第32話 選べる問い
「……ご命令を」
静寂が広間に落ちていた。ヴェラは背筋を伸ばしたまま、俺を見ている。
「すみません。その問いは下げます」
俺はそう言って、ヴェラへ向き直った。
「今ここで答えてもらうには、聞くことが大きすぎました」
ヴェラの眉が、ごくわずかに寄った。だが、返事はなかった。
「ヴェラさん。一度、下がって休んでいてください。俺たちは担当の方と、もう少し詳しい話をしてきます」
「……承知しました」
ヴェラは短く頭を下げると、待機区画へ戻っていった。俺はその背中を見送りながら、さっきの問いを頭の中でもう一度繰り返した。ここを出たいか。
答えは二つしかないように見える。だが、その先にある暮らしも、契約も、俺たちのことも分からないまま選べと言われれば、二つで済む問いではない。向こうで働いていた頃、人に「どうしたいですか」と尋ねる場面は何度もあった。状況と情報を整理し、相手が選べる形にしてから選択を委ねていた。
俺は彼女に、答えられる状態かどうかを確かめる前に、一番大きなところから聞いてしまった。
◆
応対室へ戻り、俺とエルザは担当の男と向き合った。卓上には、ヴェラの契約書類と査定目録が並べられている。
「ヴェラさん個人の契約条件について、確認させてください」
俺が切り出すと、男は書類を一枚、こちらへ向けた。
「彼女は、旧主家の債務処理に伴って当館へ移された終身型の契約奴隷です。価格はこちらになります」
「旧主家の債務処理というのは、ヴェラさん本人に借金があったということですか?」
「いいえ。ヴェラ本人の債務ではありません」
男は別の書類を一枚めくった。
「彼女の家は、旧主家に仕える騎士家でした。主家が破綻した際、その奉公契約も整理対象となっています」
「奉公契約も、ですか」
「はい。他家へ契約を引き継ぐ方法もありますが、ヴェラの場合は成立していません」
「本人が買い戻すことは?」
「制度上は可能です。ただ、当時の本人にその資力はありませんでした」
自分で作った借金でもない。何か罪を犯したわけでもない。仕えていた家がなくなって、その契約だけが残った。
「それで、終身契約に?」
「はい。残った奉公義務を整理する形で、当館へ移されています」
俺は、先ほどヴェラの左手首にあった黒い印を思い出した。
「左手首の印も、その契約に関係するものですか」
「はい。契約奴隷であることを示す契約の印です。制度を知る者なら、見れば分かります」
書類の下部には、銀貨で数十枚に及ぶ金額が記されていた。俺は頭の中で、手持ちと今後の出費を並べた。
俺一人で簡単に出せる額ではない。エルザと二人で負担するなら、支払い方を相談できるくらいではある。
だが、支払えば装備の更新や宿代、食費へ明確な影響が出る。そこにヴェラ自身の生活費と、傷の手当てに必要な費用も加わる。
「右脚の古傷は、いつ頃のものなんですか?」
「旧主家に仕えていた頃の任務で負ったものです。任務の詳細までは、当館の査定資料には残っていません」
「価格には、右脚の状態も影響しているんですね」
「はい。戦闘奴隷としての査定では、大きな減額要素になります」
男は欠点を隠さなかった。横に座るエルザが帳面を開いた。
「契約成立後、買い手側が負う維持義務を確認します。食事、衣服、寝床、傷病時の手配は、買い手の責任ですね」
「その通りです。維持義務を怠った場合、契約者本人はギルドまたは市の契約監督所へ申し立てることができます」
エルザの筆先が止まった。
「契約解除は」
「主人の意思で可能です。解放証を提出すれば自由身分へ戻せます。ただし、その後の住居や仕事までは当館では保証いたしません」
エルザは短く書き込み、紙面へ目を落としたまま続けた。
「冒険者ギルドへの登録は可能ですか」
「主人の管理下であれば可能です。単独で依頼を受けることや、本人名義で財産を持つことには制限があります。依頼報酬は原則として主人へ帰属します」
「本人のために、金銭や物品を別に持たせることは」
「買い手様が与える分には、当館は関与しません」
俺は書類の端にある秘密保持の項目へ視線を移した。
「契約を解除した後でも、秘密保持だけを残すことはできますか」
「可能です。その場合は別途、当人との契約を結び直す必要があります」
契約で人の口を縛ることには引っかかる。それでも、自分の事情を守るためなら、その強さを利用したいとも思っている。そこを、きれいな話にする気はなかった。
「一度、二人で相談する時間をいただけますか。それと、可能なら後で、ヴェラさんの実際の動きを見せてもらいたいのですが」
「構いません。中庭の訓練場をお使いください」
◆
俺たちは商館の中庭に面した廊下へ移動した。石の腰掛けへ並んで座ると、吹き抜ける風が冷たかった。
「どう思いましたか、エルザさん」
エルザは帳面を膝の上へ置き、書き込んだ内容を目で追った。
「まず、戦力については悪くないと思います」
短槍と盾で相手の進路を狭める。浅い傷なら治癒術も使える。今の二人に足りないところを埋めてもらえる可能性はある。その代わり、長く歩くこと、不整地、何度も方向を変えることには制限がある。
「ただ、契約するなら費用も続きます」
そこも、さっき担当の男から聞いた。最初に払う金額だけではない。
食事。部屋。装備。修理。治療。
依頼へ行かない日にも、一人分の暮らしは続く。
「仲間を一人増やす、だけでは済まないですね」
「はい」
エルザが頷いた。
「もう一つ。秘密保持についても考える必要があります」
「契約書にあった項目ですか」
「はい。……ノワールさんには、まだ私に話していないことがありますよね」
「……ありますね」
「内容を聞くつもりはありません。前にもそう言いました。ただ、ヴェラさんと一緒に動くなら、どこまで共有するかは考えておいた方がいいと思います」
「契約があるから、全部話していいということにはしたくないですね」
「はい。逆に、安全に関わることまで秘密のままにするのも違います」
「必要になったものから、ですね」
エルザが頷き、筆先を止めた。
「……一番難しいのは、ヴェラさん本人の意思だと思います」
「そこが、一番分かりません」
「今のヴェラさんは、自分の希望を尋ねると、命令を求める答えに戻ってしまいます」
「エルザさんなら、どうしますか」
「先に安全な環境と明確な役割を用意します。その中で、答えられる範囲から選択肢を渡す方が現実的だと思います」
「それは……契約を先に成立させる、ということですか」
「はい。この場所にいる時間を延ばせば、答えられるようになるとは限りません」
その見方は分かる。商館はヴェラの状態を隠していない。食事や治療も与えられている。それでも、買い手を前にした今の状況が、本人の答えを出しやすい場所とも思えなかった。
「でも、本人の答えが一つもないまま契約すると……場所と、命令する人を変えるだけになりかねません」
エルザは黙って俺を見た。
「拒否しなかったことを、俺たちに都合よく、同意したことにはしたくないんです」
エルザはすぐには答えなかった。
「……完全な意思確認を求めれば、今は何も進められません」
「ええ。そこまでは求めていません。大きな答えでなくていい。今のヴェラさんが出せる答えが、何か一つあるのかを確かめたいんです」
エルザは考えるように帳面の端を筆で軽く叩いた。
「では、問いの方を小さくしましょう」
「問いを」
「ここを出るかどうかではなく、今この場で、自分の身体にとってどちらが負担が少ないか。その程度なら答えられるかもしれません」
さきほどまで、ヴェラは戦い方や身体の制限については迷わず答えていた。ここを出たいか、と聞けば命令を求める。
けれど、右脚で何ができて、何が難しいかなら答えられる。
「それなら、確かめられそうです」
エルザは帳面へ短く一行を書き加えた。俺たちは立ち上がり、訓練場へ向かった。
◆
商館の訓練場は、踏み固められた土の中庭だった。壁際には木槍や木盾、砂袋、木杭が並んでいる。ヴェラはすでに待っていた。灰色の服の上へ革の胸当てを着け、木製の短槍を手にしている。
「お待たせしました、ヴェラさん。動きを見せてもらえますか」
「はい。ご指示ください」
「まずは一人で、あの木杭を相手に動いてください」
「承知しました」
ヴェラは短く息を吸い、構えた。木槍を引き、大盾を斜め前へ置く。土を踏む音は軽かった。
盾の面をわずかに傾け、正面で止めるのではなく、力を外へ逃がす位置へ置く。その陰から短槍を滑らせ、近づく相手の進路を狭める。大きく踏み込まない。倒すためではなく、入らせないための動きだった。
先ほど聞いた説明と、大きな食い違いはない。続いて、エルザが訓練用の木製短剣を取った。
「今度は、私が前へ出ます。倒す必要はありません。私が進める場所を狭めてください」
「承知しました」
二人が向かい合う。エルザが踏み込んだ。身体強化は使っていない。それでも、その踏み込みは鋭い。
ヴェラは大盾を斜めに出し、正面の道を塞いだ。エルザがヴェラの右側へ回り込む。ヴェラも右へ切り返して追う。一度目は間に合った。
エルザがさらに同じ側へ動く。二度目。ヴェラの右脚がわずかに遅れた。膝が沈む。
それでも、無理に足を追わせなかった。大盾の端を地面へ落とし、自分の身体をその陰へ滑り込ませる。軸は傾いたが、エルザとの間には壁が残った。一拍。
それだけあれば、後ろにいる者は動ける。
「そこまでです」
俺が声をかけると、二人は同時に止まった。ヴェラは盾を戻し、姿勢を整えた。右のふくらはぎが、わずかに震えている。
「ヴェラさん。右脚はどうですか」
「戦闘は継続できます」
即答だった。
「続けられるかどうかは、その後で考えます。今は、痛みがあるかと、どこにあるかを教えてください」
ヴェラの口が一度開き、止まった。右脚へ視線を落とす。
「……痛みはあります」
「どこにありますか」
「右の足首から、脛にかけて。引かれるように痛みます」
「分かりました。教えてくれてありがとうございます」
ヴェラは、なぜ礼を言われたのか分からないような顔で俺を見た。
◆
最後に、壁際から二種類の盾を出してもらった。一つは、先ほどまで使っていた大きく重い盾。もう一つは、一回り小さな木張りの盾だった。
大盾は正面を広く塞げる。その代わり、持ち替えや切り返しで右脚への負担が増える。小さい方は防げる範囲が狭い。だが、ヴェラの身体には扱いやすそうだった。
担当の男が二つを見比べた。
「装備に含めるなら、大盾の方が価格は上がります」
「わかりました」
俺はヴェラへ向き直った。
「ヴェラさん」
「はい」
「今ここで使うなら、どちらの盾が扱いやすいですか」
ヴェラの視線が止まった。
「……ご指定いただければ、その通りに使用します」
「今は、俺たちに合わせた答えではなく、あなたの右脚で扱いやすい方を教えてください」
ヴェラは二つの盾を見た。俺の顔を見て、また盾へ戻る。エルザが一歩だけ前へ出た。
「重い方は、正面を広く塞げます。ただし、右へ動く時の負担が増えるでしょう。軽い方は防げる範囲が狭くなりますが、切り返しは楽になると思います」
エルザはそこで言葉を止めた。
「今ここでは、どちらを使うかだけ答えてください」
風が中庭を抜け、木の盾が小さく鳴った。ヴェラは右脚を見た。それから、もう一度二つの盾を見比べた。時間がかかった。
やがて、小さく息を吸う音がした。
「……軽い方を、お願いします」
俺はエルザを見た。エルザもこちらを見て、小さく頷いた。俺も頷き返す。ヴェラは二つの盾をもう一度見比べた。
それから、軽い方へ手を伸ばした。命令を受けた時より、その動きは遅かった。
それでも、途中で止まることはなかった。




