第31話 命令を待つ人
翌朝。
朝稽古が終わったあと、壁際に転がっていた短い鉄棒を一本借りた。
「おい。今度は何だ」
木剣を片づけていたドランが眉を寄せる。
「一昨日の氷です。氷だけだと形を保つのが難しかったので、中に芯があればどうかなと」
「……好きにしろ。片づけてから帰れ」
許可なのか面倒になっただけなのか分からない。
掌へ少量の水を出し、鉄棒の中央へ薄くまとわせる。一昨日より水は少ない。流れを静め、鉄に沿わせたまま中心から冷たさを広げる。白く濁った膜ができた。
「お」
握る場所を変えた。ぱきっ。氷がそのまま剥がれて、地面へ落ちた。
「……駄目ですね」
「その鉄棒、つるつるだろ」
ドランが言う。
「はい」
「引っかかるもんがねえなら、剥がれやすいだろ」
「言われればそうですね」
鉄を見下ろす。芯があれば形は作りやすそうだった。ただ、くっつかなければ意味がない。
「次は、引っかかる形ですかね」
「俺に聞くな」
「相談くらいいいじゃないですか」
門が開いた。
「おはようございます、ノワールさん。ドランさん」
エルザだった。耳の上にはリンもいる。
ちりん。
「おはようございます」
エルザが俺の手元を見る。
「それは、一昨日の氷ですか?」
「ええ。鉄を芯にしてみたんですけど、剥がれました」
地面の氷片を指す。エルザはしゃがまず、その場から眺めた。
「鉄には付きにくいのでしょうか」
「たぶん。もう少し考えてみます」
「もう鉄棒を投げた方が……いえ。何でもないです」
エルザの言葉が刺さる。
「違いない」
その傷をドランの言葉が抉る。心の傷を負った俺はそれ以上試すことはせず、鉄棒を元の場所へ戻した。ドランへ礼を言い、エルザと稽古場を出る。リンがエルザの耳の上で羽を畳んだ。
職人区の路地へ出たところで、昨日の円卓での話を思い出す。
「エルザさん」
「はい」
「俺たち、二人のままでいいと思います?」
エルザがこちらを見た。
「人数の話ですか」
「ええ。昨日、どちらかが動けなくなった時の話がありましたよね」
「ありました」
「一人増えれば、助かる場面もあるのかなと」
エルザはすぐには答えなかった。
「増えれば安全になる、とは限らないと思います」
「まあ……それはそうですね」
「ですが、できることが増える可能性はあります」
「まず、どうやって探すのか聞いてみますか」
「はい。それが良いと思います」
決めるのは、そのあとでいい。
◆
冒険者ギルドへ入り、ミラの窓口へ向かった。
「おはようございます、ノワールさん、エルザさん。今日は依頼ですか?」
「いえ、相談です」
「何でしょうか? どうぞ」
「固定パーティーへ、もう一人入れるとしたら、どう探すんでしょう」
ミラが少し目を丸くした。
「三人目を考えているんですか?」
「まだ、考え始めただけです」
「そうですね……それなら、まずは掲示板で臨時同行者を募る方法があります。依頼を一つ一緒に受けて、相性を見る形ですね」
「なるほど」
「他の固定パーティーと合同で動く方もいます。長く同じ人を雇いたいなら、自由契約の従士を探す方もいます」
ミラはそこで一度言葉を止めた。
「ただ、ノワールさんはまだこちらへ来て日が浅いので、募集しても相手が慎重になることはあると思います」
「落人だからですか?」
「はい。悪意があるというより……こちらの常識に慣れていない方が多いので。昔は、無茶をする方も多かったそうです」
なるほど。命を預ける相手が、この世界の危険をまだ分かっていないと思われれば、不安になるのは分かる。しかし困った。ミラは少し考えたあと、小声で言葉を続けた。
「……もっと強い契約で、身元と行動が決められている人を選ぶ方もいます」
「強い契約?」
「戦闘奴隷です」
奴隷。ゲームの知識としては知っていた。この世界では、債務や刑罰、戦争などを理由に奴隷契約へ入る者がいる。知ってはいたが、自分が買い手になる可能性までは考えたことがなかった。
「王都にもいるんですね」
「西の外れに、契約を扱う商館があります」
ミラは俺たちを見比べる。
「ただ、買えば終わりではありません。食事、寝床、装備、治療。契約した側が用意するものもあります。長く一緒に動く人を探しているからといって、私は最初から勧めません」
「そうですよね」
便利な方法、とは思えなかった。ただ、仕組みも知らないまま、言葉だけで決めつけるのも違う気がした。エルザに意見を求める。
「どう思いますか?」
エルザは顎に手を当てる。少し考えたあと、ミラに質問した。
「話を聞きに行くだけでも大丈夫ですか?」
「もちろんです。紹介状を書きましょうか」
「お願いします」
ミラが短い紹介状を作ってくれた。
ギルドを出ると、エルザが尋ねる。
「このまま向かいますか?」
「ええ。今日は仕組みを聞くだけにしましょう」
「分かりました」
リンがちりんと鳴った。
「リンは?」
「何も言っていません」
「そうですか」
エルザの耳の上では、白い光がいつも通り揺れていた。
◆
王都の西へ進む。職人区を抜ける頃には商店が減り、壁の厚い建物や倉庫が増えてきた。やがて、大きな石造りの建物が見えた。重い木の看板に、
〈鎖の館〉と刻まれている。中へ入ると、石床は磨かれていた。壁際には書類棚が並び、受付では何人もの職員が帳簿を確認している。
思っていたより静かな場所だった。紹介状を見せると、奥の応対室へ案内された。身なりの整った男が一人、記録帳を開いて待っている。
「固定パーティー〈コンパス〉のお二人ですね」
「はい。今日は契約の仕組みを聞きに来ました」
「承知しております」
男は羊皮紙を数枚、卓へ置いた。廊下の向こうから、紙をめくる音と誰かの靴音が聞こえる。
「当館では、契約者の技能、身体状態、職歴、契約上の制限を記録し、買い手へ開示しています。契約後は、食事、寝床、必要な装備などを買い手側で用意していただきます」
エルザが資料を見る。
「戦闘命令は、拒否できますか?」
「契約の範囲内であれば、原則として拒めません」
男の答えは早かった。
「ただし、買い手側にも維持義務があります。明らかに使い潰すことを目的とした命令や、食事や治療を故意に与えない行為については、市の契約監督所へ申し立てることができます」
完全に好き放題できる制度ではない。だからといって、命令を拒めないという部分が軽くなるわけでもなかった。
「ご希望される条件はお決まりですか?」
エルザを見る。既に帳面を開いていた。
「今の〈コンパス〉で必要なのは盾役だと思っています。盾に敵を抑え込んでもらい、私たちは遊撃として動く構成が良いかと」
俺はエルザの意見に頷く。
「俺もそう思います」
男に尋ねる。
「本人と話すことはできますか?」
「はい」
「前衛で、盾を使える方がいれば会わせてください」
「こちらへどうぞ」
◆
奥の広間には、何人もの男女が座っていた。服はどれも質素だったが、汚れたまま放置されている者はいない。買い手らしい人間が近づくと、座っていた者は立ち上がり、決められた姿勢を取った。案内役の男が何人かについて説明する。
元傭兵。元従士。大剣を使う者。盾を使う者。
得意なことだけでなく、古傷や維持費の話も一緒に出てくる。列の端に、小柄な女性がいた。灰色の簡素な服。茶色がかった髪は肩に触れるほどで、脇の一部を細く編んでまとめている。
傍らには、先端に厚手の布を被せた棒と、大きな革張りの盾。
棒は長さからして、訓練用の短槍だろう。
膝の上に置いた手には、硬いたこがある。左手首には、小さな黒い紋様のような印があった。それより気になったのは脚だった。左右で、ふくらはぎの太さが違って見える。
座った姿勢でも、右足だけ置き方が少し違った。
「こちらの方は?」
俺が聞く。男が帳簿をめくる。
「ヴェラです。元貴族家に仕えていた騎士家の娘で、短槍と盾、それに簡単な治癒術の訓練を受けています」
「右脚は?」
「古傷があります。足先の感覚が鈍く、筋肉も落ちています。日常の歩行はできますが、長く踏ん張ることや、急な切り返しには向きません」
そういうことか。見た目だけでは、どこまで動けるのかは分からない。
「価格も、その分低く設定しています」
右脚の具合が、そのまま値段の話へ繋がった。その言い方には、まだ慣れなかった。男は特に気にした様子もなく、ヴェラへ声をかけた。
「ヴェラ。お客様だ。立ちなさい」
「はい」
ヴェラはすぐに立った。先に左足へ体重を乗せ、右足を添える。それから背筋を伸ばした。灰色の目が、俺の胸元あたりへ向く。
リンはエルザの髪に収まったまま、静かだった。
◆
「ヴェラさん、とおっしゃるんですね」
「はい。ヴェラと申します」
「いくつか聞いてもいいですか?」
「はい。ご命令を」
質問のつもりだったのだが。一度だけエルザを見る。エルザも何も言わず、帳面を開いた。
「短槍と盾は、どういう使い方が得意ですか?」
「敵との距離を保ちます。盾で進路を狭め、後ろの者が動く時間を作ります」
「倒すより、止める方ですか?」
「はい」
「治癒術も使えると聞きました」
「はい。浅い傷や、軽い出血であれば」
俺たちにはありがたい役割かもしれない。ただ、本当に一緒に動けるかは、実際に見なければ分からない。エルザが尋ねる。
「右脚について教えてください。どんな動きが難しいですか?」
「平地をまっすぐ下がることはできます」
ヴェラは間を置かず答える。
「右へ続けて方向を変える場合、二度目が遅れます。足場が悪い場所では、何度も切り返すと右脚がついてきません」
「痛みはありますか?」
「あります」
「いつもですか?」
「長く使った時に増えます」
「その右脚にも、治癒術は使ったことがありますか?」
「はい。何度か」
「変わりましたか?」
「いいえ」
エルザが書き留める。
「実際に動くところも見た方が良さそうですね」
「はい」
ヴェラの返事は、そこまで一度も止まらなかった。何ができる。何ができない。どう動く。
聞けばすぐに返ってくる。だから、もう一つ聞いてみた。
「……ヴェラさん」
「はい」
「あなたは、ここを出たいですか?」
ヴェラの返事が止まった。さっきまで同じ高さにあった視線が、わずかに下がる。唇が動いた。声は出なかった。
しばらくして、
「……ご命令いただければ、出ます」
と答えた。横で、エルザのペンが止まる。開いた帳面に、次の文字は増えなかった。
「命令ではなくて」
俺は言った。
「ヴェラさん自身は、どうしたいですか?」
また沈黙した。案内役の男が口を開きかける。
「ヴェラ、お客様が――」
「すみません」
俺は男を止めた。
「本人から聞きたいです」
ヴェラは俺を見た。何かを考えているようには見えた。
けれど、その先の言葉は出てこない。やがて口が開く。
「……ご命令を」
それ以上は続かなかった。俺も、次の質問を出せなかった。




