第29話 水を硬くする
フィロスたちと別れ、そのまま冒険者ギルドへ戻った。配達の完了報告を済ませてから、窓際の卓へ座る。道具袋から《翠緑の円卓》の書簡を取り出してエルザへ渡す。エルザが書簡を開く間、リンは耳の上で白と薄緑の光を小さく畳んでいた。
「書簡、どうでした?」
「ミラさんから聞いた内容と同じです。新人向けの相談と支援制度の案内。面談は任意です」
「なら、明日行ってみますか」
「はい。私も一度、話を聞いてみたいです」
エルザは書簡を畳み、鞄へしまった。
「このあと、どうしますか?」
「試したいことがあります」
「何でしょう」
今朝の稽古の話をした。届かない相手を追って、前へ出て、あっさり止められたこと。エルザは聞き終えると、少し考えた。
「ノワールさんだけではありません」
「と言うと?」
「私も遠い相手には、あまりできることがありません」
腰の短剣へ手を置く。
「投げることはできますが、普段の短剣を失う可能性があります。外した場合の回収も必要です」
「弓は?」
「使ったことがありません」
「俺もです」
二人で少し黙った。俺は自分の手を見る。剣以外で、今使えるもの。一つしか思いつかなかった。
「水なら、飛ばせますかね」
「水魔法ですか?」
「はい。攻撃になるかは分かりませんけど」
エルザはすぐには答えず、俺の手と窓の外を見た。
「ここで試すのはやめた方がいいと思います」
「それは俺もそう思います」
「川辺へ行きましょう」
「賛成です」
◆
ギルドを出たあと、途中で簡単に昼食を済ませ、王都の南側を流れる川まで歩いた。人の少ない浅瀬を選び、荷物を少し離れた場所へ置く。リンがエルザの肩の近くを漂い、時々川面へ降りていく。
「まず、水を前へ出してみます」
右手を上げる。掌の上へ水を作り、そのまま前へ押す。ばしゃっ。
水は一応飛んだ。ただ、少し先の石へ当たり、きれいに弾けただけだった。リンが飛沫を避けて上へ逃げる。
ちりん。
「『みず』」
「水を知ってるんですか、えらいですね」
ちりん。
「何て?」
「もう言いません」
エルザが目を逸らした。たぶん、ろくなことではない。
もう一度やる。今度は少し速く。さっきより遠くへ飛んだが、結果は同じだった。石が濡れる。それだけだ。
「これでは止まりませんね」
「ですよね」
「目に入ればちょっと嫌かもしれません」
「攻撃手段としては弱すぎません?」
「はい」
即答だった。俺は濡れた石を見る。水は当たった瞬間に広がってしまう。広がらず、そのままぶつかればもう少しましなのだろうか。
「……硬ければいいんですかね」
「水を?」
「自分で言っておいて変ですけど」
水を硬くする。握って固めるような感覚では、うまくいく気がしない。しばらく水面を見ていて、ようやく当たり前のことを思い出した。
「凍らせれば硬くなりますね」
エルザが瞬きをした。
「できるんですか?」
「それは分かりません」
そこが問題だった。水魔法で水を出すことはできる。動かすこともできる。でも、冷やしたことはない。
「とりあえず、やってみます」
掌へ小さな水の塊を作る。
冬の朝を思い出す。冷たい水。製氷機の氷。氷嚢。指先へ残る、氷の硬さ。水が氷になることは知っている。知っているが、それを魔法でどうやるのかは分からない。
とにかく、冷たくなるように意識した。しばらく待つ。何も起きない。
「……変わりませんね」
「はい」
「もう少し冷たく……」
力を込める。水球が揺れた。形を保とうとすると、今度は冷たくする方へ意識が向かない。冷たさを考えると、水が崩れる。
ばしゃり。全部落ちた。
「難しいですね」
「……大きすぎるのではないでしょうか」
エルザが言った。
「大きい?」
「今、一度に全体を凍らせようとしていましたか?」
「そうですね」
「もっと小さければ、やりやすいかもしれません」
確かに。言われるまで思いつかなかった。
「試しにやってみます」
次は水をほんの少しだけ出した。指先の上に浮かべる。今度は形を作るより、冷たくする方へ意識を寄せた。
水の表面が白く曇った。
「……お?」
すぐに崩れた。指先を冷たい水が伝う。
「今、少し変わりました」
「ええ。私にも白く見えました」
もう一度。さらに小さく。冷たく。動かさない。
水の表面へ薄い白さが広がる。ぴしっ。
小さな音がした。触れてみる。硬い。
「できた」
その瞬間、薄い氷が割れた。中の水がこぼれる。
「……終わりました」
「でも、今は硬かったですよね」
「はい」
割れた欠片を見る。表面は固まっていたのに、中の水はそのままだった。
「今度は、中の水を動かさないようにしてみます」
「水をですか?」
「はい。できるだけ静かにして……真ん中から冷たくしてみます」
リンが近づいてくる。割れた氷の欠片の上を一度回り、すぐに離れた。
ちりん。
「『つめたい』」
「リンにも分かるんですね」
俺はもう一度、水を作る。今度は最初から小さな塊にした。揺れないように保ち、中心へ意識を寄せる。
そこから冷たさを広げようとする。一度失敗。二度目も途中で崩れた。
三度目。掌の上に、歪んだ氷の欠片が残った。
透明ではない。中に白い筋が入り、形もいびつだ。それでも水ではなかった。指で触れても、すぐには崩れない。
「氷です」
「氷ですね」
二人で同じことを言った。なんだか少しおかしくなった。
◆
問題は、そこからだった。
「これを飛ばせれば、一応は遠くへ届きますよね」
「当たれば、ですが」
「まず飛ぶかどうかですね」
川辺の平たい岩へ向ける。掌の氷へ、さっき水を飛ばした時と同じ感覚で力を乗せた。ぽとっ。足元へ落ちた。
「……飛びませんね」
「はい」
二回目。今度は押し出す方へ強く意識を向ける。氷は前へ飛んだ。狙った岩とは全然違うところへ。水辺へ落ちて、砕けた。
「飛びました」
「飛びましたね」
「当たりませんでしたけど」
「はい」
喜んでいいのか分からない。
もう一度。次はもう少し前へ。その次は、もう少し狙って。氷が岩の手前まで届いた時には、次は当てられる気がしていた。
◆
「――さん」
もう一度、掌に水を作る。
「ノワールさん!」
名前を呼ばれて顔を上げた。
「はい?」
「そろそろ、日が傾いています」
言われて空を見た。木の影が、来た時よりずいぶん長い。少し試すだけのつもりだった。
「……何回やってました?」
「数えていません。十回は超えていたと思います」
覚えているのは五回目くらいまでだ。そこから先は、次の一回のことしか考えていない。
昔からこれだった。始める前に終わりを決めておかないと危ない。決めておいても、気がつくと過ぎている時もある。
それでも、もう一度だけ作ろうとして、頭が重くなっていることに気づいた。
水を作る。小さく保つ。冷たくする。固める。飛ばす。
一つずつなら大したことがないように思えるのに、続けると急に面倒になる。
「ちょっと休みます」
「そうしてください」
俺が岩に腰かけると、目線の先にエルザが立ってこちらを見ていた。それを見て気づく。敵だけ見て撃ったら、エルザが動いた先へ飛ぶこともある。
「……これ、二人で使うには射線も考えないと駄目ですね」
「そうですね。私も動きますから」
エルザが短剣の柄へ触れる。
「ノワールさんが撃つ時に、私が前へ入らないようにする必要がありますね」
「逆に、エルザさんがどう動くか確認するまで撃たない方がいいですね」
「それが安全だと思います」
「合図も決めます?」
「はい」
話してみると、試す前より面倒が増えた。
「実戦で使えるのは、だいぶ先ですね」
「まだ使える段階ではありませんからね」
「そんなにはっきり言わなくても」
「でも、当たりませんよね?」
「まあ……それはそうですけど」
手厳しい。リンがちりんと鳴いた。エルザはリンに向けて頷いた。
なんだったのか。
◆
河原の石へ腰を下ろした。水筒の水を飲み、手を握ったり開いたりする。疲れているのは腕ではない。頭の方だった。
指先が、わずかに震えていた。握り直すと止まる。開くとまた戻ってくる。腹の方も、昼は食べたはずなのに空いていた。
覚えのある感じだった。夜勤明けに、食べそびれたまま記録を書いている時の手だ。血糖が下がった患者の、震える指先も見てきた。
ただ、同じだと決めるのは早い。血糖が下がる心当たりはない。減ったとすれば、魔力の方だ。似ているというだけで、同じ物とは限らない。
「ノワールさん」
エルザが鞄を開けていた。
「甘い物はお持ちですか」
「持ってないです」
布包みが差し出された。中には干した果実が並んでいる。皺の寄った小さな塊で、表面に薄く粉を吹いていた。
「魔力を使った日は、甘い物を食べて休むと戻りが早いです」
「そういうものなんですか」
「そういうものなんです」
それ以上説明する気はないらしい。誰かに教わった話というより、自分でも試したことがありそうな言い方だった。エルザも、色々と試しているうちに無茶をしたことがあるのかもしれない。そう思うと、少し意外で、少し納得もした。
一つ摘まんで口へ入れる。噛むと、見た目より濃い甘さがきた。リンが布包みを一度だけ覗きにきて、すぐエルザの髪へ戻った。果実を食べようとはしなかった。
しばらくして、指の震えは目立たなくなった。腹も落ち着いている。ただ、頭の重さの方は残ったままだった。
「戻りましたか」
「震えは止まりました。ただ、もう一回氷にしろと言われたら、たぶん無理です」
「それは休んでからにしてください」
エルザは布包みを閉じ、俺の側へ置いたままにした。
「今日は、氷にできたところまでですね」
エルザが帳面へ書きながら言った。
「飛ばすのは一応できましたよ」
「狙った場所には届いていません」
「厳しいですね」
昨日まで、水は水のままだった。今日は、少しだけ氷になった。それ以上はまだできない。でも、何を練習すればいいのかは分かった気がした。
立ち上がって荷物を持つ。
◆
夕方、王都へ戻った。門を抜けたところで、エルザが鞄から円卓の書簡を取り出す。
「明日は、この場所へ行けば良いみたいです」
書簡の端に書かれた案内を指す。
「分かりました。朝、ギルドで待ち合わせますか」
「はい」
ちりん。
リンが耳の上から浮いた。
「今度は?」
エルザが少し困った顔をした。
「『おなかすいた』」
「まだ解決してませんでしたね」
「はい」
リンは俺たちの間を一度回って、またエルザの髪へ戻った。明日は《翠緑の円卓》。その前に、ミラから何か聞ければいいのだけれど。俺たちは書簡の場所をもう一度確かめてから、それぞれの宿へ戻った。




