第27話 二本の針
朝稽古で木剣を構えると、昨日より右肩が軽かった。
ドランの突きをかわし、返ってくる木剣へ備えた。今度は前へ出ようと急がず、肩にも余計な力を入れない。横からの木剣を受け流して離れる。
「止まれ」
言われて動きを止めると、ドランは俺の右肩を見ていた。
「昨日よりはましだな」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
「そうでしたか」
「力を抜くことばかり考えるな。動く時に動けりゃいい」
「はい」
よく分かってないが、とりあえず返事をしておく。教わる側なんて大体こんなもんだ。
「……お前、今、適当に返事しなかったか?」
「まさか」
危なかった。今日はそれ以上続けず、ドランは腰掛けへ戻った。
「仕事は?」
「今日は受けません。エルザさんと道具の整理をする予定です」
「ならさっさと行け」
「はい。ありがとうございました」
いつも通りだった。
◆
宿で汗を流してギルドへ向かうと、朝の混雑が落ち着いた一階の窓際にエルザがいた。耳の上にはリン。白と薄緑の光を小さく畳み、髪飾りのように収まっている。
卓には共用の短い縄と予備の布、火口箱などが並んでいた。
「おはようございます」
「おはようございます、ノワールさん」
ちりん。
「リンも、おはようございます」
ちりん。
今日は普通に返事があった。俺も持ってきた道具袋を卓へ置く。
「昨日のあと、何か分かりました?」
「リンの食事についてですか?」
「はい」
エルザが首を横に振った。
「ミラさんが詳しい方を探してくださっていますが、まだ返事はないそうです」
ちりん。
「『おなかすいた』?」
「いえ。『まだ』だそうです」
「分かってるんですね」
リンはそれ以上何も言わず、またエルザの髪へ収まった。
「では、先にこちらを片づけましょう」
「そうですね」
縄の傷みを見て、布の残りを数える。俺の物とエルザの物、それから二人で使う物。前より荷物が増えたせいか、並べてみると少し分かりにくい。
「これは共用でいいですよね」
「はい。縄と予備の布は共用で問題ありません」
「火口箱は?」
「私も持っていますので、これはノワールさんの物として分けた方がよいと思います」
そんな話をしていると、書類を抱えたミラが通りかかった。
「おはようございます。今日は道具の整理ですか?」
「はい。二人で使う物が増えてきたので」
ミラは卓の道具を見て頷いた。
「共用品なら、何か印を付けておくと便利ですよ」
「印ですか?」
「革札でも色紐でも何でも大丈夫です。ギルドの保管庫で預かる時も、他の方の物と見分けやすくなりますから」
エルザが縄へ目を向けた。
「確かに、今のままでは取り違えられても分かりませんね」
「職人区の革細工屋さんなら、小さな札くらいすぐ作ってくれますよ。刻印も頼めます」
そこでミラは何か思い出したように続けた。
「そういえば、固定パーティー名もまだ空欄でしたね」
「はい。まだです」
「名前を入れるなら、その印を使ってもいいかもしれませんね。もちろん、別々でも構いませんけど」
「ありがとうございます。相談してみます」
ミラは軽く頭を下げ、受付へ戻っていった。俺とエルザは卓の縄を見る。使い込まれていても、まだどこにでもある麻縄だ。
「どうします?」
「印はあった方が便利だと思います」
「名前も?」
エルザは少し考えた。
「……今日、決まれば」
「決まらなかったら?」
「革札だけ作ります」
「それでいきましょう」
◆
道具を片づけて職人区へ向かう。大通りには荷車が行き交い、露店から焼いた肉と香辛料の匂いが流れてきた。その途中、エルザが帳面を取り出した。
「実は、名称案をいくつか考えてあります」
「もうですか?」
「昨夜考えました」
エルザが胸を張った。嫌な予感がする。
「一つ聞いてもいいですか」
「はい。『王都東門登録二人組』」
エルザに任せきってはいけない。心底そう思った俺は、言葉を選ぶ。
「えっと……それ、名前というより帳簿の見出しじゃないですか?」
ちりん。
エルザがリンを見る。
「『ながい』」
初めてリンと仲良くなれそうな気がした。
「ほら。リンにも言われてますよ」
「では取り下げます」
決断が早い。良かった。
「他には?」
「『剣及び短剣混成――』」
「次に行きましょう」
俺も決断は早かった。
「まだ途中です」
エルザは少し不満そうに帳面を閉じた。
「では、ノワールさんにも案を出していただきます」
「そうなりますよね」
何かないかと周囲を見る。道の角には古い方角標が立ち、文字の大半が風雨で削れていた。東西を示す矢印だけが残っている。その前で旅人が足を止め、小さな方位盤と見比べていた。
「あれみたいなのでいいんじゃないですか」
「方角標ですか?」
「いえ、コンパスの方です」
エルザが旅人の手元を見る。掌の上で、細い針が小さく揺れていた。
「〈コンパス〉」
「短いですし、覚えやすいでしょう」
「はい」
エルザは一度だけ口の中で繰り返した。
「……良いと思います」
思ったよりあっさりした返事だ。
「え? 本当に?」
「先ほどの案よりは、かなり」
比較対象が悪すぎたなんて、口が裂けても言えない。
ちりん。
「『それ』」
「賛成ですかね」
「たぶん」
これで満場一致だった。
「では、〈コンパス〉で」
「はい」
エルザは帳面を開き、空いたところへ名前を書き込んだ。
◆
職人区の奥の革細工屋へ入ると、鞣し革と油の匂いが鼻を突いた。作業台の向こうで腕の太い職人が顔を上げる。
「いらっしゃい。何が欲しい?」
「共用の道具に付ける革札をお願いしたいんです」
職人は棚から小さな革片をいくつか取り出した。
「この辺なら縄にも袋にも付けられる。穴を開けて紐を通すだけならすぐだ。印も欲しいなら刻めるぞ」
「お願いします」
「どんな印だ?」
エルザを見た。名前は決まったが印までは考えていない。エルザは店先に吊られた丸い金具へ目を向けた。
「円の中に、針を入れられますか?」
「方位盤みたいなやつか。一本でいいか?」
エルザは少し考えたあと、首を横に振った。
「二本でお願いします」
「二本?」
「二人ですから」
なるほど。良い案だ。さっきのネーミングセンスはなんだったんだ。
職人がこちらを見たので、俺も頷いた。
「それでお願いします」
「向きは?」
そこまでは決めていなかった。職人が羊皮紙に円を描き、中央から二本の線を引いた。一方は十二時と六時の方向で、もう一本はそこから少し横にずれている。
「こんなもんか?」
エルザが覗き込む。
「はい。これがいいです」
「同じ向きじゃなくていいのか?」
「はい」
エルザはそれだけ答えた。俺も直したいところはない。色を入れられるというので、見本から銀灰色と暗い赤を選んだ。
「小一時間くらいかかる。その辺で飯でも食ってきな」
◆
近くの露店で平パンと煮豆を買い、木陰の腰掛けに座った。エルザが平パンをちぎる。その横で、リンがふわりと浮き上がった。
「食べます?」
エルザが小さくちぎったパンを差し出す。リンは近づき、一度その周りを回った。
ちりん。
「何て?」
「『ちがう』」
「パンに少し興味は示すんですけどね」
「食べたいわけじゃないんですよね」
リンは興味をなくしたようにエルザの髪へ戻った。まだ食べるものは分からない。俺もパンをちぎった。
「それにしても、名前を決めるだけで結構かかりましたね」
「ノワールさんが私の案を二つ却下したからです」
「採用したらもっと大変だったと思いますよ」
「なぜですか?」
「だって、受付で毎回最後まで言うんですよ?」
エルザが想像したのか、少し黙った。
「……〈コンパス〉で良かったと思います」
「俺もそう思います」
ちりん。
「……『よかった』」
エルザは平パンを口へ運びかけ、途中で止めた。少し間を置いて、そのまま口へ運ぶ。
◆
店へ戻ると、革札は出来上がっていた。
茶色い革の中央に、小さな円。そこから二本の針が伸びている。銀灰色と暗い赤。向きは少し違う。
「注文通りだ」
エルザが札を手に取った。指で刻印をなぞる。
「綺麗です」
「気に入ったなら何よりだ」
代金を払って革札を受け取った。店を出ると、エルザがもう一度日に透かしてみる。リンも興味を持ったらしく、革札の周りを回った。
ちりん。
「『きれい』」
「俺もそう思います」
エルザは満足そうに頷いた。
◆
午後、ギルドへ戻った。ミラの受付へ行き、保管されていた固定パーティーの登録票を出してもらう。
「名前、決まりました」
「まあ。何になりました?」
「〈コンパス〉です」
エルザも隣で頷いた。ミラが空欄に名前を書き込む。
「〈コンパス〉。これで登録しておきますね」
「お願いします」
受付印が押された。前と同じ乾いた音だ。それだけなのに、空欄だった場所へ文字が入ると少し違って見える。エルザも控えを見ていた。
ちりん。
「リンさんは何と?」
ミラが質問した。
「『こんぱす』」
「覚えましたね」
「はい」
ミラが笑いながら登録票を片づけ、カウンターの下から一通の書簡を取り出した。
「それと、ちょうどお二人が来たので。こちらも預かっています」
差出人の印には、見覚えがあった。
《翠緑の円卓》。旧採石場の仕事を終えた日に、新人向けの炊き出しや装備相談の案内を受け取った。
「先日の案内の件ですか?」
「その続きですね。新人向けの相談窓口から、希望があれば一度話を聞きに来てほしいそうです」
「強制ではないんですよね?」
「もちろんです。都合のいい時で構わないとのことです」
書簡を受け取った。厚みはない。
「分かりました。あとで確認します」
「はい」
◆
ギルドを出ると、エルザは革札を取り出した。共用の縄へ革紐を通し、結び目の近くに留める。二本針の革札が小さく揺れた。
「これなら見分けられます」
「普通の縄じゃなくなりましたね」
「はい」
リンが降りてきて革札に留まろうとすると、札が傾いた。
「リン、そこは休む場所ではありません」
ちりん。
「『ここ』」
「気に入ったんですね」
しばらく粘っていたが、歩き出すと揺れるのが嫌なのか、リンはいつものエルザの髪へ戻った。
「では、書簡のことは明日相談しますか?」
「そうしましょう。今日はもう十分決めました」
「そうですね」
エルザは控えを鞄にしまい、俺も革札を付けた共用の縄を道具袋へ戻した。
「では、また明日」
「はい。また明日」
エルザと別れて〈鈍色亭〉へ向かう。道具袋には二本針の革札を付けた共用の縄と、まだ開いていない《翠緑の円卓》からの書簡が入っていた。




