。
「あんたは、ここに泊まっていかないのかい」
「はい。私は別の宿に部屋を取っています」
「そうかい。なら、遅くならないうちに戻りな」
「お気遣いありがとうございます」
エルザはヴェラへ向き直った。
「集合は朝食後にしましょう。右脚の状態を確認してから、装備を見に行きます」
「承知しました、エルザ様」
ちりん。
「多分別れの挨拶ですね」
「ノワールさんもリンのことがわかってきたみたいですね。では、また明日」
エルザは笑みを浮かべながら軽く会釈し、〈鈍色亭〉を出ていった。扉が閉じると、食堂には薪の爆ぜる音が残った。女将は棚から形の違う素焼きの湯呑みを三つ出し、卓へ並べた。
「部屋で水を飲むなら、一つ持っておきな。どれがいい」
厚手で丸みのあるもの。浅くて手に収まりやすいもの。小ぶりで軽いもの。ヴェラは湯呑みと俺の顔を交互に見た。
「……どれも使用できます」
俺が言葉を探していると、先ほどエルザが使った問い方を思い出した。
「持ちやすさで選んでください」
ヴェラは三つを見つめた。少し時間を置いて、表面に荒い筋の入った厚手の湯呑みへ手を伸ばした。両手で包み込むように持ち上げる。
「……これを、お借りします」
女将は鍋の蓋を閉めながら答えた。
「貸すんじゃない。あんたのだよ」
ヴェラは返事をせず、湯呑みの荒い筋へ親指を一度滑らせた。やがて、部屋の鍵と湯呑みを、落とさないように一つずつ持ち直した。




